ラジオノイズ

 約束の時間に二十分遅れて着いた。彼はもう来ている筈なのだが、待ち合わせ場所の狭い改札口から切符売り場をゆっくり歩いてみても見つからない。ちょうど夕闇が通りの方から入り込もうとして、明りをいくら並べても薄暗い感じがして寒かった。
 私は誰かを待つ人々の顔をゆっくり確かめながら歩いていたが、私には彼は見つけられないのだと分かっていたので、彼に見つけてもらうために歩いているというのが正しかった。案の定、私の名を呼ぶ彼の声で振り返った。
「目の前三回も通ったくせに」
 彼はニッと笑うと、持っていた文庫を手と一緒にコートのポケットに入れて歩き出した。遅れれば見失うことも分かっているので、すぐ後に続く。
 その理由を、一度ゆっくり考えてみたいと思っていた。なぜこの人は自在に姿を消すことができるのだろうかと…
 無論そんなことはありはしない。見つけられない、というだけで、彼は確かに居るのだ。けれど彼はまるで何かから隠れるように影をまとい、気配を消している。
 雪が落ちてきた。
「ごらんよ」
 穏やかな笑みを浮かべて彼が私を振り返った。軽く顎を上げて空を見上げた彼の目は、長い睫毛の先に結晶をひとつ載せている。私は空と彼とどちらを見るべきか迷う。
「積もるかな」と言いながら、ポケットから右手を出して雪を受け止める。私もつられてそのしぐさを真似ると、彼はふっと笑った。
「風邪ひくよ」
 そう言うと、彼は私の手をとって歩き出した。
「こんなこと前にもあったわ」
「そうかもしれない」
「そうよ」
「そんな気がするだけなのかもしれないよ」
「嘘」
 彼の横顔を見上げて言うと、ふいに彼は立ち止まった。
 信号が赤なのに気付いて私も足を止め、通りの向こうへと目を遣った。雪が車のライトや外灯を反射して少し世界が明るくなったような気がする。その舞い踊る光を集めたような人がいる。何がどう目立つという訳でもない。学生らしい青年が通りの向こうで信号待ちをしているだけだ。帽子のつばの下から覗く大きな目が正面を見据えている。どうしてかそれに心ひかれてならない。同じように信号が変わるのを待つ人々の中に紛れても、行き交う車が遮っても、気にかかる姿だ。
「確かに、こんなことがあったね」
 彼が言うと同時に信号が青になった。一斉に歩き出す人々の中で、彼と学生が歩み寄るように見えた。
 通りの真ん中でふたりは向かい合って立ち止まった。彼の手がほどかれる。
「こんばんは」
 最初に口を開いたのは学生の方だった。
「久しぶり」と彼は答えた。「とうとう来たね」
「はい」
「頼むよ」
 彼はポケットを探ると合鍵を取り出して私によこし、「部屋で待ってる」とだけ言って背を向けて歩き出した。彼の姿はあっけなく夜に隠れてしまった。
 信号が赤に変わっても呆然と立ち尽くした私の手を、今度は学生が握って歩き出した。
「どういうこと?」
「危ないから」
 話が噛み合っていない。
「放して」
「すみません」
 あっさりと手を放したのが意外だった。歩道に戻ると立ち止まって私と向き合った。
 人の目をまっすぐに見る人だ。吸い込まれそうな大きな黒目と青みがかった白目のコントラストが強い。人の目を強烈に引くのはこの目のせいだろう。見つめ続けるのが辛い。私が目を伏せると、学生はラジオと名乗った。
「変な名前」
「まさか。みんながそう呼ぶだけ」
 ラジオはコートのポケットをジャラジャラと鳴らして歩きながら、小銭を取り出した。「何にしますか」傍らの自販機の前に立つ。
「コーヒー」
 がたん、と重い音をたてて自販機からコーヒーが吐き出された。ラジオはその一本を私に差し出して、「よろしく」と微笑んだ。コーヒーを受け取ると、思いがけない熱さに驚いた。何かが起こる予感がする。
 少し先に公園が見えた。ラジオが先に歩いて公園に入る。
「立ち話もなんですから、掛けましょう」
「この雪の中で?」
「そうです」
 有無を言わせない鋭い目。私は、これが既に決められていたことなのだと理解した。ラジオはもう和やかな表情に戻り、鞄からタオルを取り出してベンチの上に置いた。「どうぞ」
 私はタオルの上に座った。タオルは一枚しかないのか、ラジオは立ったままだ。コーヒーを一口すすって、にこやかに話し始めた。
「せっかくのデートのじゃまをしてすみませんね」
「二週間ぶりだったのよ」
「でも、会社で毎日顔あわせてるじゃないですか」
 思わず顔を上げた。
「どうしてそんなこと知ってるの」
「彼から聞いています」
「…だって、私たちのことは会社には秘密だもの」言い訳がましい自分に赤面する。
