お江戸からくり橋騒動顛末之六




 嶋吉さんを訪ねるつもりだったんだな……
 方角や昨夜の出来事から、そう判断できるだろう。諒介は走りながら考えていたが、それにしても解せぬのは    
 なぜ、それを、御用聞きの嶋吉に話そうと思ったのか。
 つまりお由は勝鬨橋で出会った男に、何らかの事件性を見出していたということだ。おさきに似顔など描かせたのもそのためであろう。それゆえ、諒介はこうして走っている。解せないのは、『舟で寝る人』という一言だ。
 寝ていては舟を漕げない。『隅田川を遡る』ことは不可能だ。つまり舟を漕ぐ者と寝ていた者とが居たと考えられ、ならばお由の見たのは舟を漕いでいた方の者であろう。
     寝ていたのは誰だ?
 行方知れずの二枚目か。
「この辺りや」と澤田に肩を掴まれ、諒介は立ち止まった。
「お由さんはあっちから来て、目を離したのはほんのわずかのことやったから、そこら辺の路地に入った筈や」
 澤田が辺りの路地を幾つか指差す。
「なぜこんな所に…?番屋へ行くには道が違うし、嶋吉さんの住まいからも随分離れてしまったな…」
「何や時折背伸びしながら歩いとったが…すると誰かのあとをつけてたか」
「おそらくそうだろう」
 二人は息を切らして暫し沈黙していたが、
「あのバカ!」
「あのアホ!」
 同時に声を発して顔を見合わせた。肩で息をする諒介の額に貼り付いた前髪を伝って汗が流れ落ちた。それを見た澤田もこめかみから顎へと流れた汗を手の甲で拭う。諒介はすうと息を吸い、まっすぐに澤田を睨んで声を上げた。
「大体、なぜ昨日お由さんが芝居小屋へ行くのをとめなかったんだ!こんなことにかかわらせて、どうなるかくらい判るだろう!」
「俺かて何も知らへんで行ったんや!話を聞いたのもその後や!そもそもこうなったんは、おまえがお由さんに心配かけよるからやろ!」
「………」
「せやから俺は嶋吉さんに芝居の台本渡して、お任せすることにしたんや。やのに何でこないなっとんねん!」
 道行く人々がざわざわと二人を取り巻き始めていた。関西弁の大男の浪人と、おかしな風貌の男の喧嘩である。それは目立つ。異様に目立つ。江戸の華だから当然だ。もう笑っちゃうくらい目立っていた。
「ああ、やっぱり諒介さんだ。ちょっとどいて、見えないよ」
 人垣をかき分けて前に出たのは、おしんだった。手には切り花を抱えている。稽古の帰りらしかった。
「天下の往来で何をやってるんですか。喧嘩なんて諒さんらしくないですよ」
「……あ、ああ」
 諒介は俯き、手のひらで額をごしごしとこすった。
「お由さんがどうとか聞こえたけど、何かあったんですか?お由さんも今朝会った時、様子おかしかったし…」
 その言葉に二人は「えっ」とおしんを見た。
「どうおかしかったんや」
「嶋吉親分に用があるって、うちの前を通ったんですよ。それで、ちょっと寄ってってと言ったんだけど、急にふらふらあっと行っちゃったんです」
「急に?」
「ええ。知り合いでも見かけたのかなーって思ったんですけど」
「それだ!どんな奴だった」
「え、人が一杯いたんでわかんないですよう」
「この辺りで消えたんだったな、近くにいるかもしれない」
 諒介が再び走り出した。澤田と手分けして路地を探す。おしんまで「待ってくださいよ」とついてきた。
     どこなんだ。
 立ち止まり、眼鏡を外して目に入った汗を拭っていると、背後からおしんの声が「諒さん、あれ!」と呼んだ。
 振り返ると、おしんがお稲荷さんの方を指差している。駆け寄ってそれを見た。
 千鳥模様の巾着である。
「この巾着、お由さんのですよ!うちの店で買った物ですから間違いありません!」
 澤田も二人を見つけて「何かあったか」と走り寄って来た。諒介は「お由さんのなら中をあらためてもいいだろう」と巾着の口を開けた。
「これは   
 おさきの描いた似顔絵だ。
「……白井幸之助……」
「何?知り合いか」
「この男は今、材木問屋の古田屋に雇われている。芸者のお市ともつながりがある」
 それよりも、なぜこの絵で誰だか判るのか?
