空白遊泳

 終わらないあの夏の夜明けに




 階段は静かに佇んでいた。
 階段の足元の先に並ぶショーウインドウが暗くなってから、ずいぶんと時間が経っていた。先刻まで聞こえていたレールの響きも消えた。駅も眠りに就いたろう、と階段は思った。時折、人の靴音が遠くから聞こえるほど、街は静まっていた。
 誰もいない。
 階段が胸の内で小さく溜息をつくと、それに応えるように風がふわりと吹いた。階段の傍らで銀色の手摺が、息を詰めてピンと身を固くしたのがわかった。手摺は臆病者だ。いつも気を張りつめていて、ひやりと冷たい。階段は手摺の緊張を感じとって、そちらの方を見ないようにした。
 ところで、階段はどこを見ているのだろう。
 階段の視点はどこにあるとお思いか?真上の空を向いた、人々の足を載せる面だろうか?それとも階段を階段たらしめる、段差を作る側面だろうか?
 どちらもそうと言えるし、違うとも言える。
 各段の角を直線で結んで出来る面、そこに階段の視点はある。
 だから今、階段が見ているのは紺色の夜空と黄色い月、空をうごめく雲の黒い影、そして視界の下の方に傍らのビルの頭や外灯の光といったあんばいだ。
 階段の頭の上に広がるスペースにはベンチが並んでいた。彼らの間には小さな植え込みが点々とあって、ベンチと一緒に伝言ゲームをしていた。階段はベンチの色が緑色であることも知らなかったが、彼らのくすくすと笑う気配は階段の所まで届いた。
 手摺の付いた低い壁の上には丸い明かりが載っていた。階段は明かりから聞いて、階段の足元の更に下の階層には広場があり、外国の芸術家が作ったオブジェが並んでいることは知っていた。
 ここがどこなのかは、知らない。
 階段の話し相手は丸い明かりだけだった。明かりは辺りをぐるりと見回すことができるので、時折、周囲の様子を教えてくれる。けれど彼らはもともと無口だったから、言葉を交わすことは少なかった。人は明かりの横をすり抜け、階段の上を通り過ぎるだけだった。ベンチのように、人が腰掛けては缶ジュースを飲んで休み、お喋りを楽しむような物だったら、社交家になっていたかもしれない。そう考えると、階段は少し寂しくなった。
 下の広場を覆う天蓋の中央に何かがぶら下がっているのが、視界の端に見えていた。
「あれは何だろうね」
 人は皆、それを指差してそう言った。それに気づかず通り過ぎる人もいた。それは何かを模して造られているらしかったが、階段にも、明かりにも、それを見た人々にもわからなかった。それが何であるかを知っているのは、おそらく造った人だけだと丸い明かりは言った。ただ、風に揺れ、ゆらりと回ってみせる、何かの白い骨格だった。
「名前がわかればいいのに」
 丸い明かりは言った。
「下の連中には名前を書いた札がついてるよ。あれにもきっと名前はあるんだろうね。だけど、あんな高い所にぶら下がっているもんだから、名札も貰えない」
 それを聞いた時、階段は悲しくなったものだった。
「あれはひとりぼっちなんだね」
「ああ、誰にもあれのことはわからない」
 それから、階段は寂しくなると、天蓋の下の何かに視線を投げるのだった。
 太陽はずいぶん遠くまで行ってしまったらしい。どこから来たのか、もう長いこと風は冷たく辺りのすべての物を撫で続けていた。天蓋の下の何かも同じように、すべてを等しく。風だけがあの何かをわかるのかもしれない、と階段は思った。
 天蓋の下の何かからは、辺りの様子がすべて手に取るように見えていた。自分の真下で円陣を組むオブジェの群、傍らのビルのテナントの華やかなウインドウ、目の前を横切るバス通りや電車の行き交う駅のターミナル、そして昼間ならば自分の足元に集まる人々の表情までよく見えていた。けれど、天蓋の下の何かに触れるものは斜めに差す日の光と風の他に何もなかった。誰の手も、誰の声も届かない場所に居た。
 だからその何かは、自分が何者なのかさえ知らなかった。
 自身の形や、それが辺りに落とす影が何を意味するのか、誰も教えてはくれない。
