お江戸からくり橋騒動顛末之四




 夜ともなれば『月次』は仕事を終えて一杯ひっかけにやって来る人々で賑わう。
 ほとんどが馴染みの顔だが、たまに何も知らない初めての客が「よぅおねえちゃん、こっち来て座んなよ」などと手を伸ばすと    
 ぅばきっ。
「さわんないでよっ!」
 何も知らないというのは怖ろしい。
 嶋吉はそう思いながら、ひねりを加えて疾風の如く繰り出されたお由の拳を喰らってなすびそっくりに変形し青ざめた顔で倒れている客をまたいだ。
「嶋吉さん、こんばんは」
「お由さん、昼間、浅草行ったろう」
 嶋吉は直接本題に入った。お由は声をひそめて「兄さんに聞こえちゃいます」と横目で炊事場を窺った。月次は聞こえぬふりであるが、耳をそばだてている様子であるのが嶋吉には見て取れた。
「かかわるのはおよしなさい。大方おさきちゃんの影響だろうって、諒さんもそりゃあ心配してる。素人が生なかに首突っ込んで、何かあったらどうすんだい。あっしも諒さんも月次兄さんに申し訳が立たないよ。この件は矢島様も調べてくださってるから、きっと解決する。あっしらに任せといてくれな」
「……」
 お由は俯いて、前掛けの裾をきゅっと握った。目に涙が浮かんでいる。
「ごめんなさい、…あたし、じゃましてたんですね…」
 涙を堪えきれずに、お由は「ほんとにごめんなさいっ」と深く頭を下げると店を飛び出した。まだ倒れていて踏みつけられたなすびの客が「ぶぎゅるっ」と呻いたが、誰もそれに気づかなかった。月次が店に出て来て「すみません、親分さん」と詫びた。
「いや、何。諒さんに頼まれて来たんですよ。あの人はこういうこと、上手く言えない質ですからね」
 二人は「ははは」と力無く笑った。
 そして嶋吉は、月次に澤田の住まいを尋ね、そちらへと赴いた。話に聞いていた浪人は嶋吉の腰の十手に目を遣ると、「お上がりください」と促した。嶋吉は澤田の正面に座り、率直に言った。
「何やらお調べのようですが、これ以上は手を引いていただきたい。お由さんには話してないんだが、行方知れずだった男が見つかりましてね」
「大方、荒川にでも浮かんだのやろ」
「……なぜそう思われます」嶋吉は息を呑んだ。
 澤田は昼間、芝居小屋で貰った芝居の台本を差し出した。
「これや。噂の二枚目は自分で話を書いとったらしいな。見せ場で自分が引き立つよう、細かに書いてある。これはあの一座が次にやる新作らしいが、登場人物が妙にひっかからんか」
 それを聞いて嶋吉は慌てて台本を開いて斜めに読んだ。
「今日が前の芝居の楽日でまだ稽古に入っておらんやろし、騒ぎもあって読んでへんのと違うか。あの座長やったら、これ見たらピンと来る筈や」
「もしこの筋立てが事実に基づいてるとしたら…。これ、どうしました」
「………思い出したない」
 がくりと倒れる澤田であった。
     急がねばこの二枚目役者も、明日には荒川に浮かぶかも知れぬ。
 水死体は荒川に浮かぶものと決まっているのだった。
「いや、」と澤田は起き上がり、胡座をかいた膝に頬杖を突いた肘を載せた。
「お由さんのお手柄や。浅草へ俺を引っ張ってったのはお由さんやから」
「はあ?」
 目を丸くする嶋吉に、澤田はにっと笑ってみせた。
 その頃、お由は    
 泣いていた。
 泣くのならひと気のない橋かかわやと相場が決まっているのだ。そもそもかわやとは『川屋』と言って川の上に架けて作られたのであるから、橋と便所は親戚なのである。そんなことを知ってか知らずか、お由は橋の上で泣いていた。
 橋の中程にある番屋  船の往来を確認し、橋を開閉する番人の詰め所  の陰で、欄干に凭れて水面を見下ろす。番屋に一晩中灯る明かりが流れに映っていた。
 どうしてあたしは、いっつもこうなんだろう。
 お由はふと右手を見た。薄明かりに浮かんだその指先から手のひらへと、大きな傷跡がある。
 そそっかしくてこんな怪我をして、店の手伝いも大したことはできないし、元々器用でもないから、何をしても半端になってしまう。