 小さな疑問を拭い去れない澤田(と作者)であった。
「古田屋…それに芸者か。役者が半分揃うたわ。二枚目の書いた台本にも御店と芸者が絡んで出て来よった。嶋吉さんが今それを洗ってる筈や」
「半分?…台本って」
 澤田は手短に、二枚目役者の書いた筋立てを話して聞かせた。
 主役は色男の人気役者。ある時、贔屓の客である大店の旦那の宴に招かれて、一人の美しい芸者と出会う。二人はたちまち恋に落ちた。その宴の主賓は幕府御用人であった。大店の旦那は袖の下を渡して便宜を図ってもらう。江戸から房総へと巨大な橋を架ける建設計画の    
「題名は『虹橋心中』や」
 一同、げんなりした。
 旦那に囲われていた芸者は、役者とともに駆け落ちする決心を固めるが、贈収賄の事実を知る二人は追われる身となってしまう。そして、
「もういい。その先はどーでも」
「アホの考える筋立てなんてこんなもんや」
 悪かったな。
「最近、古田屋がかかわった大きな建物と言ったら」
     勝鬨橋。
「間違いないな」
「問題は賄賂を受け取った大名の方や。こいつの方までは挙げられへんかもしれん」
「いいや、後回しでいい。今は……」
 二人は目を合わせ、逸らした。
     お由。無事でいてくれ。
「おしんちゃんは番屋へ行って、このことを矢島の旦那に知らせてくれ」
「はい!」
と、おしんは弾かれたように駆け出していった。
「で、俺らはどうする。古田屋か」
「ああ…」と諒介は吐息混じりに答えて頬の汗を拭い、「あ、」と言った。
「何や」
「おべんと、いつのまに落としたんだ…」
「このページに入った時にはもうなかったで」
 汗で落としたらしい。
 いい場面でおべんとつけてる訳にはいかないという作者の配慮であった。



 今は何刻だろう。店の支度しなくっちゃ……
 お由はゆっくりと目を開けた。
 見慣れぬ部屋。暗い。板張りの床にお由は倒れていた。床には木の粉がこぼれていて、起き上がる時、手のひらがざらざらした。
「痛っ」
 みぞおちが痛んだ。そうだ、あたしは確か黒い着流しの人を追いかけていて    
「いたい?だいじょうぶ?」
 幼い声がお由に呼びかけた。振り向いて目を凝らすと、そこには髪を長く垂らした童女が一人、ちまっと座ってお由の顔を見上げていた。
「うん。大丈夫よ」
 可愛い、と思って微笑みかけた。
「ここはどこ?」
「しらない」
「どうしてこんな所にいるの?」
「おじさんにつれてこられたの」
「…どこのおじさん?」
「…しらないひと…」
 童女は首を傾げて宙を睨み、困ったように答えた。
 お由も困り果ててしまった。幼すぎて、事態が飲み込めていないのだ。お由が「名前は?」と訊くと「めぐむ」と答えた。
「さとみがねむってしまってつまらないのです。あそぼう」
「ここに、まだ誰かいるの?」
 あっち、とめぐむが指差す方へ目を凝らした。だんだん目が慣れて来ると、横たわる人の形の影が浮かんだ。お由は駆け寄ろうと立ち上がり、何かに躓いて転んだ。
 何だろう、四角い棒っきれ    
 お由が転んだ音で、影が動いた。「めぐむ様?」と不安げな声だ。
 めぐむ……様?
