ご町内戦隊横一列 澤田よ永遠に…-2

 六角屋。
 銅版画家でもある遠山和樹が経営する喫茶店だ。入口が目立たない地下の店。気紛れな経営時間。コーヒー以外のメニューなし。それでも生計が立つのは、学生街にあることや隠れ家のような雰囲気の居心地の良さ、味の良さのせいだろう。
 しかし日曜日は客足も半減する。常連の学生達が来ないからだ。
 店は静かだった。五組あるテーブル席の一つに客が一人いるきりだ。遠山はカウンター内の折り畳み椅子を起こして座り、本を読んでいる。客は頬杖を突いて、壁一面(腰板があるので正確には壁半分)の絵を眺めていた。
 小さな丸レンズの眼鏡の奧の、物憂げな眼差し。漆黒の髪は目や頬にもかかり、顎にまで届き、その暗い瞳を隠そうとしているかのようだ。
 墓守は何かを思って目を伏せた。
 静かな時が、ただ、流れていた。
 その静寂を破って、店の外の扉がガチャリと開いた。複数の靴音に遠山は本を閉じて顔を上げた。───最初に店に飛び込んで来たのは伊野だった。遠山は「いらっしゃい」と微笑み、続いて入ってくる顔ぶれに目を丸くした。そして最後に現れた逢坂が店の入口に置いてあった看板とイーゼルを抱えていたのに眉をひそめた。
「どうしたの」
「すみません、店お借りします」
 諒介が答えた。墓守はフッと口の端だけで笑った。
「皆さん、その格好で列車に乗って来たんですか?」
 思い出すだけでも恥ずかしかった!
 しかしそんなことを気にしている場合ではない。逢坂が簡潔かつ的確に説明する。墓守は眉を寄せ、じっと動かずに聞いていた。そして彼が無言で頷くと、諒介は「佐倉から聞いて来たんですか」と訊ねた。
「いや…今日は偶々こちらに」
「偶々?」
「そう。偶々」
 彼はゆっくりと横を向き、暗い瞳を壁の絵に向けた。それ以上は訊ねて欲しくないようだ───諒介はそう判断した。
「…では、手分けして澤田の捜索にあたる。桜木さんと墓守さんは地理に不案内だから誰かと一緒の方がいい。僕が澤田の部屋を調べるからみんなは」
「僕が一人で行きます」
 逢坂が諒介の言葉を遮った。
「部屋の捜索に人手は必要だと思う。野宮君と顔見知りなのは僕だけだし、事態に気付かれないようにするならその方が自然です」
「…判った。僕と桜木さん、伊野さんと墓守さんで動こう。とにかくパニックは避けたい。…古田のためにも」
 最後の一言は溜息混じりの小声だった。
「携帯が使えるのも三人か。現状報告と確認はここに。遠山さん、よろしくお願いします」
「うん。いってらっしゃい」
 諒介が軽く頭を下げて出て行き、桜木は「いってきます」とその後に続いた。「じゃ、お願いします。行くぞ墓守」と伊野。二人も出て行くと遠山は声をひそめて「無茶すんなよ、ラジ」と言った。ラジと呼ばれた逢坂は、少し困ったような微笑で頷いた。




 その頃───
 部屋の窓から外の様子を窺った古田はフフと笑って窓を閉めた。
「どうやら彼らは僕に逆らう気らしいね。何の変化もない。…澤田、和泉は今頃おまえを探して走り回ってるよ」
「………」
 澤田は黙って古田を睨み付けた。精悍な顔の切れ長の目つきは鋭かったが、疲労の色が浮かんでいた。古田はリモコンを手にして操作しながら言った。
「恨むならバカな和泉を恨んでね」
 音楽が流れだし、知っているそのメロディに澤田は目を見開いた。古田はマイクを握った。
 よりにもよってその曲は、広末涼子のデビュー曲『MajiでKoiする5秒前』だった!