「誰にもね」とラジオは付け足した。
「どういう意味?」私は訳の分からぬ怒りがこみあげてきた。「私たちの何を知っているの?」
「すべてですよ」
 ラジオはまっすぐに私を見た。背筋に悪寒が走る…
「用件は、」声が遠くに聞こえる。
「彼から伝言です。『別れよう』」
 何を言われたのかまるで分からなかった。
 それが言葉だったのか、それすら疑問に思えた。まだ耳に残る音を組み立てて言葉にする私を、ラジオはじっと見つめて待っていた。
「…だって、彼は部屋で待ってるって言った。なのにどうしてあなたにそんなこと言われなくちゃならないの」
 そう言いながら、私は慌ててポケットを探った。鍵はある、確かに。
「分かりませんよね」ラジオは苦笑した。
 コーヒーの缶を握り締める両の手のひらから、だんだん体中が熱くなってくる。震える私の手の上に降りかかる雪が次々と溶けていった。
「迷ってるんですよ、彼も。だから、僕が言うんです」
「あなた、誰」
「ラジオです」
「冗談はやめて」
「本当です」
 ラジオから笑顔が消えていた。「彼と出会ったのは夏でした」







 夏休みの終わり、僕は列車で一人旅をしていた。窓の外を眺めるうちにうとうとしていたらしい。列車が停まって人が動く気配がしたから、どこかの駅だったのだろう。列車が動き出して隣に誰かが腰掛けた。僕はふと隣が気になって、目を開けてその人を見た。
 人間の感情は様々な形で体から発せられるものだと僕は思っている。誰も何も言わなくても『緊張感が漂う』という事があるように。その時、僕はその人がまとっているはりつめた空気を感じたのだ。そして人から発せられた感情は周囲を侵食する事がある。僕は胸に重い物が載ったように感じて、その人に声をかけた。
「大丈夫ですか」
 そう話しかけるのは不自然ではなかった筈だ。実際、その人の顔は青ざめ、背を丸めた姿は病人に見えなくもなかった…それが彼だった。
 彼は静かに顔を上げて僕を見た。その表情はひどく驚いているようだった。喉の奥からようやく「え?」とかすれた声を絞り出した。僕は、(やっぱり、唐突だったかな)と思いながら努めて穏やかに「ご気分でも、悪いのですか」という言葉を選んだ。
「いえ、」と彼が平静を装うとして言葉を失ってしまうと、僕は少し罪悪感を感じた。話しかけるべきではなかったかもしれない。彼は誰にも見つからないようにこの列車に乗り込んだのだとこの時に気がついたのだ。
 僕はまだ開けてなかった缶のウーロン茶を彼に勧め、これ以後は彼の方を見ないようにしようと決めた。
 窓の外の建物の高さが低くなってくると、見慣れぬ広い空に雲が眩しく輝き、緑が近く濃くなった。列車がトンネルに入ると、窓ガラスに車内が映る。僕はガラスに時々彼の姿が映っていないような気がして息を呑んだ。右腕に彼の気配は感じていたし、走る車内から彼が消える筈もないのだが、列車が短いトンネルをいくつも抜けるそのたびに、僕はガラスに目を凝らしてようやく彼の姿を確認したのだった。
 トンネルを抜けると赤茶けた屋根の連なりの向こうに海が広がった。
「お茶、ごちそうさまでした」
 一瞬、誰が誰に話しかけたのか分からなかった。彼が僕に、気付いたと同時に、何かが近づくのに気がついた。
「もう落ち着かれましたか」
「おかげさまで。…旅行ですか」
「はい」僕は彼の荷物が旅行にしては小さいのに目をとめた。
「どちらまで?」
「久しぶりに里帰りです。もっとも、もう家はありませんが」
「それじゃ、」
「呼び出しをくらったんですよ」彼の苦笑。「警察に」
 絶句する僕に、彼は天気の話でもするように穏やかな口調で続けた。
「行方不明の妹がいまして。その妹らしい遺体が発見されたから、確認に来てほしいってことで」
「……」
 僕は自分のお節介な質と好奇心を呪った。今や僕は彼の発する大きな感情の波を全身で受信していた。僕がラジオと呼ばれるのにはそういう理由がある。普段から僕は『周波数』をあまり相手に合わせないようにしている。僕自身が受け取る音は鮮明すぎるから、多少ノイズが入るくらいがちょうどいい。しかしそれでも、彼の胸に繰り返し響く声がはっきりと聞こえてきたのだった。
「…お気の毒です」
 彼が僕の前に長年背負ってきた重い荷物を下ろそうとしている、それをかわせないと分かってはいたものの、とりあえずそう言ってみた。
「まだ、妹と決まったわけじゃない」
「そうですね、失礼しました」
「…いや、こちらこそ…実のところ、もう諦めているんです。妹のことは」
 喉が渇いた。手にした缶は空なのに、口をつけずにいられない。僕はもう、自分の耳をかき乱すしかない。返事をするのはやめにした。