「あ、あの、めぐむちゃんは大丈夫です。転んだのはあたし」
「誰?」
「あたし、由といいます。決して怪しい者ではありません」
 この状況下では誰もが怪しいのだということに気づいていないお由であった。
 手探りをして辺りを確かめながら近づくと、お由と同じ年頃の女人がそこにいた。彼女は里美と名乗った。お由は、昨夜の白足袋の主はこのひとだったかと得心が行った。
 里美はめぐむの世話係をしているのだと話し始めた。なるほど、めぐむの口調や、暗がりにぼんやり見える着物の様子から、ただの童女ではないことは判っていたが、聞けば藩主の息女であると言う。玉子菓子の似合う、やんごとなきお子様なのであった。
「それがなぜこんなことに?」
「私にも判らないのです。昨夜突然怪しい者どもが現れて、めぐむ様を捕らえました。私はその者の顔を見てしまったので、一緒に連れて来られたようです。殿が国にお戻りになられている時にこんなことになるなんて…」
 その一人が、あの目元に傷のある、黒い着流しの男だったという訳だ。
 明かり取りの小窓から月の光が射して、ようやく部屋の様子が見て取れるようになった。随分と天井の高い建物である。材木が置いてあるからだと判った。小窓は高い位置にあり、外を見ることはかなわないが、木場であるなら川沿いにあるだろう、とお由は考えた。土間に降りて戸に手を掛けたが、錠を下ろされたらしく開かない。
     何も言わず出て来てしまって、兄さんは心配してるだろうな……
 窓を見上げて、お由は思った。
「ゆうどの。あそんでください。さとみも」
「めぐむ様。ここには何にもなくて」
「あ、そうだ」
 お由は懐から手拭いを取り出し、端を噛んでぴりぴりと裂いた。木屑を拾い集めて包み、きゅっと口を絞ってお手玉を作った。歌いながらお手玉を投げると、「めぐむもやる」と手を伸ばしてくる。
「お由さん、すごい」
「へへっ、そうですか?」
 あたしには、こんなことくらいしか出来ないけれど。
 それでも、嬉しかった。
 こんな小さな子を怖がらせちゃいけない。大丈夫。きっと助けに来てくれるから。
 ……信じていよう。
 お由は、胸の内でそっと手を合わせた。



「二手に別れよう」
 諒介が、澤田に嶋吉と合流するように、自分は古田屋へ行くと言うと、澤田は不服だと答えた。
「白井が浪人なら、あんさんの嫌いなこの」と澤田は腰の刀に手を遣って「人斬り道具を持ってるやろ。丸腰で行くのは無茶や。俺が古田屋に行く」
「あなたがそれを持ってるから僕が行くんだ」
「何」
「生かしてお縄にするんだ。一人も斬る訳にはいかない」
「捕り方を待つ間に、お由さんの身に何かあったらどうする」
「そんなことは判っている!」
 声を荒げた諒介の肩を澤田はとんと突いて、「落ち着け」と諌めた。
「俺も人など斬りたくないわ。だがどうしても、という時はこいつを抜く。そうしなければ守りきれんのやったらな」
 諒介は唇を噛みしめて澤田をじっと見つめていたが、深く息を吐いて「判った」と俯いた。
「古田屋は任せる。だが抜くなよ。もしお由さんが無事なら、僕らが着くまで待っていてくれ。一人で踏み込めば、かえって何が起きるか判らない」
「そのくらい承知しとるわ」
「…頼む」
 顔も上げぬままそう言い残して走り出した諒介の背を見ながら、澤田はぽつりと「苦しかろう」と呟いた。
 一刻も早くお由の無事を確かめたいであろうに。
 そそっかしくて恥ずかしがりで、そのくせ人のためとなると大胆に行動し、不器用な分だけ何にでも必死の、お由。
 その健気さに、俺は    おそらくおまえも    心動かされるのだ。
     兄上、力を貸してくれ。今度は決して失うまい    
 遠くなった諒介の姿に背を向けて澤田が駆け出すと、路地の向こうから人影が一つ飛び出して、諒介を追うように同じ方角へと走り去った。