お江戸からくり橋騒動顛末之七




 何て足の速い奴だ    明かりのないこの路地で片を付けにゃ……
 懐から短刀を抜きながら足を速める。男は目の前に迫った諒介の背に向かって手を伸ばした。走って来た男の荒い息づかいを聞きつけて、ふいに諒介が振り返った。
 刃がちらりと月の光を映した。
 諒介は腕を横に振って男のみぞおちに肘鉄を喰らわせた。うッ、と男がうずくまる。その襟首を掴んで男を立ち上がらせた。
「……俺は今忙しいんだ。くだらんことで煩わせるな」
 諒介は頭から水を被ったように髪の先から汗を滴らせ、肩で息をしていた。取れる、と男は思った。諒介の腹を膝で蹴り上げ突き放す。諒介が膝と手を突いて転んだ隙に男は足元に落ちた短刀を拾うと、ふらりと立ち上がる諒介に向かってそれを構え、地を蹴って飛びかかった。



 がちゃり、と固い音をさせて、戸の向こうで錠が外された。その音にお由と里美は振り返り、急いでめぐむを背中の後ろに座らせた。
 がら、と戸が開き、一人の女の姿が月明かりに浮かぶ。
 手燭をかざして奥を窺う。炎に照らされて、その顔が見えた。
 お由は驚きに目を見張って女を見た。
「…お市さん」
 だから何であの絵で本人と判るのか。
「おやまあ、子供が二人に増えてるよ」
「えっ、どこ?どこどこ?」
 慌てて周囲を見回すお由に、お市は「あんただよ」と言ってがくりと肩を落とした。
「失礼ね!これでもあたしは年増なんだから!」
 虚し過ぎる反論だった。
 お市は妖艶な笑みを浮かべて中に入り、後に二人が続いて、戸を閉めた。手燭をお由に近づけて、じろじろと顔を見る。熱い、とお由は肩を竦めて、めぐむをかばって腕を後ろに回した。
「白井様もとんだどじを踏んだねえ。こんな小娘に見られるなんて。さっさとやっちまえば良かったのに」
 お市の大きな目を覗き込みながら、どうすればいい、と考えを巡らせる。
 相手は女だ、この手を払って逃げ出せば    いや、後ろに二人もいる、一人は男だ。幼いめぐむを危険に晒すことはできない。それにこの燭の炎が周りの材木に移ったりしたら    
「近頃何やらこそこそ嗅ぎ回ってたのはあんただったんだね。白井様のあとをつけて来たつもりだったろうが、こちとらお見通しさ。白井様は始めっから、あんたを捕らえるつもりで店からずっとつけてたんだよ」
 そう言うと、お市はすっと背筋を伸ばしてお由達を見下ろした。
「昨日、古田屋さんの店でうちの若いのを虚仮にしてくれたのも、あんたの一味なんだろう?」
「…古田屋…一味?」
「それはあたし達」
 突っ込みが細かい。意外と繊細なお市であった。
「あんたの店を見張っていたら、あの男が現れたって言うじゃないか。あんた達一体、どこまで知ってるんだい、白状おし」
「知りません!あたしは本当に何にも知らないんです!めぐむちゃんだって」
「とぼけるんじゃないよッ!」
 とぼけてなどいない。素ボケなのである。
 そんなお由の性格を知らないお市は、自己完結した。
「…まあいいさ。どうせこのまま、あの世へ行くんだから。あんたが何にも知るまいが、このお姫さんがここにいることを知っちまったんだからねえ」
「あ、あの!うちの店がどうとかって…」
 店には兄さんが、……それに、
「あの男、って誰なんですか?」
「決まってるじゃないか。あの、すっとぼけた顔に眼鏡をかけた男だよ。昨夜の口振りじゃ、あんたよりはいろいろ知ってるようだねえ。帰るのを見てみたらあんな優男、今頃とっくに始末されてるだろうよ」
     諒介さんが。
 がくん、とお由の体から力が抜けた。
 辺りがぼんやりと薄暗くなった。お市が背を向け、戸口に向かう。控えていた二人に「後はよろしく」と言って出ていった。
 月は高く昇ったのであろう、小窓から差す光はわずかで、お由には何にも見えなかった。
 その肩に小さな手が触れて、目の前にめぐむの顔がぼんやりと浮かんだ。
「ゆうどの。なかないでください」
     だから……だから行かないでって言ったのに。
「…バカ…」
 声に出すと、涙がはたはたとこぼれ落ちた。



