幸福論

 夜中に爪を切ってはいけないという言い伝えがある。
 だが今の世の中、親の死に目に会えないと信じて守っている人間がどれだけいるのだろう。僕が、爪の伸びているのに気づいて切りたくなるのは大抵夜中だ。パチン、パチンと爪を切りながら、親のことを思い出しはするが、そうそう、親の死についてまでは考えないものだ。それを親不孝と呼ぶ人はどれだけいるのだろう。
 昔からそうだった。僕は様々なことを信じずに生きてきた。───君に会うまでは。
 色即是空、空即是色───僕は決して信心深い人間ではないが、その言葉だけは真実だと思っていた。
 『色』とは宇宙のすべての形ある物質のこと、『空』とは実体がなく空虚であるということ、『即是』とは、二つのものが全く一体不二であることであり、全てのものは、永劫不変の実体ではないという意味だ。
 極論かもしれないが、要するに、全ての物事は流転する空虚である。
 流転する空虚。
 それこそが信じるに値すると思えた。



 初めて君に会った時、その笑顔はさざ波のようだと思った。静かに、うっすらと微笑み、近づくように見えて一歩下がる、かと思うと琴線に触れて確かな感触を残してはまた引いていくのだった。僕は君のその様に口がきけなくなってしまった。言葉を探す間、待っている君のさざ波が、軽く寄せては返す。その感触───そう、その確かな感触を、僕は生まれて初めて味わった。
 付き合った女の子がいなかった訳じゃない。上手くいかず続かなかったのは、僕が常にこの世界に懐疑的だったからだ。彼女たちはそれを敏感に察して僕から離れていった。それだけのことだ。
 だから僕はこの時、君を試してしまった。「夜中に爪を切るといけないって言うけど、僕は昨夜も爪を切ったんだ。悪いことだと思う?」と。
 すると君はこう答えた───
「そうね、言い伝えを真に受けることはないけど、爪を切る時間は大切な人を想う時間なんですって。そう考えたら、いつでもいいと思う。大切な人を思い出すのは幸福なことです」
 そう語る君の肌は白く透き通り、目の前に置かれた紅茶のようだと僕は思った。君がそれに少し砂糖を入れ、スプーンでくるくるとかき回すと、目眩がしそうだと思った。
 僕らの間を空虚が循環する。
 そんな錯覚を覚えた。
 簡単に言えば、僕らは似ているのだと───そう思った。僕はまた尋ねてみた。
「思い出すのが幸福な人、か。君には居るの?」
「いいえ、今は。かつては居たかもしれません」
 そう言って君は小さくクスと笑った。
「忘れた方が幸福なことがあるのも、真理ですよ」
と、君はやっと僕の目を見た。真っ黒の瞳が潤んで見える。僕を憐れむように君はこう続けた。
「あなたにも居ないようですね」
 ああ、そうだ───そんな同意の言葉が口の中で萎んだ。僕はこれまで、誰かを想って幸福になったことがあっただろうか。なかった訳ではない筈なのだが、この時、僕は誰の顔も思い出せなかった。
 この日、君と会うことになったのは本当に偶然だった。これを運命のいたずらだとするなら、運命とは何と皮肉なのだろう。僕はかつてなかった経験───曖昧模糊と感じていた世界の中で、『僕によく似た人』という鏡のような存在を知ってしまったのだった。
 流転する空虚が渦を巻く。
 初めて会ったばかりの君を、抱きしめたいと思ってしまった。
 二人の間を循環する空虚は互いの胸に空いた穴のようなところをすり抜けてゆく。穴を空虚で満たすように……いや、それは結局虚ろでしかないのか……虚ろに満たされた僕はそれでも『満たされた』という感覚が確かであるのを認めた。
 喫茶店を出ると雪が舞っていた。地下鉄の駅まで歩く間、二つの傘の距離の分、離れて歩く君の肩に触れたいと思った。その願いは叶わず、違う路線で帰る僕らは何気ない顔のまま駅で別れた。地下への階段を降りる君を見送っていると、君の背中の影が淡く揺らいで見えた。
 それがまた君を一層忘れ難いものにした。