     僕はね、………そういう、世の中のためになる瓦版を作りたいの
 諒介がいつも言うことである。
 あたしも誰かの力になりたいのに。
 その力はほとんど暴力に使われているという自覚のないお由であった。
 と。見下ろす川面に、舟の舳先が見えた。
 流れを遡って、舟が橋の下から徐々にその姿を現す。
 筵を掛けた荷が動いていた。思わず欄干に身を寄せて下を窺うと、はらりと筵の端がめくれ、そこに白足袋を履いた足が覗いた。
 声もなく飛び退いて後ずさる。下駄が、かた、と鳴った。
 進む舟の上には男が一人立っていた。お由の下駄の音に振り返り、橋を見上げている。黒い着流しは闇に溶けて、番屋から洩れる明かりに照らされた顔だけがぼうっと浮かび、大きな目がまっすぐにお由を見た。
 お由は慌てて走り出した。下駄はかたかたかたかたと橋を鳴らして足音が大きく響いた。店には嶋吉親分がいる    お由は『月次』に飛び込んだ。
 男は櫂を握りしめ、『月次』の店先の提灯明かりを確かめると、白足袋の足に筵を掛け直して再び漕ぎだした。
「親分さん!」
「むぎゅるっ」
「…あら?兄さん、嶋吉親分さんは?」
「澤田様のとこ行くっつって、とうに帰ったよ。それよりお由、そこどけ。お客さんが帰れねえじゃねえか」
 お由は「澤田様の?」と言いながら、謎の段差を降りた。
 それは先刻のなすびであったが、謎は謎のままにされた。月次は「このすけべ野郎、とっとと帰れ」と蹴飛ばして追い出した。
「ちょっと行って来る」と、お由は前掛けを外した。
「どこへ」
「澤田様のとこ」
「何言ってやがる!たった今、親分さんに言われたばっかりじゃねえか。おまえなんかが首突っ込んだって何にもなりゃしねえ。親分や矢島様の足手まといになるだけだ」
「だって兄さん、今」
「口答えするな。俺は聞く耳持たねえからな。いいか、今後一切かかわるなよ。おまえさえおとなしくしてりゃ、諒さんだって安心なんだ。俺だって……いや、もう店は終いだ。とっとと寝ちまえ、このバカが」
 そう言って月次が拳を振り上げると、お由は目をぎゅっとつむって身を縮めた。今のお由があるのはこの兄の拳があるからだが、無論その責任など、この兄は毛先程も感じていない。無自覚なところはそっくりな兄妹であった。
 月次はその拳を軽くお由の脳天に下ろし、店先の暖簾を外した。



     噂通りじゃないか。
 諒介は感心して、その料亭の門をくぐった。真っ白い塀と庭に植えられた竹にぐるりと囲まれて、中の様子は窺えない。いかがわしいねえ、などと思いながら、のんびりした声で「こんばんはあ」と入口から声を掛けた。女将と思しき女が一人、すうっと現れて、諒介の姿を頭のてっぺんから足の先までじろりと舐めるように見た。
 おかしな短い髪に眼鏡。着流しに、手には煙管。着物も高価そうには見えない。客として相応しくないと判断したのであろう、女将は慇懃に言った。
「生憎ですが、うちは予約をいただかないと」
「部屋は空いてるみたいだけど?」
と諒介は横目で下駄箱を示した。雪駄が三人分あるきりだ。懐から重たげな財布を取り出し、そこから小判を一枚抜いた。
「腹減ってるんだ」
 今にも小判を食べてしまいそうに唇に当てて言う。顔で笑いながら、目線だけは鋭く女将を射た。女将は「お待ちください」と立ち上がり、奥へと消える。それに聞こえるように、手の上で財布を軽く投げてはチャリンチャリンと音をさせた。
 上がってすぐに二階への階段。先刻周囲をぐるりと歩いて見た時に、二階部分は建物の半分しかないことを確かめていた。ならば二階と、奥座敷近くにもう一部屋。やくざな連中が用心棒に詰めているなら二間に分かれているだろう。三人なら何とかなりそうだ。諒介は奥へと通されながら柱の数を数え、部屋数を確認した。座敷の窓から外を見渡す。あの松を伝って塀を乗り越えられそうだ    無論、もしもの時の逃走経路を練っているのである。やくざどもとやりあうことなど、ミジンコ程も考えない諒介であった。