 月次の店では暖簾を下ろして、月次とおさきがまんじりともせずにいた。
「兄さん、ごめん…。あたしがお由ちゃんの話をもっとよく聞いていれば…、諒さんを起こして引き留めてもらったのに」
「いいや。あいつがバカなんだよ」
 月次が卓の上に組んだ腕に顔を埋めた時、嶋吉が「月次さん」と飛び込んできた。
「お由さんの居所はまだ掴めねえが、きっと見つけだしてみせる。犯人の目星はついたんだ。今、諒さんと澤田様が探りを入れてる。見つけ次第、矢島の旦那とあっしが踏み込む。必ず無事に取り戻してみせるから、ここで待ってておくんなさいよ」
 言うだけ言って、くるりと背を向けてまた飛び出していった。その後ろ姿の腰に差した十手を、月次は呆然と見た。
「…畜生、じっとなんてしてられるかい」
 そう言って月次は炊事場に立った。おさきが「兄さん?」と尋ねると、「おさきちゃんも手伝ってくれ」と振り向きもせずに言った。
「皆さん飯も食わずにお由のために働いてくださってんだ。終わったらたんと食ってもらわねえと。大丈夫、きっと帰って来る」
 不安で何かせずにはいられないのだろう。月次は米を研ぎ始めた。



「…ゆかり姉ちゃん、それは?」
「酒」
 見張りに残った二人が、部屋の隅でこそこそと話していた。ちらり、と後ろを振り返ると、拐かして来た娘達は憔悴してじっとしていた。里美の膝に頭を載せてめぐむがうとうとと眠り、里美はめぐむの頭をそっと撫で続けていた。
 その横で、お由はただぼんやりとしている。
「こいつを飲ませてへべれけに酔ったところを川に落とせって古田屋さんの言いつけやねん。後生が悪いけど、刀で斬ったら一目で殺しやって判るやろ?事故に見せかけるんやって」
「ふーん?でも調べたらそないなことすぐ判るがな」
「誰がやったかさえ判らなければええの。酔って抵抗できなくなったところで、お姫さんを連れて来い、て」
 姉弟はまた娘達を振り返り、額を寄せた。
「俺、何や夢見悪うていややわ」
「辛抱しいよ、直人。これで借金帳消しになるんやから」
 姉弟は酒に向かってなむーと手を合わせた。
 その酒を手に近づくと、里美とお由は虚ろな目で直人を見た。
「こっ、これを飲め!」
 目一杯凄んだつもりだったが、気力を失った二人は何も反応しない。直人はゆかりを振り返り「姉ちゃーん」と情けない声で戻った。
「…まったくもう。ほな、あたしがあっちの小さいひとに飲ませるから、あんたはもう一人の方。胸おっきいひと、あんた好きやろ」
「…好きやからできへんのやんか」
 ぽっと頬を染める直人であった。
「ほんならあたしがあっちのひとね。胸も触っちゃおーっと」
「あ、あ、あ、俺がやる!」
 直人は里美を、ゆかりはお由を羽交い締めにした。「堪忍してやあ」と言いながら、口にぐい飲みを押し付ける。里美は首を横に振って抵抗したが、ぐい飲みになみなみと注がれた酒は里美の喉に落ちていった。お由は    
 抗う力もなかった。口の中に、慣れぬつんとした香りが広がり、喉がかあと熱くなる。体はふわふわとして、何がどうでも良くなった。
 このまま死んでもいいかも。
 こんなことになったのも、あたしのせいなんだもの。
 波に揺られるように体が揺れた。頭がぽーっとして何も考えられない。
     ああでも、
「直人、後は頼んだよ。お姫さん、お姉ちゃんといい所行きましょうねー」
「ええっ!俺一人で?」
 めぐむちゃんが………
 めぐむを抱えるゆかりの方に手を伸ばすと眩暈がした。お由はくたっと床に倒れた。