 車内販売が通った時、彼はコーヒーを二つ買い、一つを僕によこした。僕はそれを急いで飲み干すと、眠ったふりをした。
 こんなふうに自分を抑えている人を見るのは初めてだった。誰しも抑圧され苦しむ事があるには違いないが、彼のそれは僕にとって衝撃的だった。額に汗が浮かぶ。冷たい、と思いながら立ち上がり、車両を離れた。トイレがふさがっていたので、仕方なく洗面所で吐いた。
 あと少しで乗り換えの駅だ。僕は乗降口の脇で息を整えて、駅が近づいてから席に戻った。彼は僕と入れ替わりに席を立った。次で降りるらしい。駅に到着すると、僕はわざとゆっくり網棚から荷物を下ろし、最後に車両から降りた。
 彼はまだホームにいて、新しいターミナルに驚いたように立ち止まっていた。僕に気付いても立ち去らない。ホームにはもう僕と彼だけになった。
 僕はもう迷いを捨てることにして、彼に歩み寄って言った。
「自首してください」
 彼はずっと、『俺が殺した』と繰り返していた。
 その場面を生々しく回想する彼の不快感が、僕の胸にずっとのしかかっていたのだ。







「大丈夫ですか」
 耳元で声がした。顔を上げると、二十歳そこそこの若い男が俺の顔を覗き込んでいる。遠い日の、夜の闇のような黒い瞳が二つ。
「え?」
「ご気分でも、悪いのですか」
「いえ、」
 そう答えながら、俺は戸惑った。こんな所で人に話しかけられるなんて、初めてだ。
 故郷への列車は明るく清潔だ。男は白いシャツを着て、まるで列車の一部にでもなったかのように見えていた。耳にはヘッドフォンをつけていて、そこからかすかにドラムの音がしていた。目を閉じて、じっと動かない。片手が膝の横にだらりと下がっている…眠っている。だから俺はこの男の隣の席を選んだのに話しかけてくるとは。
 あの時の戸惑いは喜びだったのかもしれない。この町を出て、誰とも深く関わらず、うまく逃げ失せた筈だった。しかし彼女と出逢ってから俺の歯車は狂ってしまったようだ。やはり逃れられないのだ。
 妹が姿を消した夏の日から半年後、俺は大学進学のため上京した。妹のいないこの町に何の未練もなかった。父に裏切られて母は病死し、父は家には戻らなかった。俺が町を出ることは、すなわちあの家の最終的な崩壊であり、俺自身の終局の筈だった。
「自首してください」
 背中がぞくりとした。不快感は時に快楽に近づく。俺は愉快になって返した。
「何のことだ」
「それがあなたの望みだと思えたので言ってみたのですが」
「ばかな。俺は遺体の確認をしに行くだけだ」
「そうですね」
「俺が何をしたって言うんだ? 君の財布をとったとでも?」
「いいえ」
 気にくわない男だ。だが、面白い。この自信に満ちた目は何だ。
「妹のことか」
「はい」
「もし暇ならついてくればいい。もしも遺体が妹のもので、死因を調べ、俺が殺したっていう確証があれば逮捕されるさ」
 男に背を向けて歩き出す。男はひるむことなくついて来る。タクシーに乗り込み行き先を告げてから警察署に着くまで一言も交さなかった。男は目を閉じて、余裕さえ感じさせた。俺はますます愉快になってきた。こんなに憎悪を掻き立てられたことはない。俺はこの男を打ちのめす時の愉悦を思うとゾクゾクした。
 その遺体は既に白骨化していたため、身につけていた指輪だけを見せられた。
「妹さんの物ですか」
「見覚えがありません」
 それだけで事は済んだ。
 警察署の入り口で、男は煙草をふかして待っていた。
「どうでしたか」
「妹じゃなかった」
「よかったですね」
「ああ」俺も煙草をくわえて火をつける。「気の毒に、山の中に埋められていたそうだ。…妹もそんなことになってるかもしれない」
「…潮の匂いがしますね」
 男は分が悪くなったからか、話を逸らした。
「泳ぎに来たのかい? それにはもう遅いんじゃないかな」
「泳げませんから」男は屈託なく笑った。「釣りでもしようかと」
「それじゃあ、岩場に案内しようか。昔はよく釣れたものだけど。今はどうだろう」
 俺はまだこの男を放す気にはなれなかった。まだ終わっていない。
 俺に「自首」を迫ったのはなぜなのか。確かに妹の行方不明は俺のせいなのだ。遺体発見の連絡から、ずっと俺が殺したようなものだと思い続けていた。だがあの遺体が妹でないことが分かってホッとした今、知りたいのはこの男の正体だ。
 浜に着くと道具を借りて、岩場まで歩いた。
「この辺もずいぶん変わった。変わらないのは波ばかりだ」
「詩人ですね」
「歳はとりたくないものだ。…ここで昔はよく釣ったんだよ」
