お江戸からくり橋騒動顛末之五




 翌朝、お由は店を開ける前に家を出た。
 勝手口の水瓶を姿見にして襟元をちょいと直し、かんざしの具合を確かめ、意味なく下駄の鼻緒を見遣り、千鳥模様の巾着を手にした。
 別段いつもと変わらないが、何となくめかし込んだような気分になって、お由は水鏡に向かって一人頷いた。
 かたかたかたと小走りで勝鬨橋を往くお由の下駄の音に、水鳥が欄干から一斉に飛び立つ。朝の空気は川面に冷やされ、橋の上には薄い霧がかかっていた。
 諒介のかわらばん屋の戸は開いていて、既に来ていたおさきが掃除をしていた。お由に気づくと「おや珍しい」と言って迎えた。
「…諒介さんは?」
「奥でまだ寝てるよ。まあったく、いつ戻ったのやら」
 二人は奥の間を覗き込んだ。布団も敷かず畳の上に横になった諒介はこちらに背を向けて眠っていた。おさきが掛けたものか、羽織一枚、頭の半分まで被って小さく寝息を立てている。お由はほっと息を吐いた。
「おさきちゃん、あの…」
「ん?なあに?」
 おさきは雑巾を絞って辺りを拭きながら答えた。お由はその後にくっついてまわりながら話した。
「…夜、舟の上で寝る人っているかしら」
「ああ、いるねえ。家のない人とか」
「…そうよね。いるよね…。でも、寝てる間にその舟が動いたら困らないかしら」
「困るかもしれないねえ。気が付いたら流されて海に出てた、なんてことになったらねえ」
「隅田川を遡ったら海には出ないわよねえ」
「山に出るわねえ」
 部屋中がきれいになったところで、おさきがくるりと振り返った。
「で、何かあったの」
「………」
 諒介に相談しようと思って来たのだが、きっとまた余計なことにかかわるなと怒られるのに決まっている。お市の一件とも関係ないことであろうし、それで諒介やおさきを煩わせるのもどうかと思われた。
 ただ、気になって仕方ないのは、あの男    
 こちらを振り返り、お由を見遣ったあの鋭い視線が、思い出されるたびに怖ろしいのだった。
「おさきちゃん、似顔を描いて欲しいんだけど」
「ん?いいよ、どうせひまだし」
 おさきが紙と筆を取り出すと、お由は男の顔を思い出しながら説明した。
「頬がちょっとこけてて、鷲鼻なの」
「ふむ」その通りに描く。
「目は大きくて」
「ふんふん」大きな黒い目が描かれた。
「眼光鋭いって言うの?」
「眼光ね」目の中に星が飛び散った。
「眉がこう、びっと」
「うんうん」その説明でわかるのか。
「でね、左目の横のところに、傷がぴっとあるの」
「ぴっ、と」
「わあ、そっくり!」
 そうか?本当にそうなのか?
 そんな作者の声は聞こえない二人であった。
「へえ、かっこいいじゃない。で、これ誰」
「…知らない人…」
 首を傾げて宙を睨むお由に、おさきは「は?」と肩を落とした。
 その似顔絵を巾着に入れて、お由は嶋吉の許へ向かった。
 諒介も無事に戻っていたし    あとは同心の矢島に任せておけば、きっと大丈夫なのだろう。それとは別にこの気掛かりを嶋吉に話して、皆の言う通りおとなしくしていれば良いのだ。じゃまはしないこと、それしか自分には出来ないのだから。
 人で賑わい、荷車の行き交う通りを急ぐ。昨夜の兄の剣幕に、黙って出て来てしまったのだ。店の支度もあるし、早く戻らなければ。
 呉服屋の店先を掃いていたおしんが、お由を見つけて手を振った。
「お由さん、朝から珍しいですねえ。どちらへ?」
 早起きのお由はイリオモテヤマネコより珍しいのだった。
「うん、ちょっと親分さんに用があって」
「嶋吉親分なら、さっき出かけましたよ。ねえ、ちょっと寄っていきませんか。新柄の反物が入ったんですよ」
「ごめんね。あたし急ぐから……」
 手を取って引っ張るおしんに、お由は首を振った。その視界の隅にちらりと映った、黒い着流し。
 お由は慌てて振り返った。昨夜のあの男の人    背伸びをして人混みの向こうを見る。おしんも「どうしたの?」と尋ねて目を凝らした。
 男は一瞬、あの大きな目をこちらに向けたようだったが、何事もなかったように歩き出した。お由もふらりと足を前に出す。「お由さん」と、おしんが呼び止めるのも聞こえず、目だけは男を捉えていた。
 昨夜の白足袋の足は    あれが一体何だったのか、嶋吉親分に話すのは、それを確かめてからでも遅くはないだろう。本当に、ただ舟で寝ていたというだけなら、それで良い。あたしはただでさえそそっかしいんだから……そんなことを考えながら、男のあとをついてゆく。昨日の反省が今日に活かされないお由であった。



 研ぎに出した刀が仕上がるのを待って、澤田はふらりと町を歩いていた。腰に慣れた重みがなかったが、不思議と気持ちは落ち着いていた。
 自分に剣術の手ほどきをしてくれた兄の姿が思い出される。
     武士の魂。
 なれば俺の心は太刀なり。
 研ぎ澄ませよ。俺よ抜け殻にはなるな。
 全身に意思の力がみなぎってゆくのを感じていた。俺は    俺だ。
 物思いに耽って歩く澤田をすれ違う人々が避けてゆくのは、その並外れて大きな身の丈のせいばかりではなく、人波の上から見下ろす眼差しや彼の纏う空気が、厳しく張り詰めていたからであろう。
     何だ?
