お江戸からくり橋騒動顛末之三




「……お由さん?」
「はい?」
「そっちは裏口やで?」
「そうですよ?裏にありますもの」
 お由はすたすたと歩いて裏口の前に来ると立ち止まり、くるりと振り返って、
「澤田様は、睨みをきかせててくださいね。こう、ぐぐーっと」
と、自分の眉尻を両手の指でぐぐーっと持ち上げて見せた。
 確かに。
 お由は「芝居見物に」ではなく、「芝居小屋へ行きませんか」と言ったのであった。
 浅草寺から程近く。仲見世の賑わいがここまで溢れて、芝居小屋は大層な人気であった。その正面入口の人混みを抜けて、ぐるりと裏に回った二人。
「…で、何をどうするつもりですか」
「………」
 お由の指が眉から離れると、眉尻はだらしなく下がった。
「どうしよう、考えてなかった」
「あああああ」
 澤田はがくーっと脱力してしゃがみこんだ。お由も「大丈夫?」と腰を落とす。
「要するに、何しに来たんや」
「えっとねえ、この」と姿絵を取り出す。「この人に話を聞きたいの」
「…この人て…」
 こんな人間はいないっちゅーに。
「名前は」
「ええと、こっちに…」と、お由は懐からもう一枚、瓦版を出して広げた。
「それは?」
「諒介さんの瓦版。ほら、先刻うちの店でお会いになったでしょう?」
「諒介?」
 あの、いけ好かない変な男か。
 澤田は「貸せ」と瓦版を取り上げて、急いで読んだ。くだらん内容だ、と思ったが、何か匂うと感じた。そう、これは……
「お由さん、どうしてこんなことをなさる?」
「えっ、だって…」
 お由は俯いて、膝を抱えると爪先の横の土を指で撫でた。
「さっきはあんなこと言ってたけど、諒介さんて、娘さんにきゃーきゃー言われたら、ろくに喋れないような人なんです。吉原の芸者さんなんかに囲まれたら、石になっちゃうに決まってます。それに…危ない目に遭うかもしれないし…。何かじっとしていられなくて」
 まったく。
 澤田は半ば呆れて、組んだ腕を膝の上に載せた。背中を丸めてお由の顔を覗き込むと、お由は今にも泣きそうな顔になっている。この瓦版によれば、お市に迫った男達の中の一人が行方知れずになっていて、諒介がお市の身辺を洗うために吉原へ繰り出すのであることは判った。「派手に遊ぶ」というのだから、自らエサになろうということも想像がつく。それゆえ、お由は心配でいてもたってもいられないのだろう。
     人ひとり隠せる程の力が背後にある。かかわらないのが賢明であろう。
 この役者に話を聞いたとしても、おそらくこの瓦版に書かれている以上のことは聞き出せまい。それでお由を納得させれば良い。
 澤田は立ち上がり「睨んでりゃええんやな。こうか?」と眉間に皺を寄せて見せた。お由はそれを見上げて、嬉しそうに笑った。
 二人は裏口に掛けられた紫色の暖簾をめくり、中を覗き込んだ。
「もう客は一杯だよ、どうすんのさ!」
「払い戻して帰ってもらうしかないよ。おこうちゃん、舞台からお客さんにお知らせして」
「いいんですか、座長!」
 二人は顔を見合わせた。
「芝居小屋の裏っかわって、すごい活気なのねえ」
「活気と違うやろ…これは」
「ふーん?ごめんくださーい」
 一座の面々は慌ただしく右往左往し、二人に気づかぬようだった。澤田がついと前に出て「御免!」と大声で呼ばわると、彼らはぴたりと動きを止め、澤田を注視した。
「それがしは澤田智之進と申す。舞台を取り止めるようだが、いかがなされた。ただ事ではないようだが」
 全員が   お由も   呆然と澤田を見た。
 張りのある声と鋭い目付きで問いただす様に圧倒されたのだった。
「………かっこいいっ!」
「…は?」
 かくん、と澤田の肩の力が抜けた。
「ねえねえ、よーっく見ると男前よね、お松ちゃん!」
