ネスト・オブ・ウエスト-6

「パスタとワインもいいけど」
と里美はテーブルに湯気の上る料理を並べながら言った。和洋折衷の賑やかな食卓。二人では食べきれない程、皿が並んだ。
「日本人は肉じゃがとエビスビールでしょう!」
 もう酔っている。肉じゃがを煮込む横で飲み始めていた里美は赤い顔でワハハと笑い、「今日のために仕込んでおいた塩辛があるのよー」と言って冷蔵庫までふらふらと歩いていった。
 渋谷で観た映画の試写はラブロマンスだった。シートに腰掛けて貰ったパンフを広げ、あらすじを読んだ私は里美に「こういうのは彼氏と観た方がいいんじゃないの?」と訊ねた。実際、カップルで来ている客が多かったのだ。すると里美はくるりと丸めたパンフをぐっと握って答えた。
「この前、彼と二人でビデオを見たんだけど、人が感動して泣いてる横で、鼾かいて寝てるんだよ。信じらんない」
「それは…眠かったんじゃないかな…」一応のフォロー。「ビデオなら、今度、彼が眠くない時にもう一回観るとか」と私が言うと、ふくれっ面の里美は「そうか」とあっさり気を取り直した。
「やっぱり、感動を分け合える人と観たかったからさ」
 ニコッと笑って彼女はそう言った。『感動を分け合える』と言ってくれたのが嬉しかった。そうして私たちは試写の後、会場を出てから電車に乗っている間も、里美の部屋に着くまで感動を分け合っていたという訳だ。
 映画は面白かった。ハラハラしたし、コメディの要素もあって楽しかったし、最後の大団円はほのぼのとした心地になった。いつのまにか、諒介はこういう映画は好きなんだろうか、などと考えている自分に気づいて、がくんとうなだれてしまう。
 あれから十日経ったが、諒介の言った通り、私は『落ちる』事はなくなった。
 静岡の家族の夢と、諒介が出てくる夢も一度ずつ見たが、現実と明らかに違う。私が高校生で、学校に行く夢や、諒介がスーツ姿で築地にいて、澤田さんや古田さんと一緒に仕事をしている夢。落ちる理由がはっきりしたからだろう。肉じゃがを食べながら、母の焦げた料理が懐かしいと思っても、何も起こらない。
 食べ過ぎて苦しくなったところで、私たちはパジャマに着替えて布団の上でごろごろとし、一緒に雑誌など眺めて話した。インテリアのページをめくって、結婚後の部屋の想像を膨らませる。都内にある彼の実家近くに部屋を探すつもりだから、結婚してからもちょくちょく会えるね、と里美は言った。
「ソファなんて置いたら狭いよねきっとー。でも欲しいよう、欲しい欲しい」
と里美は駄々っ子の口調で写真を撫でる。私も呂律が回らなくなってきた。枕元に転がるビールの空き缶。私もごろりと寝返りを打って仰向いた。
「いいなあ里美は」
「なんでー」
「先の事を具体的に考えられるから。前に京都行った時もそうだったでしょ。ホテルだって、どこ見て歩くかだって、ぱーっと決めちゃって、そつがないんだもの。私だったら何をどうしていいか全然わかんないよ」
「由加が決めらんないから私が決めてんでしょー?仕切りババアも楽じゃないのよう」
「うっ」思わず枕を手にして顔の上に載せて隠れた。「すみません」
 パラパラとページを繰る音。里美が「また旅行しようかあ、ほら」と言うので枕をずらしてそちらを見る。旅行会社の広告ページを開いて「香港食べ歩きなんていいねえ」と彼女は笑った。
「…私、里美のそういうところが、ずっとうらやましかったよ」
 里美は顔を上げて私を見た。私は枕の下から続けた。
「未来に希望を持っていて、希望に対して何をしようか具体的に考えられて、行動できる、そういう私にないものをたくさん持っていて…」
 ───あの頃は白井さんがいて───
「…胸もおっきいしさ」
と軽く枕を投げつけた。私たちはクククと笑って、腹這いになって身を寄せた。雑誌をめくると今度は下着の特集。里美は「こんなんどうでっか」と謎の関西弁で補正下着を指差した。
「うん、私ってちょうどこんな感じでさあ…今を保つのに、寄せて上げるので精一杯なんだ」
「何それーっ」
 里美はごろごろと部屋の隅まで転がった。ヒーヒーと息を切らせて笑っている。そこまで笑わなくても。
「…ああ、うん、何となく判るよー。今、目の前にある事で手一杯って事ね。うん。…アハハ」
 そう言って息を整えると、匍匐前進で戻って来た。
「先の事を具体的に考えるってゆうのはさ、先が決まってないからでしょー。それは今の事で精一杯っていうのと同じなんだよ。今やりたい事が先にも変わらずにあるってだけの事なんだよう」
「今、やりたい事?」
「そう。その気持ちが変わらない、ってゆう確信があれば、それでいいの」
 里美はまたごろんと仰向けになって「継続は力なりィ。あれ?ちょっと違うかなー?」と言い、アハハと笑った。
 そうか。
 ずっと一緒にいられると信じられるから、里美は彼と結婚するのだ。
「由加のそうゆう感覚的物言いが好きなんだー。楽しいもん。寄せて上げるかよう、ハハハ」
 あー目が回る、と彼女は大きく息を吐いた。
「それってやっぱり私にはないものだからさ。私にはそうゆうのうらやましいよ。だから同じでしょー?今は先が見えなくってもさあ、そこから開けていくから、絶対」
 確信。
 里美には確信があるんだ。その上で、今私とこうしているなら、私たちはずっと友達でいられると確信して話をしてくれているんだ。
 嬉しかった。照れくさくなって、枕元のグラスに手を伸ばした。
「里美ィ、まだ残ってるよ」
「もうだめ、飲めませーん」
 里美は真っ赤な顔でうふふふふと笑い、笑ったまま目を閉じた。
 今、やりたい事。
 私にできる事は何だろう、とそればかり考えていた。『できる事』と『やりたい事』は違う。先が見えないのはそのせいかもしれなかった。
 私は何がしたいんだろう。
 諒介はやりがいがあると思える仕事がしたくて大阪へ行った。そしてそこでどんな生き方ができるかを考えている。
 今、私のしたい事は、右手を治して仕事に復帰する事。それは今だけの事だと思っていた。だけどここから未来が開けていくのなら、きっとそれでいいんだ。
 諒介と話したいな、と思いながら、雑誌のページに頬を付けた。飲み過ぎた、顔がほかほかする。里美の規則正しい寝息に誘われて、私も目を閉じた。