 やがて、酒や料理が運ばれて来た。後に続いて芸者が二人。これも諒介が女将に頼んだものである。一人が唄って一人が舞えば良い。実に効率的だ。
 芸者遊びは効率的にするものではないという発想のない諒介であった。
 諒介は窓辺に凭れて両脚を投げ出し、ふと首を反らせて夜空を仰いだ。
 うっすらと、天の川が彼の頭上に横たわっている。
 昼の暑さが嘘のように、今は涼しい風が吹き渡って、ふいに虫の音が彼を包んだ。
 静かだ。
 彼は頭を起こして傍らの膳の上の空いた器を見た。あんまり旨くないな、と彼は思った。料理の味は素材と料理する人の腕と場の雰囲気で決まるものだ。
 月次兄さんのみそ田楽が食いたい    諒介はふっと微笑んで、膳の上の箸を指で転がした。
 顔を上げると、舞いも演奏も終わっていた。芸者達はこの風変わりな男にどう対処していいか判らず、身動きもせずに呆然と彼を見ていた。諒介は「ああ、終わったの」と言った。
「旦那は唄はお嫌いですか」
「好きだよ」
 小首を傾げ、微笑んで言う諒介に、芸者はまるで、自分のことを言われたかのようにぽーっとなった。ふいに諒介がすっと立ち上がり、こちらへと近づくと腰を落として、耳元で囁いた    ような気がした。
「かしてごらん」
 諒介は芸者の手から三味線とばちをそっと奪い取ると、片脚を投げ出した格好で座り「ほら」と打ち鳴らした。
 ばちを持つ手を激しく動かす。一見でたらめのようだったが、それは不思議な旋律となった。
「ほら。ほらね」
 くすくすと笑って楽しげに三味を弾き鳴らし、ほんのひとふし、唄ってみせた。
 いい声    と、芸者達はぼうっとなって彼を見つめた。彼は手を止め、三味線を抱きかかえると顎を引いて上目で芸者を見た。
「僕の方がうまい」
 こきん。
 凝固した芸者達に、諒介は前髪を掻き上げ、笑顔でのうのうと言ってのけた。
「僕も芸者になろうかなあ」
「きゃあ、厭ですよ旦那ったら!」
 それは確かに嫌だ。
 芸者達は「もう、冗談がお上手なんだから」と笑い転げた。諒介は更に言う。
「でも僕うまかったでしょう?お市さんくらいの売れっ子になると思わない?」
 ならないならない。
 芸者達はあまりの腹筋の痛さに畳の上に果て、このバカ旦那、いや若旦那への警戒心をすっかり解いた。
「お市ねえさんは、あたし達とは別格なんですよぅ。お座敷だって、大店の旦那やら売れっ子の役者さんやら」
 ぶい・あい・ぴー、って奴ですか?
「そう、それ。大事なお得意様のお座敷にしか呼ばれないんですよ。…今、誰が言ったのかしら?」
 気にしないで話を進めてください。
「噂じゃあ何処かのお大名が、お市さんにぞっこんなんだってねえ。ねえさんがお座敷に上がるたんびに、やきもちやくそうじゃないか。それじゃあ、お得意様も減ってしまわない?」
「いいんですよぅ。古田屋さんがいらっしゃれば、お客さんが絶えることなんてありゃしないんですから。かのお大名のやきもちだって、古田屋さんがねえさんとの間に入って取りなしてくださってるんですよ。親切な方ですよ。気前もいいし」
     古田屋か。
 古田屋は大手の材木問屋である。主の古田稔右衛門は商才に長けた人物で、諒介とかわらぬ歳と聞き及んでいるが、父より受け継いだ店を今の規模にまで拡大したのはこの男だ。近頃では商売の手を広げ、ますます羽振りが良いと聞く。たとえばこの料亭も、古田屋の持ち物である。
 材木問屋が外から様子を窺えぬ料亭を建てて、人気の芸者や役者を呼んで    とくれば。ただならぬ人物を接待していることは容易に想像できる。自ずと噂になるというものだ。
 問題は、接待の相手である。決め手となるのはお市だが    
「けれどお市さんは浅草の二枚目と恋仲なんだろう?気の毒じゃないか」
「ああ、あれはその役者さんが勝手に思い込んでるだけですよぅ。ねえさんは何とも思ってりゃしないのに、迷惑な話ですよねえ。何て言うのかしら、ああいう人」
 すとーかー、って奴ですか?
