歌が聴こえる






 それは美しい夢だった。
 美しい人だった、と言うべきか。
 その人は長い銀色の髪を垂らし、深い湖のような青の瞳は憂いを湛え、私を憐れむような伏し目がちな視線を投げていたが、やがて静かな微笑みを見せた。
 そうして私は、その人の背中に、揚羽蝶の大きな羽があるのを見た。
 その人が何か言う度に、羽はゆるりと開いては閉じた。中性的な優しい声だった。
「彼は今───」
 何か言いかけたその時、私の頬に冷たいものが触れて、私は目覚めた。
 犬が私の頬を舐めたのだった。私は、何を見ていたのだろう……満天の星。
 夢の記憶を辿って、私は現実に戻されたことを理解した。
 幸福な夢だったな……と苦い笑いをもらした。
 犬がきょとんと私を見ている。頭を撫でてやりながら、これも夢の続きなのかと思った。犬が私を起こしたのは、一番知りたくて一番知りたくないことを言われそうだったからかもしれなかった。




 真夜中、私は薬を飲んで、床につく。眠りを誘う薬はそれだけではない。私はイヤホンを耳に付けて、彼の歌を聴く。甘い声だ。その声は私に優しさをくれる。
 遠い人だ。
 私は音楽以外について、彼のことを知らない。
 知ろうという気も起きなかった。彼は歌う星だ。星とは遠いものに例えられる。彼の歌声は遠く遠くから、輝きをもって私の耳に届く。それだけで充分、私は幸福なのだった。
 夢の中で、私は新聞で彼の歌に関する記事を読み、その記事を切り抜こうと鋏を探した。夢の中ではよくあることだが、探し物は大抵、見つからないのだ。私は記事の切り抜きをあきらめて、新聞をたたむと立ち上がった。




 私の夢にはしばしばあることなのだが、大抵の行き先は不明で道はこんがらがっている。建物の内部はいつも迷路であり、不明な行き先に辿り着くことは稀である。
 ふと、携帯電話の着信音が鳴る。
 私はちょうど、細長い廊下を歩いていた。電話の主は、彼だった。そのことの不自然さに気付かないで、私は彼と言葉を交わした。まるで旧知の仲のように。私は目を覚ますまで気付かない。それが私の願望なのか、夢が精巧なのか、いずれにしても、夢の中の私はいつも夢だと気付かずにいる。
「新しい歌が出来たんだ」と彼は言ったように記憶している。「それを聴いて欲しい」とも言った気がする───
 私は『彼に会う』という目的を得て、再び歩き始めた。しかし目的地が明らかになると、ますます辿り着かなくなるのが夢の常でもある。電車は行き先の駅に着かないし、公衆トイレは迷路のように広いのに入れる個室はなく、街は見覚えある景色に異物のような見知らぬ街並みが重なり、私は行き場を失う。
 だが今回は少々違った。私は以前にも夢で訪れた建物の中にいた。それが夢であると気付かないまま、それなら、この迷路の出口が判る筈だ───と思った。私は記憶を頼りに、建物の屋上を目指した。




 鉄の螺旋階段を昇って、私は屋上に辿り着いた。やけに明るい夜空だった。この建物が都会の中心にあり、ビルの群れの中でもここが一番高い所だというのが見て取れた。
 夜だった。
 どの窓にも明かりが灯り、眩しいほどだった。
 だが、空を見上げれば、このように明かりが多い場所で見られる筈のない、満天の星が輝いていた。
 あまりに星々が明るいので、夜空の色も夕暮れのように明るい、青と夕日のオレンジを混ぜたような色をしていた。
 私の他に誰もいない。
 彼も───いないのだろうかと見回したが、人のいる様子はなかった。私は再び空を見た。
 そして、この空を見るならば、と、私はコンクリートの地面を背に横たわった。シャツ越しにもざらざらした感触が背中に伝わった。星は今にも降りそうに瞬き、私は空との一体感を味わって、ただ空だけを目に映していた。
 プラネタリウムでしか見たことのない星空だ。
 私の意識が空へと溶け出してゆく。




 ここは彼岸なのかもしれなかった。
 私の吐息は風になり、私が瞬きする度に、星は動いて位置を変える。その中にあって、ひとつだけ動かない星が私の額に宿り、私は天から地上を見渡した。
 ───これはさだめなのかもしれなかった。
 ただ独り、誰とも寄り添わずに回る星々を見つめている。
 それが決して初めての感覚ではないことに、私はまた一つ、吐息の風を起こした。風に吹かれて歩いてゆく人々を、ただ、見つめている。
 私は両手を伸ばし───そんなものがあればのことだが───地球を抱きしめるように、大気になった。
 そんな気がしただけかもしれなかった。
 気づくと私はビルの屋上で、さざめく星の眩い輝きに照らされ、屍のような体を横たえていたのだった。
 なんて───なんて、愛おしいのだろう。
 涙が目尻からつうっと耳の中に流れ落ちた。
 その刹那、涙を伝って耳の奥に響く声があった。