「ほんとほんと。よーっく見ないとわかんないけど、男前だわ」
「大きなお世話や!」
「きゃーっ!困った顔も可愛いーっ!」
 がくぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ。
 こんな扱いには慣れていない澤田(と作者)であった。
「座長!このお侍様に、代役になってもらいましょうよ!」
「代役?」
「だーいじょうぶ。今日は楽日だから、今日だけですよ?」
「あらおこうちゃん、せっかくだから、次のお芝居にも出てもらいましょうよ!」
「うんうん!それいい!」
 両脇から腕をからめて勝手に盛り上がるお松とおこうに、座長が「およしなさいな、お侍様が困ってるじゃないの」と制して二人を澤田からひっぺがした。
「うちの者が大変失礼をいたしました。私は座長を務めます、杉と申します」
 芝居の取り止めが伝えられ、ようやく静かになった小屋の楽屋で、お杉は澤田とお由に座布団を勧め、話し始めた。
「うちはご覧の通り、男の役者が少ないんですよ。それで先程はあんなことを…。申し訳ございません」
 深々と頭を下げられ、なぜかお由が「あ、いえ」とお辞儀を返した。
「もうお判りでしょうが、うちの看板役者が姿を見せておりません。澤田様に代役を、と申しましたのも、その者のことでございます。お客様はその者が目当てでいらっしゃってますので、代役を立てたとしましても、芝居はめちゃめちゃになりましょう。ですから、取り止める他にございません」
 お松が「どうぞ」と差し出した茶を一口啜って、澤田は「もしやその役者は」と訊ねた。
「江戸じゅうの噂になっておりますゆえ、澤田様もご存知でしょう。吉原の芸者に入れあげて、私どももほとほと手を焼いておりましたが、何をしているのだか。醜聞も役者の箔と思って許して参りましたが、舞台を投げ出すようでは、もうこれまでですねえ」
と、お杉は呆れ顔で笑って、ふうと溜息を吐いた。
 お由は先刻から首の後ろがちくちくするようで、ゆっくりと振り返ってみた。
 少し離れて、娘四人    お松とおこうの他に若いのが二人増えて、うるうるの目で澤田を見つめているのだった。
「もう、あの小さいひと、じゃまよっ」
「澤田様の何なのかしら、あの小さいひと」
「大丈夫。お浜ちゃんの方があの小さいひとより可愛いわよ」
「おまちちゃん、あたしは別にそんな…。妹かもしれないし、あの小さいひと」
 全部聞こえてるんですけど。
 こんな扱いには慣れているお由(と作者)であった。
     収穫は、なしか。
 澤田は、これでお由も諦めてくれれば良いが、と思いながら「忙しい時にすまなかった」と頭を垂れて片膝を立てた。    その時。
 どかどかどかどかっ。
「澤田様!もうお帰りになるんですか?」
「またいらしてくださいねっ!」
「本当に次のお芝居に出てくださいな!はいこれ台本です!」
「あら?澤田様が消えた」
「…ここ」と、お由が指を差した。
 澤田は、四人の娘達の座布団と化して果てていた。



 一方その頃。
 まだ日は落ちぬ。諒介は御用聞きの嶋吉の住まいを訪ねた。「こんにちは」と戸を引くと、中には嶋吉が一人、十手を磨いていた。
「おや諒さん。…またですか」
「そりゃないよ親分さん。持ちつ持たれつでしょ、僕らは」
「はは、まあ、掛けなさって」
 諒介が上がりかまちに腰を下ろすと、嶋吉が茶をいれた。
「お雪さんはいないの?」
「浅草に芝居見物に行きましたよ。今日が楽日とか言ってたなあ、おしんちゃんと二人して朝から着物はどれがいいかなんて、うるっさくてかなわない」
「なあんだ。祝言から半月で、もう逃げられたのかと思った。その様子なら、すっかり尻に敷かれてるようだ」
「バカ言わないでくださいよ」
