EMPTY

 君の手が楽しげに林檎の皮を剥いていた。くるくると回る林檎から細長く繋がって、皮の先端は床に届こうとしている。螺旋の間に見える赤が下の方に移動しつつ、息を止めてゆく。僕は腕を伸ばして、林檎の皮の先を掴むと引っ張った。
「あ、」
 細長い皮は林檎から離れて落ちた。
「せっかくここまで繋がっていたのに」
 君の言葉を無視して立ち上がり、僕はテーブルの上の林檎を手にして元の場所、つまり壁に凭れて床に座った。袖で軽く擦った林檎をかじると、君はそれを見なかったふりをして再びナイフを動かし始めた。
 一定のリズムで動く物は美しい。
 それだけは確かに言える。僕は君の手を見ながらそう思った。
 はらり、と林檎の皮の一切れがまた床に落ちた。君はもう林檎の皮に興味を失って、裸になった実を目の前に翳し、手首を回して自分の仕事ぶりを眺めていた。やがて満足するとそれをテーブルの白い皿の上に置いて二つに割った。二つが四つ、四つが八つ。芯を取り除く。
 白い皿の上の白い林檎は、やけにつまらない物に見えた。君がその一つを手にして口に運ぶ。部屋には林檎をかじる音しかしなかった。その音の心地よさは認めてもいい。だが白い皿はつまらない。僕の手の中の赤が、急に褪せて見えた。僕は眼鏡を外して傍らに置いた。
 おおよその事は、見ないふりをして僕らは上手くやってきた。妥協せずに気ままに暮らすには、余計な事を知らなければいいのだ。
 君は林檎の皮を拾ってゴミ箱に捨てた。眼鏡をかけて、僕はタオルで手を拭く君に「帰る」と告げて半分になった林檎を皿に置いた。皿には四切れの林檎があった。赤を添えられた白い皿は呼吸を取り戻したかに見えて僕は君に笑いかけたが、その意味は通じなかった。



 こんな日のこんな時間に上りの電車を待つ事が、いかにも僕に相応しい気がする。東京の外れの駅が年に一度だけ迎える花火の見物客を腹一杯に詰め込んだ電車が、向かいのホームに滑り込んだ。駅員が拡声器を使って人々を誘導する。上りのホームにいるのは僕だけだった。やがて目の前に現れた銀色のドアが開いて、僕はがらんとした車両に乗り込んだ。電車が走り出す時、車窓の向こうに最初の花火が上がるのが見えた。
 君は多分、部屋でその音を聞いただろう。部屋の窓からは向かいのマンションしか見えないから、君はサンダルを突っかけて外に出るかもしれない。僕が花火に背を向けているから多分そうするだろう。あの部屋の椅子の上で膝を抱えて花火の音を聞いているだけの君なんて、想像もできない。
 僕の影が屋根の上を飛ぶように車窓に映る。
 夜空を漂う魂のようだと言ったのは確か君だった。僕らは夜の電車が好きだった。並んで立ってガラスに映り、木々や屋根を飛び越え、電車に運ばれる僕らを見下ろす空想に浸るのが好きだった。
 それは僕らの唯一の遊びだった。今日のような花火の夜にこそ、僕は君とこの電車に乗るべきだったかもしれない。そう考えた時、電車は地下に潜った。
 車窓に映る約十分程の時間だけが僕らを満たした。その他の当たり前に過ごす時間は虚ろに回り、僕らは数字で時間を認識した。『今』という時の果てから、君は何を見ていたのだろう。これは君には言わないけれど、僕には何も見えなかった。



 さようなら。
 林檎一つ、上手く分けられない僕らは、明日も一緒にはいられないだろう。
 おそらく君は、二人で食べるつもりで林檎の皮を剥いていた。
 僕はただ半分に切ってくれるだけで良かったんだ。
 林檎の皮が床に落ちるのが嫌だったんだ。




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