 ≪泣かないで≫

 その声は……空をただ見ている私には、声の主がふわりと天から降りてくるのがよく見えた。
 黒い蝶の羽を広げて、すうっと音もなく私の傍らに降り立った。
 銀の長い髪が私の頭上に垂れるほど、背を丸めて、横たわる私の顔を覗き込んだ。
「……私のおしまいに相応しい人ね」私は力なく笑った。
「そうですよ」
 天使でも悪魔でもないその人の、蝶の羽が小さく震えた。
「私はこれから何処へ行くの?」
「あなたの心の赴くままに」
 そうして、その人は優しい笑みを浮かべた。
 慈悲というものが私の上にもあるなら、こんな笑みなのだろうと思った。
「私は許されるの?」
 これが最期かもしれないと思うと、そんな言葉がするりと出た。
 その人は目を細めて答えた。
「これまで、許されなかったことがありましたか?」
 その質問に、私は少し戸惑った。
「…あったわ。でも多くは許されてきたかもしれない」
「ええ、そうです。そしてそれはあなただけではありません」
 その人の言うことがなんとなく判る気がした。
「…そうね、思い出したわ」と私は目を伏せた。「私はあなたと同じなのね」
「ええ、そうです。そうですよ」
 私はゆっくりと上体を起こした。背中が痛い。固い地面に横たわっていたから───
 いや、違う。
 背中が重い。私は私の背中に、その人と同じ黒い羽をつけているのだろうと気がついた。
 その人は私の視線に、ふっと小さく笑って私を見つめ返した。
「さあ、心の赴くままに、おゆきなさい」
「行きたい所なんて何処にもないわ」
「それでいいのです。あなたはこの世界に漂い、とどまることなく飛び続けるでしょう」
 それが───
「それが私のさだめなの?」
「自分がさだめと決めたらそうです」
 そうか、と私は小さく頷いた。運命とは自分が名付けるものだと私はかねてから考えていたのを思い出したのだ。
 耳の奥で、先刻の優しい一言が再生される。泣かないで、と。
 私はどうすればその人のように飛べるのか判らなかった。その人は私の気持ちを読み取って、言った。
「目を閉じて……そう、心の赴くままにそこを目指しなさい」
 私はふわりと自分が浮遊したのを感じた。
 心の赴くままに───私は、空を高く高く、目指した。




 これだけ飛べば、全てが見えるだろう……全てが。
 私は宙に浮いて、地上を見下ろした。
 懐かしい人々のひとりひとりの顔を見た。
 それはなんと───なんと、愛おしいのだろう。
 私は、愛というものを、改めて思い知った。




 犬が私の頬をぺろと舐めたのに気づいて、私は夢から覚めた。
 ずいぶん長い居眠りをしたな……と苦笑した。部屋はすっかり薄暗くなっていて、私は午後の貴重な時間を眠って無駄に過ごしたことに気づいた。
 いや……、無駄な時間ではなかったろう。
 私は額に孤高の星を戴き、周囲を回転する、愛と別離と出会いとを思った。
 それが私のさだめと決めた。夢の中でだが……それは現実の延長線上にあった。
 その人が夢の中で言いかけていた、「彼は今───」という言葉の続きを探るように、私は彼の歌を聴くことにした。
 それは、時にありふれた、時に激しい、時に悲しい、愛の歌だった。
 それはまるで───私が言葉を紡ぐように。
 そのこともその人は言っていた。
 心の赴くままに、と。
 私は私の愛のままに、彼の歌声に合わせて小声で歌った。
 時にありふれた、時に激しい、時に悲しい、愛の歌を。
 何一つ、無駄な出逢いも別れもなく、全てが等しく愛おしかった。
 全てが等しく───美しかった。
 この世界はなんと美しいのだろう。
 この世界を、終点もなく漂い続ける自分のさだめを幸福だと思った。
 私は私の愛を歌おう。




 この世界の争いがなくなりますように。
 この世界が愛で満ちますように。
 優しい歌で包まれますように。
 彼の歌声が空いっぱいに広がりますように。




 私の歌が誰にも届かなくても、彼の歌が皆に届くだろう。
 それが私の幸福だと───心から微笑んだ。





2015.1.27
2019年 『6/0』2000Hits記念

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