 君と出逢ったのは文学や芸術の愛好家の集まるネットの掲示板だった。同好の士は結構いて、掲示板は和気藹々と盛り上がっていた。そこにはチャットルームもあり、君と言葉を交わすようになり、君がそこで発表していた絵に心惹かれて、君もまた僕の絵を気に入っていると言ったので、気がつけば今度会いましょう、ということになっていたのだった。
 だから次に会った時は、ネットの仲間で集まった時だった。繁華街の居酒屋。遠く離れた席で、君はあの微笑を浮かべ、誰かの話に頷いていた。君はまた誰かとあの空虚を共有しているのか───そう思うと嫉妬せずにはいられなかった。それだけは駄目だ。それは僕と君との間の秘め事の筈だった。いや、それは僕が勝手に決めた事だった。それでも僕は、君がだんだん首を横に振るようになったのを見て、ハイボールのグラスを手に立ち上がり、滑るように君と話し相手の男に近づき、わざと「お久しぶりです」と言いながら二人の間に自分のグラスを置いた。
「君たち、会ったことあるの?」
と戸惑いを隠せない男が僕と君の顔を交互に見た。
「はい」と僕が答えた。僕は自分がいた席の方を指で示して、「管理人さんに挨拶しましたか?」と愛想よく言った。「行った方が良いですよ。代わりましょう」
「………」
 男は無言で立ち上がり、ビールのジョッキを持って向こうへ去った。空いた席に僕が着くと、君は「ありがとうございます」と苦笑した。
「変なことばかり訊かれるので困ってたんです」
「変なこと?」
「恋人はいるのかとか、どこまでの関係なのかとか…」
「それは僕も気になるなぁ」と言うと、意味もなくクスッと笑いが漏れた。
「いいよ、無理には訊かない」
「前にも言いましたが」と君がカシスオレンジのグラスに手を添えた。
「忘れたい人ならいます」
「………」
 今度は僕が言葉を失う番だった。
「自分を不幸だと憐れみたくはありません。でも、幸せかと訊かれたら、嘘はつけませんね」
 嘘はつけない───そう語る君は無表情で、僕はそれが聖母マリア像のようだと思った。優しく、穏やかな無表情。それは全てをありのままに受け入れるかのようにわずかに両手を広げ、厳かに立っているマリア像───そんなものを連想させた。
 だとすれば、それは初めて会った日の、空虚を共有した感覚は、君が僕と同じなのではなく、僕のわずかに残る『信じる心』を君が受け入れたのだと、そう感じた。
 君こそが信じるに値する───僕のマリア。
 僕はずっと探し続けていたのだ。君のような人を。
 だがそれは、色即是空……不安定に揺らぎ続け、同じ形を取ることもなく、いつかは消え去るものだった。
 それでも───
 君の隣の席を、人々が代わる代わる座って僕らに挨拶した。初めてのオフ会だからか、皆の緊張が見て取れた。
 君の描く絵はそれほどまで人を惹きつけていた。皆、あの絵を描いた女性はどんな人なのだろうという興味と、畏怖を抱いていたのだ。
 僕は少しの優越感を持ってその様子を見ていた。僕だけが知っている。君の孤独を。