 『由加は大きくなったら何になりたい?』



 考えておく。



 諒介が自分の部屋で、パソコンに向かっていた。
 私はそれを後ろから見ていた。カタタとキーを叩く音が静かに続く。時折、彼は膝の上に載せた大きなファイルに目を落とした。きっと仕事だろうと思って声は掛けなかった。
 薄暗い部屋。今、何時だろう。
 後ろのベランダを振り向くと、締めきったカーテンの向こうは明るかった。再び諒介の方を向く。徹夜で仕事をして、朝になってもそのまま、という感じだった。
 諒介がふうと大きな溜息を吐いた。
 そしてゆっくりとこちらを振り向いた。
 彼は例の頼りない笑みを見せて「まいったな」と呟いた。
 この前会ったばかりなのに、懐かしい感じがした。
「…まいったのはこっちよ」
 視界がぼやけた。
 涙がぼろぼろと落ちて何にも見えない。
「諒介、私…」



 自分の声で目が覚めた。
 頭が痛い。どこかから「由加、起きたのー?」と里美の声がした。隣に里美がいない事をようやく理解して、隣のキッチンから呼ばれたんだな、と思った。程なく里美が「オハヨー。昨夜は飲み過ぎたねえ」とジュースのグラスを両手に一つずつ持って戻った。私は布団の上に起きあがって、差し出されたグラスを受け取った。
「何これ」
「にんじんのジュース。大丈夫、飲みやすいんだよ」
 飲み慣れないせいか匂いが少し気になったが、甘くて飲みやすかった。里美が作ったのだという。
「何か夢でも見たんでしょ」
「うん、変な夢…」
と答えて、ジュースを飲み干す里美をぼんやりと見た。彼女は「寝言が向こうまで聞こえたもん」と言って笑った。
 寝言が聞こえたという事は、私がここにいたという事だ。先刻の夢はやはり夢で、落ちてはいなかった、という事になる。ほっとすると同時に、少しがっかりした。
 …何を考えているんだろう。
 落ちない方が良いのに決まっているのに。
「ところでさ」と言われてジュースを飲みながら頷いた。
「りょーすけさんってどうしてる?元気?」
 思わずジュースを吹き出しそうになった。
「な、何で?」顔が熱い。
「いやあ、元気かなーって」
 里美は目の前に座り、ニヤリと笑った。
「…寝言って、私…何て言ったの」
「あれえ?寝言とりょーすけさんと何の関係があるのかなあ?」
「えっ」
「りょーすけさんの夢でも見たのかなあ?」
「……」
「あんな大きな声の寝言って、私、初めて聞いちゃったよ」
「…ねえ、私、何て言ったの…」
「ふ、ふふふ、ふっふっふ」
 里美は楽しげに笑うと、傍らのビールの空き缶を拾って言った。
「言いにくかったら、また飲む?」



 ああ。
 穴があったら落ちたい。

"A NEST OF WEST" June 1998*May 1999

← index || afterword