僕の幽霊

 そのひとの姿はどことなく僕らのよく知る人に似ていた。
 けれど見たこともないひとだった。


 遠くから見た時、あれは誰だろうということよりも、なぜそこにいるのかが不思議だった。彼は違和感なく場に溶け込み、笑っていた。僕は少し離れてそれを見ていた。僕には彼が誰なのかわからなかった。
 前に会っただろうか、と考える。少なくとも僕にはなかった。誰かの知り合いだろうか、それにしては挨拶もない。にもかかわらず、彼はそこに居て、薄い笑みを浮かべていた。そして、一言も喋らなかった。


 それは真冬の寒い日で、ただ皆の顔は明るく、あたたかい輪になって話していた。彼はいつのまにかそこにいて、笑っていた。それがあまりに当たり前のようだったから、遠くからそこにいるのは誰だろうと一人一人を確かめた僕だけが、彼が誰なのかと思っているようだった。


 ふ、と彼から笑顔が消えた。
 いや、彼から顔が消えた。


 つるりとした卵の殻のような顔───けれど誰も気づいてないのか───誰も何もおかしいと言わない。他愛ない話をして、軽く笑って。僕の目がおかしいのだろうか。彼はつるりとした顔で、それでも笑っているのがなんとなく伝わった。皆が楽しげだったので、僕は黙ってそのひとを見ていた。


 皆が別れるのを見計らって、僕はそっと彼に近づいた。
 間近でつるりとした顔を見ても、不思議と恐怖は感じなかった。今まで親しげに話の輪に居たからだろう。そして、僕らのよく知るひとのような雰囲気を醸していた。僕は問いかけることを少し躊躇ったが、そのひとの方が僕に気づいて、僕の問いを待っているようだった。意を決して尋ねた。


「あなたは誰ですか」


 そう問いかけた途端に彼はそれまでの生気を失った。がくん、と倒れそうになる彼の肩を支えた。軽い身体だ───人間とは思えないほど。
 これは何かの暗示だと、なんとなく気づいた。
 だから僕にだけ、顔がないように見えたのだろう。彼の身体を支えて歩き、僕の部屋へ連れていった。椅子に座らせると彼は頭をぐったりと伏せた。
「大丈夫ですか」
 答えはなかった。いや、最初から、彼は一言も発していない。彼が椅子からずり落ちそうに見えたので、僕はまた彼を抱えるようにして支えた。彼の頭が僕のこめかみに当たる。ひんやりと冷たかった。
 もしかしたら───と僕は思った。


 これは幽霊だ。
 だから不思議だった。なぜあの場にいたのかが。
 彼を支える僕の腕の中で、彼の気配がだんだん薄くなってゆくのがわかった。そうして僕は、次第にその正体がわかり始めた。


 これは僕の幽霊だ。
 だから知人の姿を借りている。


 そう考えれば納得がいった。僕の記憶が作り出した幽霊だと。
 そして、僕がそう感じたのを気づいたように、彼が消えようとしている。僕は彼を寝床に横たえ「ゆっくりおやすみ」と言った。


 僕の中の何かが死んでゆく。


 僕は抑えきれずに彼を抱きしめ、頬ずりし、髪を撫でた。まぶたに、そして唇にキスをして「どうしてそんな姿をしているの。自分を忘れてしまわないで」と耳に囁いた。
 すると今にも消えそうな淡い輪郭に、彼女の顔が浮かび上がった。
 誰も知らない、僕だけの思い。


 ごめんよ。
 独りにしてごめん。
 ずっとそばにいると約束したのに。
 きみの方から来てくれたんだね。
 さよならを言いに。
 ごめんよ。
 そんなつらい言葉を言わせたくなかったのに。
 まるで僕の弱さを許すように───


 いつかきみのもとへ行く日が来たら、その時はもう離さないと決めた。
 だからきみはきみを失わないで───
 もう一度、笑顔が見たいんだ。


 僕の言葉は彼女に届いているのか、もうわからなかった。腕の中で彼女が眠りに落ちて消えるまで、僕は何度も彼女にくちづけ、静かに、ただ、愛していた。




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