お江戸からくり橋騒動顛末之二




 その夜のことである。
 ぎい、ぎい、と隅田川を上って行く一艘の小舟があった。
 両国橋の方から下ってくるのは、提灯明かりを並べた屋形船である。手拍子を打ち鳴らし歌う声が水面を滑り、賑やかな笑い声は夜空にまでも響いた。やがて、二艘の船はすれ違った。
 その刹那    
 屋形船の船尾に立つ人影が、小舟の方へと腕を一振りした。
 小舟の底で何かがゴトリと音を立てたが、水音にかき消された。
 たったそれだけの出来事である。小舟はぎいぎいと船着き場へと向かって、ゆっくり川を上って行った。



 一夜明け、今日もまた勝鬨橋が跳ね上がる時刻、お由が店の前に打ち水をする。その姿に、遠くから「お由さん」と声をかけて近づいたのは澤田だった。
「皿を返しに来ました」
「ああ良かった、来てくださって。さあさあ早く入ってくださいな。はい座って、今、お茶お持ちしますねー」
 お由に背を押されて店に足を踏み入れ、座布団を勧められながら、澤田はお由の歓待ぶりに面食らった。
 お由さんは俺を待っていてくれたのか。
 思わず頬がゆるむ澤田であった。
 お由は炊事場へ湯呑みを取りに行き、月次の耳元で「良かったね兄さん、澤田様来てくれて。心配だったんでしょ?御挨拶して来たら?」と囁いてにこっと笑った。
 その天真爛漫な笑顔に、月次は「俺が澤田様に媚び売ってどーする…」という言葉を呑み込んだ。
 澤田の前に茶を置いてお由は「ご注文は?」と訊ねた。澤田が「いつもの」と答えると、お由が炊事場に向かって「塩にぎり定一人前ねー」と大声で言った。澤田は、これがいつも恥ずかしい。
 だが今日は他に客もいなくて良かったと思った時、背後から誰かが、よく通る澄んだ声で「僕もいつものー」と注文した。
 振り返った澤田は、その男の変わった様子にまた驚いた。異人のような短い髪、とぼけた顔に眼鏡をかけたその男、諒介はお由に「おはよう」と笑いかけ、澤田の隣の卓に着いた。
「もうお昼よ、諒介さん」
「んー?さっき起きたから」ふわあ、と欠伸を一つして頬杖を突く。
「遅くまで何してたの?」
「内緒」
「もう、諒介さんの秘密主義」
 唇を尖らせ上目で睨むお由に、諒介は目を細めてふふと笑った。
 それを横目で見ていた澤田も唇を尖らせ、面白くない気分で七味唐辛子の容器を覗き込んだ。
「はい、いつもの」と月次が飯を盆に載せ、それをお由が運んだ。
 澤田は思わず自分の飯と諒介の飯とを交互に見比べて、「お由さん、それ…」と指差した。
 諒介の皿の上には澤田の塩にぎりの五個分はあろうかという巨大なにぎりめしが載っていた。
「ああこれ?諒介さん専用三色にぎり定よ。中にシャケ一切れとタラコ一腹とオカカが入ってるの」
「いいでしょう」
 諒介が得意げに言って、澤田はカチンとした。
 何だこいつ、おかしな髪をして、とぼけた面して、お由さんにべたべたして、しかも専用定食まで持っているなど!
 諒介は「やっぱりシャケは皮がいちばんうまいな」と幸せそうに巨大にぎりめしを頬張った。澤田は胸の内で、「ふん、塩にぎりも同じ塩味や、シャケがそないに偉いもんかい」と塩にぎりを口に詰め込んだ。
「諒介さん、お味噌汁おかわりは?」
 お由さんが味噌汁のおかわりを訊いた!先に注文したのは俺やのに!
「ん、もらう」
 偉そうに言うな何様じゃボケ!
「澤田様は?」
「ん、ん、んん」
 口の中が飯で一杯で答えられへん!
