服が乾く頃、部屋に入って私たちは顔を見合わせて笑った。少し日焼けしている。互いに指をさし「すごい、赤い」と意味もなく繰り返した。洗面所で自分の服に着替えて部屋に戻ると、諒介がチェストの横の壁に寄り掛かって座り込み、時刻表を見ていた。お世話になりました、と頭を下げると「いえいえ」と頷いた。
「澤田によろしく…って言ったらまずいのか」
とまたへなちょこな顔で笑う。やはり気になるのだろう。私は彼と並んで座った。
「由加が僕の所に泊まったなんて言ったら殴られるだろうな。澤田に殴られたらかなり痛そうだ」
「…澤田さんから何か聞いてる?」
「少し」
思わず赤面したのが自分で判った。諒介はそれを見てぷっと笑い「仕事が早い」と言った。
「何よそれ」
「いや…」と言ってクククと笑いながら転がった。愉快そうに目を細めている。私は以前にもこんな事があったな、と思って彼の顔をまじまじと見た。
「…何?」
「前に、私の部屋でも転がって笑ってたなと思って…二月に東京へ戻った時」
『しばらく放っておいてもらえませんか』
私の右手を見て何がおかしいのか、そう言って彼は笑っていたのだ。
いや、彼は私の怪我を笑うような人ではない。
だからそれがずっと不思議で、訊いてみたいと思っていたのだ。
「何がおかしかったの?」
「……」
諒介は眼鏡の奥の目を見開いて呆然とした。倒れたビクターの犬だ。私を虚ろな目で見ている。
「諒介」
「…はい」
彼はむくりと起き上がって、ぼんやりと投げ出した足の爪先を見た。私も見る。切り揃えられた爪。普通の足だ。私は彼の足と顔を交互に見たが、「変だよ。まるで…」と彼の顔を覗き込んだ。
「諒介が『居なくなった』みたい」
「え、」
彼は目をまんまるにした。驚きの表情で私をじっと見る。先程までの虚ろさはなかったが、ひどくなさけない顔だった。
私は口をぎゅっと結んで、諒介の顔をじっと睨み付けた。
「…何」
「諒介を見てる」
「…面白い顔だ」
「そう思う」
「いや、由加が」
「お互い様でしょう」
「お互い様だな」
しばらくじーっと睨み合った。私は本当はこんなふうに、じっと顔を見つめるのも見つめられるのも苦手だ。知らずと顔の筋肉に力が入ってしまう。不意に諒介が苦笑した。
「まいったな。そんなに楽しい顔かな」
「別に楽しくないわよ」
「じゃあ、何」
「諒介を試してる」
「え、」
諒介はまた目を丸くして驚いた。視線が右に左にふらふらと泳ぎ、フッと笑った。
「それは…失礼のないようちゃんと反応しないといけないね」
「今までのは失礼してたの?」
「うん」
私はがっくりとうなだれた。結局、いつもこうなのだ。「僕は由加を怖いと思っていないから、睨まれても怖くないよ」と笑われた。自分の考えの浅さに恥ずかしくなってしまった。あの時に諒介がぼんやりとしてしまった理由を考えて、「じゃあ」と顔を上げた。
「これならどう?」
私は諒介の目の前に右の掌を翳した。
思った通り、諒介は目を見開いて呆然と私の掌を見た。目だけを動かし私を見て「何てずるいんだ」と言うが、顔はぼんやりとしたままだ。
「おかしい?」
「おかしい訳がないだろう」
「じゃあ、この前は何で笑ったの」
「それは…」
諒介は眼鏡を外して目をこすった。その間も、私は手を下ろさずに彼の顔の前に右手を出していた。彼は眼鏡を持った右手をだらりと床に下ろし、私の手から目をそらした。眼鏡をその場に残してのそのそと床を這うと、ベッドの上に畳んであった毛布を引きずり下ろした。何をするのかと見ていると、彼は胡座をかいて座り頭から毛布を被って隠れてしまった。
「諒介、何やってるの」
「由加の真似」
「からかわないでよ」
「からかっていないよ。何だか毛布を被りたい気分だったんだ」
