お江戸からくり橋騒動顛末之一




 エーンヤコラセー ドッコイショー
 辺りに男達の野太い声が響き渡る。
 隅田川に架かる巨大な橋のからくりが動き始めるがらがらという大きな音で、お由は『めし処 月次』と染め抜かれた暖簾を手にして通りへ飛び出した。
 勝鬨橋は今、二枚の葉のように、その中央部を開いてゆくところである。ぎしぎしと鳴る歯車仕掛けを動かしている男達のかけ声が続く。
 エーンヤコラセー ドッコイショー
 橋の向こうに船が近づいた。橋は船を迎えるように開いてゆく。
 その光景を見るのが、お由の楽しみである。巨大な橋が動く、それだけで感動する。そして勝鬨橋は意匠を凝らした美しい橋でもあった。その向こうの晴海の方には、青空に真っ白な入道雲が立ち昇っていた。
 店から月次が顔を出した。
「何だ、また見てるのか。毎日見てるのによく飽きないなあ」
「だって兄さん、これって昭和四十五年には見られなくなっちゃうのよ」
「豆知識の披露はいいから、さっさと支度しろ。あの橋が降りたら忙しくなるぞ」
「はあーい」
 お由は店先に暖簾を掛けて、水桶を取りに行った。それを見送って、月次は橋を振り返った。
 江戸の町もずいぶん変わったものだ、と月次は思った。船に乗って、様々な荷物と共に文化が運ばれてくる。可動式の橋は先年完成したばかりで、今や江戸の観光名所となっていた。
 その橋を目の前にしてあるのが『めし処 月次』である。勝鬨橋を動かす人足達や湾岸整備の大工達、観光客を相手に、店は繁盛している。まもなく昼飯時、月次の店を贔屓にする勝鬨橋の人足達がどっと訪れる時間だ。お由が店の前に打ち水を遣り始めて、月次は店に戻り、支度の続きを始めた。
 程なくして、人足達がやってきた。「いらっしゃい」と、お由が盆を手に店に出ると、今日も賑やかに馴染みの挨拶を交わす。
「今日も可愛いねえ。お由ちゃんがいると、毎日サバ定食でも飽きないや」
「あらやだっ、カツさんたら!」
 ぱこーん。
「もう、お世辞が上手いんだから」
 お世辞と言いつつ、お由は嬉しそうに頬を染めた。顔面に盆を喰らったカツが足元に倒れているのも気づかず、「兄さーん、サバ定5人前ー」と大きな声で注文を通す。そんな妹を、兄は炊事場から見てそっと溜息をついた。
 器量は十人並みで気だての良さだけが売りのお由を貰ってくれる懐の広い男はいないものか、それが月次の悩みであった。
 そういえばあの男、ここ数日見ないがどうしたろう。
 近くの長屋に住む浪人のことを月次は思い出した。貧乏浪人のくせに、お由目当てに通って来ているらしいのが目障りだったが、がさつな妹を見るにつけ、だんだん不安になってきた。
 昼の混雑が終わり仕事が一段落したところで、月次はお由に、男の様子を見て来るように言った。
「どうしたの、急に」
「毎日来てたのがふっつり来なくなるなんて、心配じゃねえか。行って見て来い」
 義弟になるかもしれない男である。というか、義弟になってくれそうな貴重な存在だ。これが婚期の最終好機、あの男を逃したら、俺は一生、お由の面倒を見なくちゃならない。保護しておかなければ。
 そんな兄の心などつゆ知らず、「たいへん」と駆け出してゆくお由の後ろ姿に、月次は「あれはもうダメかもなあ」と、また溜息をついた。



 月次の店から徒歩五分。お由の足でこけつまろびつ走って、やっぱり五分。走るのは無意味である。浪人の住む長屋の戸を叩いて、お由は声をかけた。
「澤田様。由です」
 返事がない。
「澤田様?いらっしゃらないんですか?…開けちゃいますよー」
 戸をすーっと開けて、お由は息を呑んだ。
 部屋中に散らかった張りかけの傘の真ん中に、男が倒れていた。お由は慌てて部屋に上がり込み、男の肩を揺すって呼んだ。
「澤田様!澤田様!」
 男の顔はやつれ、青ざめていた。うっすらと目を開け、お由を見ると「……お由さん」と弱々しい声で言った。
「澤田様……いやーっ、死なないでーっ!」
 倒れた男の胸に顔を伏せて、お由は泣き崩れた。
 ああ、お由さんが俺のために泣いてくれている。
 男は力を振り絞り、倒れたまま、腕を回してお由を抱きしめた。
 これが今生の別れになるなら、言っておかねばなるまい。
 男は深く息を吸って、想いのたけを打ち明けようとした。
 ぐぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。
「…澤田様?」お由が顔を上げた。
「…メシ、ください…」
 がくり、と男の腕が落ちた。お由は「待っててくださいね!すぐ戻りますから!」と飛び出していった。
 後には、お由の踏み散らかした傘の骸が残った。
 ……ああ、これで家賃も払えない。
 男は自分がまだ生きていることを呪った。