 ただ、自分が孤独であることは知っていた。
 周囲に注意を払うことは孤独感を増すだけだと、天蓋の下の何かは熟知していた。だからその何かはいつも遠くを見ていた。風が遠くからやってくるように、街の上に模様を織りなす屋根の連なりの向こうにこそ、自分に触れるものがあるような気がしていた。
「あれは何だろうね」
 人の声で聞こえたので、手摺はまた身構えて少し細くなったように見えた。低い壁の向こうに誰か来たようだ。教えてくれれば良いものを、壁はむっつりと黙っている。別の声が曖昧に「うん」と答えた。しばらくの沈黙のあとで、声の主が階段の前に現れた。二人連れだった。
 階段は階段であるゆえに、すべてのものを『高い』と『低い』とで区別する。背の高い方がふいに微笑んで「ああ、あれに似ている」と天蓋の下の何かを指差した。
「フレミングの法則」
 背の低い方が「手をこんなふうにするやつ?」と左手で示した。丸い明かりは階段と手摺にもよく見えるよう、小さいその手をくっきりと浮かび上がらせた。左手の親指と人差し指、中指を互いに直角に開いている形は、確かに天蓋の下の何かに似ていた。
 階段は階段であるゆえに、規則性のあるものが好きだった。だから、彼らが何を言っているのかわからなかったが、『フレミングの法則』という名前はとても良い名前だ、と思った。
 階段は階段であるゆえに、二人がその足を自分の上に載せてのぼってくれるといいなと思った。人の靴底を自分の上に感じる時、階段はとても幸せな心地になる。二人が階段をのぼり始めた時、階段は嬉しかったが、彼らが足を止めてそこに腰をおろしたのには驚いた。手摺はますます緊張し、ピーンと音がするほど震えだしそうだった。明かりがくすっと笑う気配がした。
 背の高いのは、背の低いのが作った『フレミングの法則』の左手を覗き込むように見て、低いのの小さい指を自分の大きな指先で差し示しながら話していた。
「向きは人差し指が磁界で、中指が電流。すると導線には親指の向きに力がはたらく」
「じゃあ、あれは」
と低いのが天蓋の下の何かを見遣って言った。
「空に向かって力がはたらいているんだね」
「多分ね」
 高いのは断言を避けたが、にこやかに答えた。低いのもにっこりと笑って「ふうん」とだけ言い、左手のフレミングの法則を解くと膝を抱えて空を見上げた。
 高いのは自分が座っている所より高い段に鞄を置き、それを枕に仰向いた。
「こんなことしてみたり」
 低いのはそれを見て、この人は階段にもなれる人だ、と思ったが、黙って笑みを返しただけだった。低いのが何も言わないので、高いのは少し照れてすぐに起き上がったが、自分の体を受けとめた階段の確かな感触を好ましく思っていた。
 二人はしばらく黙って、丸い明かりが作った影をじっと見つめていた。やがて高いのがぽつりと言った。
「何かいるね。見えないけれど、確かに」
 それを聞いた手摺は怯えきって、夜気にますます冷えていった。丸い明かりは、また黙り込んだ二人の顔を照らしてじっくりと観察した。二人はかすかな笑みを浮かべて、ただ遠くの闇を見ている。階段は、誰か何か言わないものかと待っていた。
「あの辺りに」
 向こうの闇に向かって高いのが言った。階段は、先刻自分と同じ視点を得た高いのが見ているものを見たいと思ったが、高いのが腕を伸ばして差す辺りは階段の視界には入らなかった。手摺は彼らの注意が自分に向けられていないのがわかると、ようやく体の力を抜いた。低いのが、高いのの言葉を引き継いだ。
「隙間がある」
 そう言いながら低いのは、今、隙間は高いのが言う『何か』で満たされている、と思っていた。正確に言えば、その何かが隙間そのもので、常に自分たちの間にある。それを『隙間』と呼ぶのは、それが空虚に見えるからだが、確実に、それは、ある。
 階段には、やはり何の話をしているのかわからなかった。明かりはもう、二人の会話に興味を失った。手摺は二人がいつ自分に触れるかという恐怖でそれどころではなかったし、壁は最初からすべてにおいて無関心だった。それゆえ、彼らは皆ここで孤独だった。