「ボーダーのTシャツのォ〜ゥ、裾からのぞくおへそォ〜ン」
「森本レオの声でコブシ回して歌うなあー!」
「しかめ顔のママの背中〜、すりぬけーてやってきーたハ〜」
「小指を立てるなああ!」
「渋谷はちょっと苦手ェ〜」
「踊るなああああああッ!」
 あまりにも酷い責めだった!
 激しく首を横に振って苦しんでいた澤田は「ぐはあッ」と嘔吐した。混濁する意識の中で彼は思った。
 ───こんな男が支配する世界など、考えてみたくもない。怖ろしい……
 古田は、自分より上背のある澤田に体力ではかなわないことをよく知っていた。頑健な澤田の弱点は、繊細な心である。
 そしてその弱点を容赦なく確実に突いてくる。
 その確実性───古田の完全主義が怖ろしいのだ。共に仕事をしてきた澤田にはそれがよく判った。見た目にはふざけていても、緻密に計算され構築されてゆく恐怖の世界が。
 ───由加。もし俺が戻らなかったら………
 愛する人の笑顔が脳裏に浮かんで消えた。




 アパートの大家に澤田の部屋の鍵を開けて貰って、諒介と桜木の二人は中に入った。一歩足を踏み入れて桜木は部屋を見渡し、「引っ越す訳ではないんだね」と言った。
 ───そう、ただ、居なくなるのだ。
 そしてこの部屋も町から消える。思い出になり、記録だけが残る。
 それがこの町に住む者のさだめ───そういうことだ。
 古田は運命に逆らおうとしているのか───と、諒介は思った。
 卓袱台にグラスが二つあった。飲み残したビール。これが警察ならば鑑識に回して指紋を採取したり薬物が混入されてないかと調べるのだろうが、誰かが訪ねて来た痕跡と見るだけで充分だった。几帳面な澤田が客の帰った後にグラスを片付けない筈はないからだ。
「やっぱりここで拉致されたんだろうな」
「争った形跡もないね。眠らされたかな」
 桜木がグラスを取って匂いを嗅ぐ。酒の匂いは薬の匂いを消してしまうことが判っていて無意味な行動だったが、そうせずにはいられなかった。
「ビールを飲むなら夜に来たんだろうね」
「まずい…。思ってた以上に時間が経ってる…」
「焦るな諒介」
 桜木の声は落ち着いていた。諒介の肩に手を置いて諭す。
「さっきのビデオ、部屋の光、あれは自然光の色だ。窓の影もあったし、薬で眠らせたなら彼が目を覚ますのを待って撮ったんだろう。あれは今朝だよ。大丈夫、彼はまだ元気だ」
「……うん」
 諒介は頷いて、拳をぎゅっと握って手の震えを抑えた。そして桜木に感謝した。ここまでどうにか平静を保って来たが、ビデオを見ていた時も椅子に縛り付けられた澤田を見た途端、他の物は何も目に入っていなかったのだ。彼はわずかに眉を下げて頼りなく微笑した。
「…ありがとう、桜木さん」
「いいってそんな。慣れてる」
 事件は慣れて良いものではなかった!