 あれから一度もここへは足を運ばなかったが、苔の湿った匂いの充ちる洞窟はあの日のままだ。洞窟の入り口に出来る日陰に荷物を置いて、俺は奥を覗き込んだ。
「奥に何かありますか」
 背後から言われて俺はびくりとした。男はお構いなしに奥に目を凝らし、「結構深いんですね。ちょっと見て来ようかな」
「何もない」
「子供の頃、よくこういう所に潜り込んだものですよ。懐かしいな」
「何もない」
「なくてもいいんです」男は今までの笑顔をいきなり捨てて真顔になった。「行きましょう」
 俺は男の後に続いて歩いた。靴の中まで海水が入り込んで少し重い。そこから全身が冷えていく…額が冷たい。
 いつからだったろう。妹の手をとるのに人の目を気にするようになったのは。俺の手の中で、妹の指は細く白かった。幼かった妹の体が気がつくと丸みを帯び、肩も腰も俺の腕の中で柔らかくしなった。俺以外に依る辺のない妹、妹以外に守るもののない俺、二人には互いが世界の全てだった。妹の手を引いて人目を逃れ、ここで何度も、妹の肌に触れた。冷えた肌の下に熱い芯があった。それが罪でもいい、妹以外の女なんて考えられない。このままこうして二人で暮らせばそれでいい。それなのに……
 男が立ち止まる。俺が妹を抱いた場所で周囲を見回し、俺を見据えた。この暗がりでなぜ、あんなに目が光って見えるのか。光が動いた、涙なのか。
「あの時あなたは、」
『あの時』と聞いた瞬間、頭に血が上った。俺は男を突き飛ばし、壁に体を押しつけて首を締めた。…『あの時』と同じように。
「見てたのか? 貴様、あの時…見てたんだな?」
「くっ、」男が顔を歪めて俺の胸を拳で叩いた。あの時、妹はこんな風に抗ったりはしなかった。静かに、覚悟して…俺の手の中でゆるやかに力尽きていった…男は俺の手首をつかんで声を振り絞った。
「あの時…妹は、こんな風に…あらがったり、しなかっ、た」
「何?」
「静かに、覚悟、して」
 愕然として手の力がゆるむと、男は俺の手をふりほどいて続けた。
「俺の、手の中で、ゆるやかに、力尽きていった…」
 男は咳き込んで地面にへたり込んだ。それを見下ろす俺の足元が崩れ落ちてゆくのが分かった。
「君は誰なんだ?」
 男の顔が涙でかすんだ。
「君があの時、見ている筈はないんだ…。あれからもう三十年がたつ…」







 彼の穏やかな顔の下にある、僕に対する嫌悪感に気付かなかった訳じゃない。岩場の洞窟に入ってからの激しい憎悪には息が詰まる程だった。それでも、彼の罪を知ってしまって逃げ出すことはできなかった。
「あの時あなたは、」
 これは賭だった。力では負けない自信があったが、彼の手の方が素早かった。『あの時』、この言葉に彼の体がそのまま反応し、『あの時』と同じ動きを選んだ、それは彼にとって無意識の行動だったに違いない。
 このままでは殺される…僕は一瞬ためらったが、全神経を彼に集中させた。彼の心を頭で整理している時間はない、僕はすぐに音を吐き出した。
「あの時…妹は、こんな風に、あらがったり、しなかっ、た」
「何?」
「静かに、覚悟、して…俺の、手の中で、ゆるやかに、力尽きていった…」
 これ以上は駄目だ。人の心を侵してはいけない。僕はすぐに自分を解放した。「スイッチを切る」と僕はしばらく何も受け入れられなくなってしまう。地面に倒れ込んで、彼の姿を目に映しておくだけで精一杯だった。
 僕は自分の吐き出した音が悲しかった。僕のまだ知らない愛の形。
「君は誰なんだ? …君があの時、見ている筈はないんだ…。あれからもう三十年がたつ…」
 三十年。
 僕はぼんやりと霞のかかった頭で三十、三十と数字を繰り返した。
 なんということだ。
 もっと最近のことだと思っていた。妹の首を締めた手のひらの感触の記憶はあまりにも生々しかった。殺人の罪への恐怖も、妹への情念も、彼にとって三十年間変わらぬものだったのだ。なんて激しい人なんだ。
 だんだん目の前が暗くなってきた。トンネルの中の車窓のように彼の姿がぼんやりと映る。この激しさを抑えるにはやはり激しさが必要だったろう。警察に捕まらないように、誰にも見つからないように、平凡に生きるためだけに、存在感さえ消し去る程の激しい抑圧。
「僕はただ自首を…」
「知らないんだ。妹が妊娠したと言って、もう駄目だと思った。世間にばれたら、妹から引き離される。俺も死ぬつもりだったんだ。だが…妹が息をしなくなって…急に怖くなって…逃げ出した。妹を置き去りに…後で慌てて戻ってみた時には、妹はいなかったんだ。ここには、誰も…。
 本当に死んだのか?