 澤田はがくがくと頷いた。
 お由が二人の椀を盆に載せて奥へ消えると、口の中の飯を飲み込んだ澤田は「ほんまによう食うな」と沢庵をつまんでポリと噛んだ。
「腹が減っては戦が出来ぬ、ってね」
 諒介は湯呑みが空なのを確かめて、味噌汁はまだかと奥に目を遣った。
「ほー?戦か。そら勇ましいこっちゃ」
 こんな半紙より軽そうな男に、『戦』などと言って欲しくない。
 澤田はむっとして、これ見よがしに茶をずずずーと啜った。
「いいや?今夜はぱーっと派手に遊ぶんですよ」
 味噌汁をよそって戻ったお由がそれを聞きつけて「吉原?」と訊ね、諒介はにぎりめしの中のタラコに向かって「うん」と返事をした。
 俯いて椀を置くお由の顔が曇るのを、澤田は見逃さなかった。「ハハ、ほんまに勇ましいな。吉原に突撃かい」と皮肉った。
「僕は腰抜けなんでね、誰も斬りゃしませんよ」
「もうっ、何の話をしてるのよ!」
 ばくっ。
 お由の左拳が諒介の右頬にめり込んだ。彼はそのまま低速度動画のように倒れ、お由は真っ赤に染まった頬に両手を当てて「諒介さんのバカ!」と叫ぶと炊事場へと逃げ込んだ。
「…そんなつもりで言ったんじゃない…」
 諒介は倒れたまま、傍らの座布団を顔の上に載せて「くすん」と呟いた。澤田は「ほんならどーゆーつもりやねん」と楊枝を手にした。
「そのままの意味ですよ」と起きあがり、再びにぎりめしを食べ始めた。
「泰平の世もどこかめくれば血生臭い戦場だ。人が争い合う生き物である以上、それは絶えることがない。だが」
 手のひらについた飯粒をぺろりとなめとって、諒介は澤田の傍らに置かれた刀に鋭い視線を投げた。
「あなたはなぜそんな物をぶら下げている」
「……これは」
「あなたに必要な物だとは僕には思えません」
「…これは、武士の魂や」
「……」
 諒介は懐から煙管を取り出し、そこに煙草を詰めて火を打った。ゆっくりと煙を吐き出し、「それなら仕方ありませんね」と一つ頷いた。
「たとえそれが人斬りの道具でも、魂を置いて来たら体は抜け殻になってしまう」
と、袂から出した銭をパチンと卓の上に置いて立ち上がった。
「月次さん、ごちそうさま」
「はいよー」
 煙管をくわえて暖簾をめくり、諒介はふらりと店を出た。隅田川沿いにゆるゆると歩いていると、後ろからかたかたと走る軽い下駄の音が近づいて来て、彼は何の気なしに振り返った。
 かた、とお由が立ち止まる。
 諒介は「何?」と微笑んだ。
「諒介さん、あの……」
 お由は俯いて、目をきょろきょろとさせていたが、ふいに顔を上げて諒介をまっすぐに見た。
「行かないで、吉原」
 諒介は眼鏡の奥の目を大きく見開いてお由を見た。
 お由の手に昨日の姿絵が握りしめられている。その手に視線が注がれていることに気づいて、お由は姿絵を背中の後ろに隠した。諒介は首を傾けてふっと笑った。
「さっきの話、聞いてたんでしょう。大丈夫だよ。やられるようなへまはしないから」
と、お由のかんざしを指先でちょんちょんとつついて、くるりと背を向けるとまた歩き出した。



 『月次』に一人残された澤田は、しばらく動けずに宙を睨んでいた。
     魂を置いて来たら体は抜け殻になってしまう
 諒介のその言葉が、耳の奥で何度も繰り返していた。
 その通りや、と澤田は思った。
 澤田は久しく刀を鞘から抜いていない。武士たるもの、日々に手入れを怠ってはならぬのだが、面倒くさかったのだ。見てはいないが、おそらく錆び付いていることだろう。彼が最後にその鯉口を切ったのは、兄が自刃して果てた夜のことであった。
 兄は勘定所の役人を務めていたが、横領の罪を着せられ、郷里の家はお取り潰しとなった。兄とその妻・咲は無実を訴える遺言状をしたため、共にあの世へと旅立ったのである。両親は既に亡く、澤田家にはただ一人、智之進だけが残った。
 おのれ、憎き河上    
 兄の最期を看取った澤田は、すぐさま兄に仇なした河上総兵衛の屋敷へと赴いた。無論、河上とて澤田に智之進という弟があるのを承知しており、仇討ちに来るであろうことも予測していた。屋敷は厳重な警備を布かれており、澤田は近くの辻に潜んで河上が屋敷を出るのを待った。
 やがて    河上が姿を現した。
 夜の闇に、ぼうと提灯の明かりが浮かぶ。
 澤田は刀の柄に手をかけて、河上の目前に立った。深く息を吸って、低く訊ねる。
「河上総兵衛殿か」
「……如何にも。そなたの名は」
「澤田智之進」言いながら鯉口を切る。
 兄の仇、覚悟    口を開きかけたその時、
「何してはりますの?」
 提灯を掲げて近づく影があった。