 それからというもの、僕らは夜毎二人きりで回線越しに話していた。好きな画家は。好きな飲み物は。好きな映画は。好きな本は。そんな他愛のない話ばかりだったが、楽しかった。君を少しずつ知ってゆく。より深く。より確かに。
 そしてまた君も僕を知ってゆくのが嬉しかった。これまでにない多幸感に浸って、思わず言葉にしていた。
「会いたいよ」
 回線越しにも戸惑いが伝わった。僕は場の空気をかき混ぜるように続けた。
「この前の君のクラゲの絵、好きなんだ。水族館なんてどう?」
 それは夜の海を思わせる深い深い青を湛えた絵だった。舞うように浮かぶクラゲたちが神秘的で、君の心にはこんなに深い海があるのかと思った。
「わかった。水族館ね」
 翌日の土曜に水族館の入り口と待ち合わせを決めて、おやすみと挨拶して別れた。僕は、またあの優しい聖母の笑みを見られるのだと思うと、心臓が高鳴った。初めて会った雪の日から4か月が過ぎていた。僕はこの気持ちを伝えるべきなのか否か少し迷ったが、君の微笑みさえ見られればいいと考えた。まだ、忘れられない人がいると言うかもしれない。困らせたくなかった。
 翌日、君は白い半袖ニットに淡いブルーのチュールレースのスカートという出で立ちで、待ち合わせの水族館前に立っていた。「ごめん、待った?」「いいえ」そんなやりとりが恋人のようで照れくさかった。君が動くとふわりと揺れるスカートが、クラゲの笠を連想させた。
「なんだかクラゲみたいだね」
 そう僕が言うと、君は頬を染めて俯いた。可愛い、と思った。ほんのわずか、距離を置いて並んで歩く。
 色とりどりの南の海の魚や、大きな水槽を回遊する魚の群れが銀色に輝くのを見ながら歩みを進める。君はクラゲの水槽の前で動かなくなった。無言の時が過ぎる。だが君がクラゲを見るのに夢中なのを邪魔したくなかった。
 クラゲは触手を揺らし、笠を膨らませてはシュッと伸びて、ゆるゆると動いていた。長い沈黙の末に、君は深いため息をついた。僕はそれをきっかけに話しかけることにした。
「本当にクラゲが好きなんだね」
「ええ。だってこんなに透き通って、嘘がないんですもの」
 ───嘘がない。
「君は嘘に敏感なんだね」
「そうですね」
「…嘘をつかれた? 忘れたい誰かに」
「………」
「ごめん」
 そんな風に困らせるつもりはなかった。むしろ触れないでいようと思っていたのに、クラゲの透き通った姿の前で、僕も嘘がつけなくなったようだった。
「傷つけるつもりじゃなかった」
「わかってます」
 そう答えて、君はあの───聖母の微笑みを浮かべた。
「あなたはあの人と違うもの。あの人の言ったことは結果的に嘘になってしまったと…そう思ってましたが…今は、始めから嘘だったんだと思ってます」
 君の瞳が潤んで見えた。
「…そう思わないと忘れられないんだもの」
 君は泣きそうなのか、それを悟られないようにするかの如く、僕から視線を外し、クラゲの水槽に向き直った。
「人の心は不思議ですね。期待が膨らむ、って表現があるように、萎むこともあるんですね。私のあの人への感情は───収縮して小さくなって、心の一部となって死んだんです。心に残りの部分を持たせて、私を生かす為に。死ぬことで信じることを貫いたんですね、私の一部は。でもそれは死んでしまったから、もう、ないのと同じです。なのに…」
 君の瞳から涙が一粒、落ちた。
「今度は死んでしまった感情を哀れむ心が残ってしまいました。だから…まだ忘れられないんです」
 ───許せない、とそう思った。君をこんなに悲しませた人物を。
 僕はそっと手を伸ばし、君の肩を抱き寄せた。
 君を慰めるかのようにクラゲたちが舞っていた。僕は空いた手を伸ばして水槽のガラスに触れ、「僕は嘘はつかないよ」と言った。
「君が好きだ。初めて会った時から」
 君は片手で両目を覆い、俯いた。微かな声が、「忘れさせて」と聞こえた。
 そうして、僕は君の手を握って歩き始めた。館内の奥が明るい。壁から天井までガラス窓で出来ている。頭上はペンギンのプールで、ペンギンたちが空を飛ぶように泳いでいるのが見えた。
「見て。ペンギンが飛んでる」
「…本当に」
 君は陽光の差す水槽を見上げて目を細めた。
「水の中にいるみたい。それとも空の上かしら…」
 僕の視線に気づいた君は、僕を振り返り、無邪気な笑顔を見せた。
 時に聖母のように。時に少女のように。
 君の笑顔は初夏の日差しを受けて眩しかった。
 そして、それが僕たちの最後の日のことだった。



 水族館に行った日の晩、僕はいつものようにネットに繋いで君がログインするのを待った。
 だが君は現れなかった。
 翌日の夜も、その次の夜も。
 そうして三日目に携帯に電話がかかって来た。君の名前が表示される。僕は嫌な予感を覚えながら通話モードにした。
 電話をかけて来たのは、君のお母さんだった。
「娘の携帯に登録されているお友達全員にお電話差し上げているのですが」
「…はい」
「娘が亡くなりました」
 頭の後ろで何かがピシッと音を立ててひび割れた気がした。
「娘の財布から水族館のチケットの半券が見つかりまして…一緒だった方を探しています」
「…僕です」
「そうでしたか…最後に娘に会ったのはあなたですね」
 最後に───
 あの微笑みも、あの涙も。最後だったというのか───
 それは水族館に行った後、喫茶店でお茶を飲みながら次に会う約束をし、駅で別れた後のことだった。電車を降りて駅前の交差点で信号待ちをしていた君と、そばにいた人たちをも巻き込んで、向こうから右折しようとした車が歩道に突っ込んだということだった。君以外の人も重傷を負ったが、君は頭を強く打ち、意識不明だったが、とうとう脳死状態になったのだという話だった。
「娘の財布には臓器提供意思表示カードも入っていました。体を…切り刻まれて…やっと家に帰りました…」
 お母さんは涙声だった。「他の方にはお知らせしていませんが…あなたには、娘の意思を伝えるべきだと思いました」
「………」
 君はこうなることを予感していたのだろうか。提供できる臓器の全てを提供する意思があったという。
「明日…葬儀を行います。最後のお別れに来ていただけませんか」
「はい。伺います」
 淡々と答える自分に寒気がした。
 通話を切って、僕は呆然と立ち尽くした。抱き寄せた肩も、繋いだ手も、確かに僕の手の中にあったのに。
 ≪忘れさせて≫
 僕には何も出来なかった。何一つ。
「う…」
 僕は机の上の絵の具箱を手にし壁に投げつけ、そばにあった筆立てを払い除けた。気がつくと僕は「うわあああああああ」と声を上げて、手に触れる物全てを投げては壁にぶつけていた。
 君のために出来ること。
「あったんだ…もっと、もっとあったんだ…」
 目から熱いものが流れ落ちた。僕はベッドに顔を伏し、声を殺し泣き続けていた。