 床に落とし物はなかった。ジャンル別に整理された本棚の一段の半分がごっそりと抜き取られている。ここにはヒロスエの写真集やビデオがあったかな、と諒介は記憶を手繰った。ベッドの下を覗き込む桜木の声を聞きながらパソコンを起動した。
「間違いなく車を使っているね。ナンバーは判る?」
「判らない。…古田は家庭人だから夜中に外出はしないだろう。週末なら出張という言い訳も通らない、彼の仕事は」
 修正日でファイルを検索する。ここ一週間でいいだろう。メールは見たくなかったし、古田となら毎日会社で顔を合わせているからその必要もない筈だ。
「澤田を訪ねるのに自然な時間帯…夜なら八時前後か、眠らせて移動し、自分は帰宅する。そんなところか。やはり誰かの手助けが必要だな…古田の性格なら単独でやると思うんだが…」
 モニタを睨みながら答えた。殆どが仕事のファイルだ。次々と開いて、……マウスの上の手がぴくりとした。
 ウェブで調べたらしい。大阪の結婚式場の資料が幾つかあった。
 ───由加。
 二人が婚約したと聞いたのはつい先日のことだった。彼女への澤田の理解。じっくりと待ち、彼女の心の氷を溶かした根気強さ。それを成し遂げた深い愛情。
 由加を幸せに出来るのは澤田しかいない───
「……諒介!」
 彼ははっと我に返った。いつのまにか横に桜木が立っていた。
「どうした、ぼんやりして」
「ああ、…すまない…」
「古田の家に電話して、車種とナンバーを聞き出して」
「…え」
「どうせ諒介は上手くたばかるなんて出来ないから、この通りに喋るんだ」
 チラシの裏に質問の要領が書かれていた。
「…はい、古田です」
 案の定、妻の真紀子が電話に出た。その向こうで子供達の声がする。
「和泉です。え…と」チラシを見た。「古田君は」
 質問を主語に留めて、後は相手に言わせる。
「今朝早く出ましたけど。まだそちらに着いてませんか?」
 やっぱり、と桜木に頷いてみせた。古田は澤田の送別会に行くと言って家を出たのだ。
「電車ではないですよね、それだと」
 こちらは質問には答えない。
「ええ、車で行きましたけど」
「そ…うですか。どこに停めてるのかな。車種とナンバー教えてもらえますか。こっちで探しますから」
 どこを探すとは言わない。
 諒介はチラシの隅に車種と色、ナンバーを控えた。
「…何かあったのかしら…」
「もし何かあったら真っ先にそちらに連絡が行くと思います。ご心配なく。会えたら電話させます」
 これは予定にないセリフだった。
 話を終えてすぐ六角屋に電話する。野宮を訪ねた逢坂からは、手がかりを得られなかったと報告があった。自治会事務所のミオからも連絡はなく、異状なし。逢坂と伊野に古田の車のナンバーをメールで送って部屋を後にした。
 ───何としても澤田を無事に取り戻す。
「しかし諒介、どうやって古田の車を探す?どっちを見ても車だらけじゃないか」
 これが悪の異星人と戦う国家擁立の組織であるなら衛星の一つや二つ使って数分で見つけだせるだろう!しかし彼らはあくまで一つの町の自治会に過ぎなかった!
「地道に探すしか…」
「気が遠くなりそうだ」
 ぴるるぴるると携帯の着信音。伊野からだ。「はい和泉」と取ると、墓守の声がいきなり冷たく言い放った。
「何やってる。居るじゃないか、誰の言うことでもはいはいと聞く連中が」
 ───コビトさん。
「しかしコビトさんが大勢町を走り回ったら目立つ。何かありましたと宣伝するようなものだ」
 フ、と鼻で笑う音がした。
「佐倉内に何かあるのはいつものことだろう」
 諒介の目からウロコがぽろりと落ちた。
「大抵の人間は誰かに何かあっても自分に関係なければ気に留めないものだ。気に留めてないから何もないと思っている。毎日何処かで何かある。当たり前のことじゃないか」
「………」
「…無理はしなくていい」
 ふいに墓守の声のトーンが落ちた。乾いた砂に水がしみるような感覚───諒介は、ああ、と言おうとしたが声が出なかった。




 澤田は疲れ果て、椅子に縛られたまま、うつらうつらと眠っていた。
 一体どれほどの責め苦を受けたのか。その怖ろしい全容は明らかにしない。
 だが読者も気になっているだろう!ビールを飲んで寝入ってから拘束された澤田はトイレに行きたいであろうと!
 その問題は先刻解決したとだけ言っておこう!屈辱が澤田を打ちのめしていた!