 巻き込んでしまう    
 一瞬の躊躇いを見て取った河上が刀を抜いた。
 その後のことは、朧気にしか覚えていない。気が付くと、澤田は療養所にいた。
「僕が医者でよろしおましたなあ」
 恩着せがましいのかそうでないのか、河上に斬られた肩の傷の手当をするたびに、にこにこと繰り返す男の名は高橋と言った。あの場に通りかかった高橋が駆けつけたおかげで、澤田は河上にとどめを刺されずに助かったのである。河上と家来は高橋に顔を見られぬうちに逃げ出していった。
「はあ、仇討ちやったんですか。でもあれは無茶ですわ、後に二人も控えておったやないですか」
「俺は河上さえ討ち取ればそれで良かった。死んでも本望や」
「お止めして良かったと僕は思うてますよ。命あっての物種、言うやないですか」
     生きよ。おまえは生きてくれ。
 それが、兄の最期の言葉だった。
「兄上様も、澤田様が仇を取ったら後を追うやろ思うて言わはったんでしょうなあ」
     兄上。咲殿……
 澤田は一人密かに涙した。
 そうして傷も癒えて、彼は江戸に上ることを決めた。仇討ちに敗れ生き恥を晒すよりはと自害を考えたこともあったが、高橋の根気強い説得と、何より兄の言葉によって、今の澤田があるのだった。大阪を離れ過去のしがらみを捨て、新しい自分を始めた澤田だが、しかしそれが一体如何なるものなのか。
 澤田には、未だそれがわかっていなかったのである。
 家も断たれ、仕える主もなく、独りきりだ。
 武士の魂。そう呼ばれる物を身に着けることによって、彼は武士となり、澤田智之進でいられるのだった。
 ならば    
 澤田は刀を腰に差すとその柄に手を掛けた。
 取り急ぎ得た金で飯代を払い、店を出ると向こうからお由がほてほてと歩いて来るのが見えた。手にした紙片をじいっと見つめながら歩いていて、ぺしょっと転んだ。澤田はぷくと笑ってお由に近づき、身を屈めて手を差し出した。
「どうなさった、お由さん」
「あ。澤田様」
 お由は慌てて立ち上がり、裾の汚れを払った。澤田はお由の手の紙片を覗き込む。くしゃくしゃと皺の寄った、おさきの描いたあの姿絵である。お由もまたそれを見て溜息を吐いた。
「きれいなひとですよねえ。こんなひとがいるんですねえ」
「そーか?」
 こんな、顔の半分程もある目に星がいくつも瞬いているような人間などいないと思うが。とは、言わないでおいた。
「澤田様は吉原なんかいらっしゃらないからご存知ないかもしれないけど、お市さんっていって、今売れっ子の芸者さんなんです。唄や三味線の芸も一番で、あっちこっちのお座敷にひっぱりだこなんですって。その上こんなきれいなひとなら……」
 心を奪われるのも無理はない。お由はおさきの瓦版で読んだ、何人もの男達がお市を口説こうとして破れた話を思い出していた。
 それでお由はぼんやりしていたのか、と澤田は指先で軽く顎を掻いた。『吉原なんか』という言いぐさで、何を考えていたのかだいたい判る。
「…お由さん」
「はい?」
と、振り向くお由の顔をじっと見た。つぶらな目。丸い頬。低い鼻。今はちょっと拗ねて尖らせた唇。澤田は、幼い頃に飼っていた源二郎という犬を思い出した。
「お由さんは、可愛いですよ」
 きれいですとは言えない正直な澤田だった。
 そして言ってしまってから、澤田の脳裏に『月次』でお由に殴り倒されてきた男達の姿が過ぎった。
 殴られる。
 じりじりと後ろに下がる澤田であった。
 お由はかあと赤くなって、何も言わず姿絵に目を落とした。真面目な顔で「可愛い」などと言われたのは初めてだったのだ。
「あ、あの、澤田様?」
 場を取り繕うように、お由は明るい声で言いながら、姿絵を畳んで懐にしまった。
「良かったら、一緒に芝居小屋へ行きませんか?」
「芝居?」
「浅草で今やってるんです。一緒に行ってくださいな」
 お由さんが俺を誘ってくれている。これは、つまり、いわゆる……
 今で言うところのデートである。この時代だと、逢い引きって言うんですか?
 澤田が「あ、ああ」と頷くと、お由は「じゃ、兄さんにことわってきますねー」と店へ駆けていった。程なくして戻ったお由に「店はええんか、忙しないんか」と訊ねた。
「もう、全然ひま。さ、早く行きましょ。早く早くっ」
 お由に強引に引っ張られて、澤田は小走りになりながら「そうやったかな…」と呟いた。
 その頃月次は、店と炊事場を行ったり来たりし、店にぎゅうぎゅう詰めの男達の汗の匂いにむせかえりながら、「お由のバカヤロー!帰ったら承知しねえぞ!」と半泣きになっていた。