「そう、それ。…二度目となると笑えませんよ」
「誰に言ってるの?ふうん、そりゃ二枚目が気の毒だな」
「気の毒なもんですか。さんざ付きまとわれて、ねえさんもすっかり神経がまいってしまって。古田屋さんがねえさんに護衛をつけてくださって、それでやっと諦めてくれたんですよ」
 この辺りは、おさきの調べで既に承知である。しかし古田屋とお市のつながりは思った以上に密接なものであるらしい。ここまで古田屋が絡んでいたことまでは、おさきも聞き出せていなかった。おそらく、かの大名は三枚目にもなれぬ脇役なのであろう。
 あとはにこにこと相槌を打っているだけで良かった。噂好きの芸者達は、諒介が「それで?」と促すだけで勝手に喋ってくれる。もっとも、このように口の軽い娘であれば重要な座敷に呼ばれる筈もなく、大したことは聞き出せないと承知の上である。
「その護衛をなさってるお方がまた大した男前でしてねえ。涼しい目許の横んとこに、ちょいと傷があるんですけど、それがまた渋くって」
「………」
 ふいに諒介が真顔になった。
 芸者達はそれに気づかず、「そうそう!かっこいいのよねえ」と言ってきゃあきゃあと騒いだ。
「お市ねえさんもどうやら気があるみたい……あらやだ、こんなこと言ったなんて内緒ですよ」
 諒介は「うん、判った」と、にっこり笑った。
 そこへ襖がすっと開いて、女将が顔を見せた。「お味の方はいかがでしたでしょう」と尋ねるのへ、諒介は両脚を投げ出したまま、両手を後ろに突いて答えた。
「飯が少し柔らかかったかな。漬け物は漬かり過ぎだ。甘鯛の酒蒸しは旨かったけど、あとはさほど」
 ぴきん。
 女将は瞬間冷凍された。
 これだから味の判らぬ者は困る。うちは一流の板前を揃えて一流の客を相手に、などと思っていると、
「どんなとこかと思って来てみたけど、商売っ気がないんだねえ。…ああ、商売っ気が違うんでしたね。僕は古田屋さんに招かれた訳じゃないし」
 よいしょ、と彼は立ち上がって、部屋を出ようとしたところで振り返った。
「つまんないよ。三味だって僕よりうまいひとでなきゃ。お市さんとまでは言わないけど…どうやら偉くないとお市さんには会えないみたいだしね」
 含み笑いでそう言い残して廊下を戻ると、彼の前に剃髪の大男が立ちはだかった。男は懐に手を入れ「何が言いたい」と諒介を睨んだ。
「どうだと聞かれたから正直な感想を言ったまでだよ。あんた板さん?甘鯛の酒蒸しは旨かったよ」
 下駄箱に目を遣ると、飲み食いの間に客が来たのであろう、草履が増えていた。一階にその気配はなかったのだから、二階に上がったようだ。二人。一人は女だな    声が聞こえていたろうか。やけに静かだ。
 ごちそうさま、と草履に足を突っ込んで、ふらりと店を出た。誰か見ているな……と思いながら、十間程歩いて角を曲がると、諒介は傍らの板塀に手を突いて背を丸め、「はあ」と溜息を吐いた。
     つ、疲れた………
 十年分の愛想笑いで顔が筋肉痛になった諒介であった。



 提灯をぶら下げて隅田川沿いにゆるゆる歩く。遠くに勝鬨橋の明かりが見えていた。風に柳がさわさわと揺れる。『月次』の雨戸が閉まっているのを見て諒介は、みそ田楽食い損なったな…と思った。風は川の面を滑り、ひんやりと心地よい。諒介は思わず唄など口ずさむのだった。
     あれは一体何だったのだろう……
 お由は眠れずに、ごろりと寝返りを打った。
 遠くで誰かの唄う声がする……お由は布団の上に起き上がって、耳を澄ましてみた。
 聞こえるのは虫の音ばかりである。気のせいかと思い直して床に就いた。
 その頃、澤田は長屋で瞑想していた。彼の前には、武士の魂があった。
 ゆっくりと目を開き、手を伸ばす。かちんと鯉口を切った。
 刀を引き寄せ、すーっと鞘から引き抜く。目の前にかざして検分した。わずかに錆が浮いている。研ぎに出さねばなるまい、と彼は刀を鞘に納めた。
 勝鬨橋を渡る諒介の唄声は川風に散って夜の闇に吸い込まれていった。