 生きているのか、死体を誰かが運び出したのか、知らないんだ。本当に知らないんだ」
 彼の涙声を聞きながら、僕は力尽きて気を失った。







 もう、コーヒーはすっかり冷たくなっていた。けれど私の体は熱く火照っていた。そんな私とは反対に、ラジオは帽子や肩に雪を積もらせて終始穏やかに語った。
「以上が、彼の告白です」
「…それで?」
「強い人だ」ラジオは笑みを浮かべた。
「それが、彼があなたと別れる理由だそうです。僕がこのことを伝えに来たのは、僕がラジオだから」
「?」
「僕は彼を傷つけてしまったしね」
 ふと、ラジオは悲しげな目をした。
「彼が故郷を捨て過去を葬ろうとして、何人もの女性と付き合い、結婚と離婚を繰り返しても、子供ができても…、彼にとって妹を超える存在はなかったんだ。けれど今の彼には守りたいものがある。若い日のように…。彼はあなたに妹の面影を重ねていて、彼は妹に対してもあなたに対しても、罪悪感を抱いている。でも」
 ラジオは帽子を前に傾けてきれいな目を隠してしまった。
「彼はあなたを手放したくないんだ」
 立ち上がった私の手からコーヒーの缶を受け取ると、ラジオは再び私をまっすぐに見た。
「後は自分で決めてください」
「…ありがとう」
 それじゃ、と駆け出した私を後ろからラジオが呼び止めた。
「それから、彼はあなたの秘密にうすうす気付いていますよ」
 慌てて振り返ると、ラジオはにこやかに手を振って背を向けるところだった。
 不幸な人だ。他人の悲しみをそのまま自分の痛みとして受け入れてしまう人。誰に語られることのない秘密まで背負わされる人。何て声をかければいいのか分からない。私はラジオの青いコートの背中をしばらく見送った。
「知ってる、それは」
 薄く雪の積もった道を歩き出す。
 彼の離婚歴なら同じ課の女の子だって知っている。
 彼が私を抱きながら他の誰かを想っていたことも。それが妹…
 私は考えるのをやめて彼の部屋まで駆けて行った。合鍵を使って扉を開けると、彼は明りもつけずに私を待っていた。
「ラジオから聞いたかい」
「聞いたわ」
「すまない」
 テーブルにビールの缶が二つ空いている。それでも彼はひどく冷静に見えた。私は濡れて重くなったコートを床に脱ぎ捨てた。
「私はそんなに妹さんに似ている?」
「いや、少しだけだ」
 彼はタオルを取り出して私の髪を拭きながら答えた。
「私はあなたに似ているのよ」
 彼の手からタオルを奪って彼を見つめる。
「お父さん」
 彼の背中に手を回して胸に顔をうずめた。彼の手が私の背中で戸惑っている。
「母は十年前に再婚して今は幸せよ。それでも私は忘れなかった、顔も思い出せない父親の、つないだ手の形だけは…」
 同じ血のせいなのか。同じ業を背負ったのか。なぜこんな形でめぐり逢ったのか。
「私たち、いつまでこうしていられるかしら」
 あの人も今どこかで胸を痛めている。閉じたまぶたにラジオのコートの青が眩しかった。




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