 この男、名を澤田智之進という。
 六尺もの長身にがっしりとした体つきが逞しく、腕も立つように見える。
「澤田様なら、仕官の職などいくらでもおありでしょうに。何も召し上がらずに倒れてるなんて、いけません」
 真顔で説教を垂れるお由に、澤田はふっと微笑んだ。にぎりめしを腹に入れて、ようやく笑う元気も出てきたところだ。お由の作ったにぎりめしはいびつで崩れやすかった。以前、お由は手を怪我し、以来握力が弱いのである。おそらく必死で握ったのであろう、そんなお由のにぎりめしだから、澤田は嬉しかったのだ。
 …破壊の限りも尽くしてくれたが。
 澤田は部屋の隅に追いやった傘の残骸を見ないようにした。
「月次さんにも申し訳ない。未払いの分の金が入るまでと、倹約してたんやが…」
「そんな、気にしなくていいのに。おなか空いたらいつでも来てくださいね。心配なさらないで、おあしは後でまとめてちゃーんといただきますから」
 お由はにっこりと笑った。
 素直に喜んでいいのかわからない。わからないが、よしとした。お由が笑っているなら、それでいいのだ。
「すまん。皿は、後で店の方に返しに行く」
 それを聞いて、お由は「はい」と笑った。澤田がまた店に来ると言ったので、安心して「それじゃ、あたしは店に戻りますから」と辞した。



 その帰り道、勝鬨橋の前に人垣が出来ているのを見つけて、お由は「あ、」とそちらへ駆け寄った。
「さあ買った買った、二枚目役者が恋の病でとんだ三枚目を演じたよ!この絵姿をご覧あれ」
 人垣の中央では壇に上ったおさきが、たすき掛けした腕を伸ばして瓦版の一部を高く掲げ、姿絵を皆に見えるように示した。
「お相手は当代人気の芸者お市、並べば絵になる美男美女。ところが世の中そう上手くはいかないのが常」
 思わず「よっ」と声を掛けたくなる口上だ。お由は人垣の後ろで、ぴょこんぴょこんと背伸びして、おさきと一緒にいる筈の諒介の姿を探した。
「さるお大名がお市に岡惚れしてるときたもんだ。お市に近づく男には、あの手この手で退ける。そこでこちらの二枚目役者、一計案じてどうしたか、それは読んでのお楽しみ。豪華四色刷りでこの内容、買って損はさせないよ」
 人垣の輪がおさきに迫って小さくなると、諒介が橋の欄干に寄り掛かって地べたに座り込み、煙管をくわえているのが見えた。お由は諒介に近づいて声をかけた。
「何やってるの諒介さん。おさきちゃん一人にお仕事させて」
「僕は色恋沙汰には興味ないんだ。こんなの読んで何が面白いんだか。おさきちゃんの絵が上手いのは認めるが」
と、諒介はふてくされた顔で、手にした姿絵をお由に渡した。件の二枚目役者と芸者は、背後に牡丹の花を背負って、きらびやかに描かれていた。それを描いたおさきはというと、瓦版と姿絵を求めて八方から伸びる手に揉まれ、「ちょいと諒さん、手伝ってよ!」と声を張り上げた。
「やだよ。おさきちゃん、それ全部売っといてね。僕はお由さんとこでお茶でも飲んでるから」
 諒介は呑気な声でそう言うと立ち上がった。眼鏡の奥のつぶらな目を細めてお由を見てにこっと笑い、額に下ろした前髪を掻き上げて、のんびりと歩き出した。
 彼は額を剃っておらず、髪も結っていない。お由は彼と初めて会った時、「どうしてそんな短い髪なの」と訊ねた。すると彼は「異人さんの真似。先進的でしょう」と答えて笑った。確かに、諒介の髪は日に透けると少し茶色がかっていて、異人の血が混じっているんじゃないかという噂も聞くが、真相は定かではない。
 いずれにせよ、この風変わりな男はとにかく目立つ。五尺八寸と背が高く、そのくせひょろりと痩せている。その体躯のてっぺんに、短い髪と眼鏡を添えた頭があるのだから、人混みの中でも目立ち放題である。その顔を見上げて、おさきが気の毒だ、と言おうとした時、お由は後ろからどんと突き飛ばされてべしゃっと転んだ。
「諒介さん、あたしにもくださいな」
「あたしも」
と、黄色い声を背中に聞きながらお由はのっそりと起き上がった。
「お由ちゃん、大丈夫?」
「…うん。平気」
 こけ慣れているお由であった。差し出されたおさきの手を取って、二人で諒介を振り返る。諒介は自分を珍獣か何かのようにべたべたと触る娘達に取り囲まれて閉口し、天を仰いだ。
「いー気味」
 おさきがフンと鼻息を吹いて冷たく言った。
「おさきちゃん、これ何とかして」
「知りませんよー。あたしはお由さんとこでお茶飲んでるからね。これ売ってれば?」
と、おさきは瓦版の束を諒介に押し付けると、お由の手を引っ張って人垣を抜けた。