私は諒介の毛布テントの横に這って行き、ぺたんと尻をつけて座った。彼がじっと動かないので、「除幕式してもいい?」と訊いた。返事がない。
「暑くない?」
「実は少し暑い」
「…バカね。取るわよ」
ずるずる、と毛布を引っ張った。ぼさぼさになった頭を垂れて彼は足元を見ていた。諒介、と呼ぶと黙って首を横に振る。
「ごめん。そんなにスプラッタがだめだなんて」
彼はそれにも答えずに首を振った。顔が見えない。私はごろりと横になって、下から諒介の顔を覗き込んだ。
びっくりした。
頼りない顔で私を見る彼の目は潤んでいた。
自分が毛布を被りたい時も、やはり泣きたかったのを思い出して「ごめん、本当にごめん」と慌てて起き上がった。諒介は俯いたまま、やっと「うん」と答えた。
「由加」
「何?」
「…その、…もしまだテスト中なら…これが試験結果だと思ってもらいたいんだけど」
「うん」
「約束を破るけどいいかな」
「うん、いいよ、もう何でも」
本当に何でもいいと思った。
私にできる事なら、何でもしただろう。
諒介は左手を伸ばして私の右手首を掴むと、自分の頬に私の掌をぴたっと当てた。
「…何してるの」
「判らない」
「はあ?」
「こうしたい気分だった」
私は再び身を屈めて、俯く彼の顔を覗き込んだ。先程と変わらなかった。見ているのが辛かったので、私はまたゆっくりと身を起こして彼の頭のてっぺんを見た。
私たちはしばらく動かずにそうしていた。
ひなたでは洗濯物の影がゆらゆらと揺れ、日陰では私たちが身動きもせずにいた。
私たちがようやく外に出る気になったのは、揃ってお腹の虫が鳴き始めたからだった。新大阪駅へ向かう途中で昼食を採ろうと言いながら、玄関で立ち止まる。
今まで気がつかなかったが、私の靴はないのだった。諒介は「これを履きなさい」とコンバースを私の前に置き、下駄箱を開けてローファーを取り出した。しばらく履いていなかったのだろう、薄く埃が積もっていた。彼は座り込んで靴を拭き始めた。狭い玄関で、邪魔にならないよう一歩下がって終わるのを待つ。何気なく見た下駄箱の上に、それはあった。
それはガラス瓶だった。私は中身をよく見ようと、それに顔を近づけた。
見覚えのある青い石があった。青い石は肌色の丸い固まりと一緒に、半透明のカゴ状の入れ物にちまっと収まっていて、鳥の巣の卵のように見えた。
昨夜は明かりを消していたし、今朝は眠かったから気がつかなかった。以前、澤田さんが話していた諒介の工作というのはこれに違いない。もっと近付こうとして身を乗り出し、座り込む諒介の背中に寄り掛かってしまった。振り向きながら「重い。何をして…」と言いかけた彼は、靴墨の着いた布を手にしたまま、ぴたりと動かなくなった。私も彼の顔を見下ろして、瓶を指差し「これは?」と訊ねた。
諒介はかーっと赤くなった。
「鳥の巣でしょ?澤田さんが言ってた。思ってたより細かいんだね。さすが諒介、器用」
と言って笑いかけたのに、彼はまたその場にごろりと転がってしまった。
「それは…」
「何で鳥の巣なの?」
「その…」
ゆっくりと起きあがった諒介は伏し目のまま「卵みたいだったから」と言って唇を尖らせた。それが拗ねた子供みたいで、訊いて悪かったのかな、と思った。だけど別に、訊かれて困るような理由でもないじゃないか、と私の方が少し困ってしまった。彼は拭き終えた靴を履いてドアを開け、「穴があったら入りたい」と言って表に出た。それじゃ逆だよ、と思いながら私も急いで靴を履いて後に続く。
「それか、毛布を被りたい」
「どうして?私は嬉しいよ?最初は気持ち悪いだけだったあの石が、卵になって、きれいに見えて、生まれ変わった、みたい、究極の、リサイクル」
早足で歩く諒介と並んで歩きながら喋っていたら息が上がってしまった。彼はそれに気づいてやっと歩調を緩めた。人差指で鼻の頭を擦って、ぽつりと「生まれ変わった、か」と呟いた。