 澤田は通りの向かいの物陰から古田屋の様子を窺った。
 古田屋は雨戸を閉ざし、辺りは闇に包まれていた。ひとけのないのを確かめ、澤田は足音を忍ばせて走る。お由を閉じこめているのが屋敷の奥なら厄介だ……そう思いながら、裏手へ回った。立てかけた材木の間を通って、辺りを窺う。川縁に、背の高い建物が見えた。
     何だ?
 賑やかな笑い声が聞こえる。澤田は声のする方へと近づいた。建物の中に誰かいるようだ。壁に耳を当ててみた。
「まあ!もう一杯飲め!」
「あ、どーもー」
     これはひょっとして……
 お由はめぐむに尋ねた。
「…いつも、こうなの?」
「さとみはしゅらんなのです。ちちうえがいってました」
 里美さん、完全に目が据わっちゃってる。
 お由はふらふらと体を揺らして、酒を酌み交わす三人を見た。里美の豹変ぶりを見て、酔いも半分冷めたようである。里美は赤い顔で直人の顔を覗き込み、呂律の回らない舌で言った。
「それで?借金返すために古田屋の言いなりになって、あたしたちをさらった、っつーわけ?」
「ほんまは気が進まへんかったんです。本当にすみません」
「じゃ、あたしたちを逃がしてくれるー?」
「そないなことしたら俺らが殺されてしまいますー。お願いですから死んでください」
 そう言われても。
「大体、何でめぐむちゃんをさらったりなんかしたんですか?」
     お由さんの声だ。
 澤田は周囲を見回し、頭上に小窓があるのに気づくと足元にそっと材木を重ねてその上に乗った。薄く差す光を頼りに中の様子を窺った。
     いた。お由と、傍らに幼子、そして……あの三人は何だ?
 やけに楽しそうに見える酔っぱらいの三人だった。
「あ、もしかしてお市さんにべた惚れのお大名って……」
「そんなことありませんっ!村瀬の殿様は、そりゃもうご家族を大事にされる方なんだからあ。奥方の香奈様だって、そりゃおきれいで優しくて、お仕えしてるのがあたしの自慢なんですからねっ」
「へーえ。いいなあ」
「ええなあ。あたしも狸親父よりそっちがええわ」
 お由やゆかりが感心して言うと、里美は「でしょー?」と胸を反らせてわははと笑った。
「じゃあ、何で?あたしが連れて来られたのは判るけど…」
 お由が言うと、直人はがくんと頭を垂れた。ゆかりがぐい飲みをぐーっと空けて、ぷはっと息を吐き、
「あのおっさん、姫さんが好きやねん。可愛いー言うて、側置いときたいらしいで。まったく、女房子供おって、何考えとんねん」
「…それだけ?」
「うん。それだけ」
 ごごごと地鳴りがした。
「つまり……」震源の里美が口を開いた。
「つまりあたしたちは、狸親父の変態趣味のために拐かされたってことなのーっ!?」
 かくん、と澤田の顎が下がった。
 ……どーしても一人は変態なんやな。
 心の隅で誰かに突っ込む澤田であった。
「………許さん」
 きらーん。
 何かが光る音がした。ただし何が光ったのかは定かではない。
 里美は傍らにあった細長い材木を手にして、ゆうらりと立ち上がった。
「…そんな変態狸は、この長刀名人里美さまがあ、成敗してくれるわーっ!わははははははは!」
「…いつも、こうなの?」と、お由が尋ねると、めぐむはこくんと頷いた。
 酔った里美は誰にも(作者にも)止められないのだった。
「そうそう、そんな変態は女の敵やー!あはははは」
 どんな変態ならいいのか。
「…ゆかりさん、どっちの味方なの」
「あたしらは借金さえなくなればええんやもん」
 ゆかりと直人は手拍子を打って「さ、と、み!さ、と、み!」と熱い声援を送り、里美は棒っきれを振り回して「わーははははは!」と笑った。お由もめぐむも、何となく真似をして手を打っている。
 小窓からその様子を見ていた澤田は    
 すっかり脱力していた。
 酔っている。全員酔っている。これをどうやって助け出せというのか。しかしこのまま彼らが騒いでいては、誰か来るやも知れぬ。一人でも踏み込むべきなのか。
 とほほな気持ちで澤田が逡巡していると、がらっと戸が開いて、格幅の良い男が一人、中に入って来た。思わず鯉口に手を掛けて、じっと目を凝らす。
「楽しそうだねえ、フフ」
と、自らも楽しそうに現れたのは、地蔵のような顔をした若い男だった。