 それから小半刻程で、諒介が月次の店に現れた。「ひどいよ、おさきちゃん」とむくれて腰を下ろした。
「諒さんだって同じことしようとしたじゃないのさ」と、おさきは茶を啜った。
「あれはおさきちゃんが作ったんじゃないか。おさきちゃんが売ればいい。僕はあんなのご免だよ」
「あんなのとは何ですか。ちゃんと全部売れたでしょ」
「あんなの、でばがめじゃないか。僕はね、隠された悪事を白日の下に暴いたりとか、事件の知られざる真相とか、そういう、世の中のためになる瓦版を作りたいの」
「何寝ぼけたこと言ってんのさ。この泰平のご時世に、大衆はそんなもん求めてないの。隣の誰かの秘密の方が、よっぽど気になるってもんよ。だから、こういう方が売れてんじゃない。次のネタが刷れるのも、このおあしのおかげでしょうが。そういうことは、自分のネタで売れた時に言ってくださいな」
 おさきに畳み掛けられて、諒介は「いや」「その」と口をぱくぱくさせていたが、とどめの一言で黙り込んだ。
 確かに、諒介の書く記事は少々堅苦しく、お由にも面白いとは思えなかった。そんな時には彼らの瓦版も、ほとんど売れないのだった。
「あーあ。何か面白いことないかなあ」と諒介は腰を下ろしていた座敷に上半身をごろりと倒した。
「諒さんやる?お市さんのその後を追うの。美人芸者、やりがいあるでしょ」
「僕はそういうの苦手なの。知ってるでしょう」
「お市さんって言ったら今や売れっ子だもんねえ。次はもっと刷らなきゃあ」
「聞いてないでしょう」
「お市さんに近づいて口説いてさ、こう、深く掘り下げて話を聞き出してよ。でばがめじゃなくってさあ、お市のつらい胸の内を赤裸々に書いたら、かのお大名だって諦めるかもしれないじゃない。諒さん好きでしょ、知られざる真実で人助け」
「変な省略しないでよ」
 諒介が寝返りを打つと、ふいにお由が口を挟んだ。
「あたしやろっか?おさきちゃん」
「何を急に」と、諒介は慌てて起き上がった。
「…何となく…」
「何となく、で、こんなことに首突っ込むんじゃない!」
 諒介が卓袱台を手のひらでバンと叩き、思わずお由は首を竦め、おさきが早口でまくしたてた。
「こんなこととは何さ、今売れるネタを追うのが、かわらばん屋の仕事でしょ。諒さんから見たらつまらないネタかもしれないけどね、当の本人にはそれこそ『大事』なんですよ。世のため人のためって言うんならねえ、どんなことでも『大事』と捉えなきゃいけないんですよ」
「はは、諒さん一本取られたねえ」月次が炊事場で笑った。
「でもな、お由。おまえが首突っ込む筋合いはないよ。それは諒さんの言う通りだ。店だってあるし」
 盆に徳利と猪口を載せて運んで来る。月次はそれを諒介の前に置き、「まあ、ゆっくりしてってください」と言って目配せした。『お由に、手出し無用と説得してくれ』ということなのだろう、と諒介は解釈した。
「どうせ諒さんは、あたしの書いた物なんて、ろくに読んでやしないんだから」
「読んだよ、ちゃんと」
「じゃ、ここ、どう思う」
「……」
 諒介はチッと舌打ちした。その下りは何度も読み返していた。だからこそ、この件にこれ以上おさきをかかわらせたくなかったのだった。
 横からお由が首を伸ばして覗き込む。
「一人、行方知れずになってるんだよ?いいのこれ放っておいて」
「そういうのは御上に任せておけばいい」
「ふーん。それで真実が隠されちゃってもいいんだあ、諒さんは」
「揚げ足を取るな」
 諒介は猪口を手にし、憮然と「わかった、そこまで言うなら、お市の方は僕がやる。おさきはうちで姿絵でも描いてなさい」と言って、酒を呷った。