 人波の中に、時折ぴょこんと上に飛び出す頭が一つ。波の上ではない。ないのだが、視点の高い澤田からはそれが見えていた。
 お由だった。
 歩きながら、時折背伸びをする。黒い着流しの男を見失わないよう、爪先立って首を伸ばすのが、ぴょこん、ぴょこんとした動きとなっている。それがおかしくて、澤田はくっと笑った。
 声をかけようと近づこうとすると、澤田の脚に何かぶつかった。子供がころりと転ぶのが判って振り返る。
「お、坊主、大丈夫か」
と澤田はしゃがみ込んで子供の顔を覗き込んだ。子供は何も答えず立ち上がる。怪我のないのを確かめて、澤田は「すまんな」と微笑んだ。
 子供が駆け出すのを見送って立ち上がり、お由の居た辺りを見る。どこまで行ったものやらと目を細めて遠くを見遣るが、角を曲がったものか、お由の姿はなかった。
 今時分どこへ行くのだろう    だが昼には店に戻るであろうと、澤田はさして気にも留めなかった。



 お由は黒い着流しの男との距離を保ちながらあとをつけて行った。歩くのが速いのもあって、片時も目を離せない。同じ通りを澤田とすれ違ったのにも気づかなかった。
 ふいに男が角を曲がって細い路地に入った。
 見失ってはならぬと追って走る。
 角を曲がると、誰かにどんとぶつかった。
「あ、すみません…」
と謝り、目の前にあるのが黒い着物の胸であることに気づいた。そっと上目で見上げる。太い眉の下の大きな黒い目が、お由の姿を映していた。男は「いや、」と答えた。
     どうしよう。
 お由は男の後ろに稲荷の祠があるのに気づいて、ぺこりと頭を下げると男の脇をすり抜けた。あたしはただお稲荷さんにお参りに来たんです    と、訊かれてもいないのに心の中で言い訳をしながら、賽銭を入れた賽銭箱の上の隅に巾着を置いて手を合わせた。
 男の視線を背中に感じる。立ち去る気配がない。
 どうしよう。誰か    
 お由は合わせた手に力を込め、目をぎゅっとつむって、男が去るのを待った。目の前の狐稲荷ではない誰かにすがりつきたい。胸でその誰かの名を呼ぼうとした    
 その時、ざ、と足を擦る土の音がして、お由は思わず後ろを振り返った。
 目の前が真っ黒だ。
 そう思う間もなく、みぞおちに鋭い痛みが走って、お由は気を失った。



「まったく、お由の奴どこへ行きやがったんだ!今日という今日は承知しねえぞ!」
 月次は怒りの炎の上で中華鍋を振り、チャーハンを作っていた。
 カツが「月次兄さん、新しい献立かい」とからかうのへ「うるせえっ!今日は面倒くさいからみんなこれだ!」と答えた。店内は人足達で溢れ、店の外にまで待つ客がいる。お由一人いないだけで、客をさばききれなくなっていた。おさきはその行列を端から端まで見て、店の奥まで行くと炊事場に声を掛けた。
「兄さん、お由ちゃんは?」
「知らねえよっ!何か用かい」
 ぼうっと火柱が上がる。兄さんが怖い、とおさきは思った。
「ううん、おにぎりこさえてもらおうと思って来たんだけど…大変そうだね、手伝おっか?」
「諒さんが待ってるんじゃないのかい」
「そのうち腹減った、って自分から来ますよ」
 そう言って、おさきはてきぱきと立ち働いた。お由三人分の働きに、月次の怒りの炎がおさまる頃には客も引けた。ようやくおさきの頼んだにぎりめしを作っていると、諒介が暖簾をめくって顔を覗かせた。
「腹減った…」