 そうして呆然と翌日を迎えた。ろくに眠れなかったが、目は冴えていた。鏡を見ると目が充血している……顔を洗って髭を剃る。習慣的に、手が勝手に動いていた。黒い喪服とネクタイ。母が「成人なら持っていなさい」とうるさく言うので買ったが、着るのは初めてだった。
 まさか君の葬儀が最初になるとはね。
 心の中で君に話しかけた。
 いや、僕は昨夜からずっと、心の中で、時には声に出して、君に話しかけていた。
 怖かったかい、痛かったかい───
 水族館デートは楽しかったかい。忘れたい人を思い出させて悪かったね。僕が忘れさせる筈だったのにね。もっともっと、時間が欲しかったね。たった三度しか会えなかった。離れる時は辛かったよ。もっとそばにいて欲しかった。
 僕のマリア。
 何も信じられなかった僕が、たった一人見つけた、信じられる人。
 ああ、だけど───
 この世は流転する空虚に溢れている。
 僕の虚ろを満たしてくれたね。君にはどんな風に僕は映っていたのかな。きっと僕と同じだったと、僕は信じられる。
 さあ、君に会いに行くよ。これが最後じゃない。何度だって僕は墓に向かうだろう。
 空は薄曇りで視界は黄ばんで見えた。雨が降るだろう……折り畳み傘を鞄に入れた。
 電車を乗り継いで葬儀の行われる寺に向かった。記帳して香典を渡し、辺りを見回す。いつものネットのメンバーはいなかった。電話番号を教え合ったのは僕だけらしかった。同じ年頃に見えるのは、学生時代の友人たちと思われた。
 読経と焼香、説教の後で、皆で棺を囲み、献花を入れて、「あの、」と君のお母さんに話しかけた。君の顔には白い布がかけられたままだった。「最後に顔を見せてもらえませんか」
 するとお母さんは顔を曇らせて、「眼球も提供したから、顔が…目が落ち窪んで、あの子なら見せたくないと思うの」と言った。
「いいんです。どんな顔でも。最後に見せてください」
「…あなた、水族館で一緒だった方?」
「はい」
「それなら…他の方には見えないように、少しだけにしてください」
「ありがとうございます」
 この会話を聞いてか、参列者たちは僕から少し離れた。そっと布をめくる。お母さんの言う通り、まぶたが落ち窪んでいた。
 それでも、君はきれいだった。
 僕は亡骸にくちづけたい気持ちを抑えて、静かに布を戻した。
 棺の蓋が閉められ、布で覆われて、まもなく出棺となった。
 雨が降り出した。君が泣いているかのように───
 魂を奪われ、臓器を失った、虚ろな身体の君が車に乗せられていく。
 だけど僕は忘れない。
 君と出会い、満たされたあの刹那を───
 忘れるのが幸福なこともあると君は言った。けれど僕は、君を死ぬまで忘れない。そう誓おう。この先誰かを愛し、家庭を作り、年老いてゆくのだろう。それでも君の透き通った魂は、忘れ難い、命の糧になるのだろう。
 だから爪を切る時には、君を思い出そう。いつもいつもそうしよう。
 愛するということを教えてくれた、僕だけのマリア。君への信仰はクラゲの舞う深い海のようだと、走り去る車を雨に濡れて見送った。

2019. 5. 28

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