 カチャリとノブを回す音がしてドアがそっと開いた。その気配に澤田は目を上げる力もなかった。「…今度は何や…」口だけで強がってみせる。「シッ」と小さな声にぱちりと目を開けた。
「…逢坂君…。どうやって…」
「今、縄解きますから」
 澤田の後ろに回る逢坂の後を、一体のコビトさんがちょこちょことついてきた。「こいつは?」と訊ねた。
「コビトさんはみんなの言うことを聞くから。誰も入れるなと命令されてたみたいですけど、説得して中に入れてもらったんです」
 下僕としてはまったく使えないコビトさんだった!
「……っ。すみません、固く結んであって…。もうちょっとですから」
 逢坂の手が震えていた。
「どうやってここが判った?」
「…古田さんの…歌う声が聞こえて…」
 澤田は、あれは外にまで聞こえていたのかとぐったりした。
 だが逢坂は、それをどこで聞いたとは言わなかった。
 彼は古田の発する波動を探し、それを頼りにここまで来たのだった。離れた相手ではそれが難しい。彼の精神力、体力共に、かなり消耗していた。通常なら、この方法で見つけることは不可能だったろう。
 今の古田は違っていた。
 目的の為には手段を選ばない。それほどまでに激しい感情が古田から迸っていた。逢坂がこの場所を見つけだせたのはそのためと言える。
 ───目が霞む……
 もう少しだ、と彼は自分を励ました。固い結び目はびくともしない。指先が滑る。彼はきゅっと目を凝らした。
「…逢坂君!」
「え?」
 部屋に飛び込んで来たコビトさんが勢いよくジャンプし、「テヤー!」と叫んで逢坂の顳かみに体当たりした。
 ───ガツッ。
 逢坂は声もなく倒れた。顳かみからつうっと流れた血が額に赤い線を引く。
「やれやれ、随分早くここをかぎつけたものだね」
 戸口に立つ古田の足元をすり抜けて、十数体のコビトさんが部屋になだれ込んだ。口々に「フホーシンニュー」「ゴヨ」「ゴヨ」と言いながら、気を失った逢坂を取り囲む。
「御用て、人のこと言えるのか!」
「さあね」
 古田はいつもと同じ地蔵顔で笑うだけだった。
「ほら、帝王の命令は絶対だから。そっちの裏切り者も一緒にお縄にしちゃいなさい。その人の携帯取り上げて」
 コビトさん達に体を起こされて、逢坂はゆっくりと目を開けた。先刻彼を招き入れたコビトさんがその膝に載せられ、二人まとめてロープで縛り上げられる。古田は携帯電話の履歴を確かめ「まだ連絡はしてないようだね」と電源を切った。逢坂はまっすぐに古田を見つめた。
「……和泉さんが極秘裏に動いているのは、あなたのためなんですよ」
「奴の言いそうなことだね」
「僕だってそうする」
「そうだろうね」
 古田は細い目をますます細めた。
「それも計算の内だよ」
「そのくらい読めます」と逢坂は古田を見つめる眼差しに力を込めた。
「それでもそちらの手に乗った。あなたは───ツッ」
 ぐらりと彼の体が揺れて壁に倒れ掛かった。古田はわずかに眉をひそめたが、
「澤田はあんまり傷つけたくないけど、君はどうでもいいのよ僕は。むしろ関係ないんだから首突っ込まなけりゃ良かったのに」
「…関係…ありますよ」
「ふうん?僕に従うなら平穏な生活を約束してあげるのに。何も僕は君達に奴隷か何かになれと言ってる訳じゃないのよ。これは……」
 逢坂の視界が暗くなっていった。遠退く意識に、古田の声だけがはっきりと響いた。
「和泉への復讐だ」
 ───とらわれの身となった逢坂!
 諒介への復讐とは!古田の胸に渦巻く怨念とは何か!
 そんな個人的な理由で世界は支配されてしまうのか!
 もはや一刻の猶予も許されない!急げ、横一列!!
 (つづく)