 ははは、と笑って諒介は眼鏡を外して手ぬぐいで拭いた。その横に嶋吉が胡座をかいて顔を寄せ、声を落とした。
「で、この前の行方知れずの男ですがね」
「うん」
「荒川に上がりましたよ」
「……」
 諒介は真顔になって眼鏡をかけ、黙って頷き、続きを促した。
「矢島様が今そちらを当たってます。男の住まいが新橋なもんで、あっしが行って来たんですがね。きれいさっぱり手がかりなし。見事なもんですよ」
「始末されたか」
「おそらくそうでしょう。だが吉原に通い詰めて遊興に耽るにゃ、奴はちんぴらだ。金蔓があった筈です。その証拠がまるっきりない」
「んー」と、諒介は頭をぽりぽりと掻いた。
「奴のようなちんぴらさんが集まる場所に心当たりは?」
「賭場が判ればとっくに踏み込んでますわ。諒さんの方が詳しいでしょう」
「先日の矢島の旦那と親分さんのご活躍で、今のところ静かなようだよ。賭場が開かれてるって話は聞かないね」
「……噂通りかな、こりゃあ」
「どうだろう。見て来るけど」
「無茶しないでくださいよ。あっしも旦那も気が気じゃない」
 苦笑いする嶋吉を、諒介は目を細めて見た。自分よりも年下の、この若き御用聞きが自分の身を案ずるのが、少々照れくさかったのである。
 から、と戸が開いて、お雪が「ただいまあ」と戻って来た。近所の御店の娘、おしんも一緒だ。
「あら諒さんいらしてたの?」
「雪、茶を入れ直してくれ」
「はい。諒さん、またですか?」とお雪は笑いながら草履を脱いで上がった。おしんは諒介と並んで上がりかまちに座り込み、「今度は何を調べてるんですか?」と興味津々で諒介の顔を覗き込む。そんなおしんに、諒介は「買って読んでね」とにっこり笑って答えた。
「二人とも着飾って、芝居見物だって?面白かった?」
「それが取り止めになっちゃったんですよ。もう、くたびれもうけです」
「取り止め?何で」
「主役を張ってた役者さんが、舞台ほっぽっちゃったんです。大騒ぎでしたよ」
「それは残念だったね」
「柄の悪いお客さんも来てたわねえ。怖かったわ」と、お雪。
「そうそう。下品な人達が『色男の顔見せろー』とか、『主役はどうした、吉原で腰立たなくなったか』って座布団が飛んじゃって」
 諒介と嶋吉は顔を見合わせ、すぐさま番屋を飛び出した。
 彼らが浅草に着いたのは、傾いた日が沈もうという頃である。嶋吉は芝居小屋の裏手から、紫の暖簾を翻して「御免よ」と飛び込んだ。諒介も後に続く。杉が驚きを抑えて丁重に迎えた。
「親分さんがいらっしゃるということは…うちの者が何か」
「いや、探してるんだ。心当たりはねえか」
「…とんとございません」
「奴の持ち物をあらためさせて貰ってかまわねえかい、一刻を争うんだ」
 逼迫した嶋吉の顔に何かを察したのであろう、杉は「こちらです」と二人を二階の部屋へ通した。衣類を詰めた行李をあらため、押入の布団の隙間に至るまで探ったが、手がかりとなるような物は得られなかった。嶋吉が訊ねた。
「最近、奴が誰かと接触してる様子はなかったかい?ずいぶんと金回りが良かったようだが」
「そうですねえ。ご贔屓のお客さんからお心づけを頂戴することもありましたから、それで懐具合は良かったようですよ。変わったといえば、今日はお侍様が訪ねて見えましたけど」
「お侍?」
「ひっつめ髪でいらしたから、無頼の身でしょうねえ。雲を突くような大きな方で、こけしみたいな小さい女の方とご一緒でした」
 がくん。
 諒介はうなだれた。
 何をやっているのだ、あいつらは。
 雲を突くような大男の浪人と小さいこけしみたいな女人の組み合わせなんて、そうそういるもんじゃない。
「くさいな」と十手の先を顎に当てて宙を睨む嶋吉の肩をぽんと叩いて、「親分、それ全然くさくない」と脱力した。