「これから生まれるんだろう。卵なんだから」
不意の沈黙。ぶかぶかの靴の踵が、歩くたびにポコンポコンと音を立てていた。転ばないよう、私は俯きがちに歩く。諒介が今どんな顔をしているか、判らない。
「…青い卵から生まれる鳥ってどんなかな」
「楽しみだ。鳥と出るか蛇と出るか」
「まんまだね」と突っ込んで顔を上げたら、彼は「むっ」と言ってまた唇を尖らせていた。
電車を乗り継いで新大阪に出て、駅の食堂街で遅い昼食を採った。自販機で新幹線の切符を買う。靴もなければ財布もない。お金は諒介に借りた。自販機にするすると吸い込まれるお札を見ながら、しみじみと、大阪は遠い、と思った。
新幹線のホームで自由席の列に並ぶ。長距離を往く列車の方が平日の昼間でも混むのだな、と妙な事に感心して見回すと、いかにも出張らしいビジネスマンや旅行者らしい人々の大きな荷物が目につく。荷物もなく、素足にぶかぶかのスニーカーを履いた自分がこの場に不似合いだった。私は唯一の持ち物である切符の角を撫でて、これが現実である事を確かめた。
まもなく東京行きの列車が到着して、デッキに向かう人たちに流されるまま、列から一人離れた諒介に言葉もかけられずに私も列車に乗り込んだ。デッキの端で振り返ると、彼は点字ブロックの向こうだ。頭にはお礼だのお詫びだのの言葉が次々に浮かぶのだが、大声でも出さない限り聞こえそうもない。乗客の列が切れても、彼はその場を動かなかった。ニッコリ笑って軽く右手を挙げただけだ。ただ頷いて突っ立っているだけの私は彼の目にどう映っただろう。とても間抜けな感じがした。
発車を知らせるメロディが鳴って、やはりお礼だけは言っておこう、とようやく思った。聞こえなくても口の動きで判るだろう。ありがとうの「あ」と大きく口を開けたところでドアがシューと閉まった。
とてつもなく間抜けな感じがした。
諒介が拳を口にあてて目を細めた。
間抜けだと思ったんだろう。
とてもなさけない気持ちになった。
諒介が何か言ったらしく、口がぱくぱくんと動いた。けれど動きが早かったので、何と言ったのか判らなかった。笑顔でひらひらと手を振る彼がすーっと横に流れて消えた。
空いた席に着いて、車窓を流れる街並みを眺めた。これが大阪。東京と何が違うのだろう。ぶかぶかの靴を持て余しながら考える。眠くなってうとうとしては、停車駅が近付いたアナウンスのたびに目を開けて窓の外を見た。京都、名古屋とそれぞれに都会らしい大きなターミナルと駅周辺にはビルがあり、どこも同じと言えば同じだし、それぞれにその土地の雰囲気も漂わせていると言えなくもない。こんな小さな窓越しには判らない。その街の事は、その街を歩いてみなければ判らない、もっと近付いてみなくては。私は大阪を知らない。
私は諒介を知らない。
腕時計を外した彼の左手首には、古い傷跡があった。
いつ頃のものなのか、うっすらした跡だったが、刃物で切りつけたような直線が手首を斜めに走っていた。私は右手を怪我した時の痛みを思い出して、ぎゅっと目を閉じた。
「ほらほら、」
と前のシートに座る誰かの声がした。連れらしい別の声が「富士山」と言ったので、私はゆっくりと目を開けた。
夕暮れの空の下、流れゆく山裾の風景の奥で、富士だけがゆったりと構えてそこにあった。
子供の頃のように。
懐かしかった。
いつまでも変わらない富士。
『誰かにとって変わらないものがあるような』
───諒介。
夢だと思っていた故郷。
帰りたかったんだ。懐かしかったんだ。会いたかったんだ。
富士に。家族に。
諒介に。
諒介に会いたかったんだ。
だから知らない間に落ちていたんだ。
涙で滲んだ富士を近い山の木々が覆い隠して、その後はもう富士は見えなかった。