 彼らの間で、虚ろはそこにあり、彼らは肌にそれを感じていた。危うく風と間違えてしまいそうだったが、明らかに違うのは、それが自分の体をも通り抜けてゆくことだった。それは意図的に触れることができないにもかかわらず、確かな存在感を誇示している。伸ばす手の先に触れるのは君なのに、そうすることによって知らされる虚ろの存在に、この手もさらさらと崩れ落ちそうだ……
 いや、もしもこのまま崩れてしまうなら……
 見上げた空には、雲がゆっくりとした動きで踊っていた。
 誰も、身動きひとつしなかった。
 風だけが地上を愛しく撫で続けていた。
 階段になれるのなら、光にも闇にもなれるだろう。
 辺りのすべてが透き通ってゆくのを感じた。
 ここがどこなのか、誰も知らなかった。
 手摺も階段も明かりも壁も、高いのも低いのも、光も影も、自分が誰なのか、わからなかった。自分がここにいることだけは知っていた。けれど、どこまでが自分なのかは、わからなかった。
 それはまるで流れだった。
 その流れはとても巨大な力のように感じられ、これに乗ればどこまでも漂ってゆけそうだった。あるいは、自分のどこか一部が、流れゆく何かになってしまったようだった。
 その流れが空虚であると気づいている者たちは、己の内の虚ろが外へと広がったことに驚きを感じていた。つまり巨大な虚ろに呑み込まれながら、自分がここにあるという感覚の間違いなさに、自分は世界の果てではないかという疑念さえ生じてきたのだった。
 何もかも夢のように跡形もなく消えてしまいそうだった。
 恐怖が打ち寄せる爪先が、やけに遠くに感じられた。
 どこへゆくのだろう。
 流れは深く、自分の意志さえ見失いかけている。でなければ自分が誰なのかわからなくなることはないだろう……そう考えて、高いのは自分が誰なのか思い出した。
 空の色が淡くなっていた。
 太陽の姿はまだ見えないが、朝一番の電車が動き始めた音がかすかにここまで届いた。
 二人は目配せして立ち上がり、階段をのぼっていった。階段は二人の靴底を心地よく受けとめ、空の方へ消える姿を見送った。手摺は、またここに誰か現れるまで休むことにした。丸い明かりは、決められた時が来たので、静かに暗くなった。
 階段は急に寂しくなって、再び天蓋にぶら下がる何かを見た。
 天蓋の下の何かは階段の視線にも気づかぬまま、ゆらりと体を揺らした。自分をくるりと回す力の流れが空虚であることは知っていたが、そのことが自分に何かをもたらしたこともなかった。天蓋の下の何かは時折、空を支える夢を見た。その夢と風だけが、ささやかな慰めだった。今、空を支えて太陽を待つ。地上を這う生き物たちは何も知らず生かされているのだと思った。
 朝まで階段に腰掛けていた二人が駅の方へと歩いてゆき、道の別れる所で立ち止まったのが見えた。天蓋の下の何かからはとても遠く、二人が言葉を交わしているのはわかったが、何も聞こえなかった。二人はそこで別れて歩き出した。一人はバス通りを右へ、もう一人は前方に伸びる坂道だ。街には人の姿が他にも見え始めた。見慣れた朝の風景だった。
 朝の光が低い空からまっすぐに差して、街に影の地図を描いた。地図の上で、二人はそれぞれの道を歩いていた。道の先は光にかき消されて見えない。天蓋の下の何かは、彼らはまるで自分のように、ひとりきり消えてゆくのだと思った。
 その時、二人が同時に振り返るのが見えた。
 二人は少し見つめあった。彼らは生まれて初めて孤独という生き物と出会ったような気がした。これまでに知っていたことはその影に過ぎなかったかのように、孤独は透明な姿で呼吸し、その鼓動は世界に響き渡っていた。彼らは名前を呼ばれたようにそのことに気づいたが、それは一瞬のことだった。二人は再び歩き始めた。
 天蓋の下の何かは自分の名を知らなかったが、作者が与えたそれの名は、『道標』といった。




 1999.05.05

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