「いらっしゃい」
と、すっかりお由になりきって迎えたおさきを見て、諒介は「むっ」と唇を尖らせた。
「すまないねえ諒さん。飯出来てるから、そこ掛けてください。まったく、お由のバカのせいでおさきちゃんにも迷惑かけて」
「お由さん、どうかしたの」
 諒介は言われるまま腰を下ろして尋ねた。
「朝から姿が見えねえんですよ。どこ行ったんだか」
「お由ちゃんなら、今朝うちに来ましたよ。さっきはお客さんが一杯で言いそびれてたけど。諒さんも起きやしないし」
「僕んとこ来たの?」
「心配だったんですよきっと。開口一番『諒介さんは?』って訊かれましたからね」
 諒介は、ふうん、と目を逸らして軽く頷いた。月次は「そんでまだ戻らねえのか」と顔をしかめて茶を置いた。
「おかしなこと言ってましたよ。夜に舟の上で寝る人はいるかとか、舟が流されたら困らないかとか」
「舟?何だいそりゃあ」
「流される…?」
「あ、違う、隅田川を遡ったら、って言ってた。それと似顔を描いてくれって頼まれたんで、描きましたよ。結構な男前でねえ。これ誰、って訊いたら、知らない人ぉなんてとぼけてたけど」
 とぼけていたのではない。本当に知らない人である。
 素ボケのお由であった。
「それで訊いてみたら、何でも勝鬨橋で見かけた人だって。一目惚れでもしたの?って言ったら、やだもう、って言って真っ赤んなって」
「何ィ、許さねえぞ俺は!どこの馬の骨ともわからねえ奴に由をやれるか!死んだ親父やお袋に申し訳が立たねえ……うううっ」
「月次兄さん、まだそうと決まってないって」
 結局こういう兄であった。
「勝鬨橋……舟……。夜、舟で寝る人?」
 諒介は眉根を寄せて考え込んだ。口の端におべんとがついている。
「お由さんはいつ、その男と勝鬨橋で会ったんだ?」
「そこまでは訊かなかったなあ。でも案外、その人を捜しに行ってたりして」
「お由さんは店を放り出してそんなことをする人じゃない」
 しんと静まった。
「まさか、お由ちゃんに何か…」
「そういや昨夜…お由の奴、嶋吉さんに説教されて店飛び出してったんだった」
 月次は愕然とした顔だ。
「大方どっかその辺でべそかいてるんだと思ってたんだが、戻って嶋吉さんが澤田様のとこ行ったつったら、自分も行くって言い出して…」
「呼んだか?」
 皆が顔を見合わせていると、澤田がのっそりと店に入って来た。「俺の名前が聞こえたが」と諒介を見て怪訝な顔をした。腰には研ぎから上がった太刀を差している。それを見て諒介もむっと顔をしかめた。
「昨夜、嶋吉親分と何の話をした」
「あんさんとこの瓦版の件を調べるのはやめえ言う話やった。俺もそのつもりやったから、調べて判ったことだけ話して終いや」
 そう答えて、澤田は一同の顔を見回し「お由さんはまだ戻らんのか」と言った。
「澤田様知ってるの?お由ちゃんがいないこと!」
「え?ああ、さっき見かけたで?どこ行くんかと思ったが、人混みで見失ってもうた」
「それはどこだ」
と言うが早いか諒介は立ち上がると澤田の腕を掴んで表に引っ張り出した。「あっちや」と澤田の指差す方へと走り出し、澤田も彼を追った。
「どういうこっちゃ、お由さんに何があった」
「あいつはまた何も考えずに突っ走ってるのに決まってるんだ!」
 その通りであった。
「顔におべんとついとるで」
「弁当なら着いた先で食うもんだ」
 二人は隅田川を遡って駆けていった。