佳純を家まで送る。自転車を引いて、並んで歩く。ごく僅かでも長く一緒に居たくてゆっくりと。今日一日、楽しかったとあれこれ、ぽつりぽつりと話しながら。
 坂下二丁目の交差点を渡り、公園の方へと角を曲がる。その先に、天ヶ瀬家はある。手前の公園に、パジャマ姿の男が見えた。公園の明かりに浮かび上がる姿には、影がなかった。あれが神の言った幽霊か───痛いほどの視線を感じた。呪われるような……
 全身を針で突かれるようなチクチクとした痛みに、思わず足を止めて霊を見てしまった。目が合った。ここは無視しなきゃいけなかったのに……佳純が「陽一くん?」と僕を振り仰ぐ気配がした。痛みに耐えながら振り向いて「何でもないよ」と笑ってみせた。早く佳純を家に帰さなきゃ危険だと思った。
 公園の脇道を通り過ぎると痛みは消えた。ゆっくり進んで、二つ目の角を曲がれば天ヶ瀬家だ。門の前に立ち、小さくホッと息を漏らした。
「今日はごちそうさま」
「私こそ……デートって初めてで、でも楽しかった。ありがとう」
 別れのキスをしようと顔を近づけると、佳純は目をぎゅっと瞑って唇を固く結んだ。
 ───これは……
 まだ、キスが怖いみたいに見えた。僕は佳純の左頬に軽く唇を当てて離し、佳純が驚いたように目を開けるのを見た。
「今日はここまで」と微笑んでみせた。「佳純が怖くなくなるまで、待つよ」
「陽一くん…違う、陽一くんが怖いんじゃないの」
「うん。わかってる」
と、僕は佳純の頭を撫でた。
「少しずつ、慣れていこうね。僕も佳純とが最初なんだから」
 あは、と笑いが漏れた。それを見て、佳純が安心したかのように微笑んだ。
「もうお帰り。家に入るまでがデートです」
「うん…おやすみなさい…」
「おやすみ」
 天ヶ瀬家の大きな門が閉じられ、庭を歩く音、次いで玄関の戸が閉まる音を聞いてから、僕は自転車に跨った。
 さっきの霊は天ヶ瀬家の近くまで来ていたって事か……
 嫌な予感がした。




 公園まで自転車を走らせ、入り口で止まる。先程の幽霊は、こちらに背を向けていた。壁を表現するパントマイムのような仕草。僕は自転車をそこに停め、静かに彼に近づいた。
 ───今日、自殺したばかりだと言ってたな。
 慎重に言葉を選ばなければならない。
「何をしているの」
 声をかけると、彼は背中をビクッと固くして振り向いた。
「おまえが…おまえがやったのか…?結界が張られて天ヶ瀬さんの家に近づけない…」
 結界?
 トイレの神か親父かわからないが、佳純は守られてると知って少し安堵した。
 あとは昇天させる為の説得だ。
「俺には結界を張るなんて力はないよ」
「じゃあ、この結界は何なんだ…誰がこんな事を…」
「神の意志だろう」
「神の意志…?」
 彼の顔色が一層青ざめて見えた。
「そうだよ。君を悪霊にしない為の結界だ」
 よし、この調子だ───そう思った時、彼は言い放った。
「僕の魂は清らかなんだ。悪霊なんかになるものか。それなのに結界?おかしいじゃないか」
 そして僕に歩み寄って「おまえこそ、天ヶ瀬さんを汚す奴だろう」と正面から睨んだ。
「うちの学校にも天ヶ瀬さんに彼氏が出来たって噂は流れて来たよ。先週、放課後に礼冠の校門を見てたら、さっきみたいに自転車引いて並んで歩いて…彼氏気取り?ハ、笑わせるな。天ヶ瀬さんのような清い人には、僕の方が似つかわしいんだ。天使がそう告げたんだ」
「天使?」
「ああそうだよ。僕には天使が味方についてるんだ。僕は特別な存在なんだ」
 聞いてないぞ、便所紙。
「じゃあ訊くけど、特別な存在の君が、なぜ自殺なんてしたんだ」
「天ヶ瀬さんを永遠に僕のものにする為さ」
 ひゅう、と風が吹いた。梢がざわめく。怪しげな気配を感じた。
「天ヶ瀬さんとはキスまでしたんだ。恋人も同然だ。彼女も僕を好きだったんだ。高校で一緒になれなかったけど、運命は僕らを結びつけて離さないと天使が教えてくれた。僕が魂を捧げれば、天ヶ瀬さんの心は一生、僕を思い続けると」
 ───魂を捧げる?
 まさか……
「それは本当に天使なのか?人を殺して魂を奪うような存在が天使だと言えるのか?」
 そうだ。それはきっと悪魔だ。天使のふりをして彼に近づき、彼を自殺に追いやり、魂を手に入れる───
「…佳純はキスを怖がっている。無理矢理キスされたと言っていたよ。心の傷になっているんだ。思い違いもいい加減にしろ」
「佳純なんて気安く呼ぶな!思い違いはおまえの方だ。命の恩人だからって自惚れるな」
「それも天使が言ったのか?それは本当に天使なのか?」
「……うう……うる…っさい!」
 彼は手のひらをこちらに向けた。僕は勢いよく後ろにすっ飛んだ。受け身を取って着地する。だが彼はすぐに僕の上にのしかかって来た。───重い。痩せた体躯がこんなに重いはずはない……
 僕の首を絞めながら「おまえなんか、おまえなんかに天ヶ瀬さんは渡さない…」と手に力を込めた。息ができない───
「おまえも今すぐ死ね」
 ダメだ、もう説得の効く相手じゃない……
 胸ポケットのお札が突如光を放ち、バチッと音を立てた。「くっ」と彼は痛そうな声を漏らし、手の力を少し緩めた。僕は重い腕を動かし、ポケットからお札を取り出して彼の顔面に押し付けた。
「ぎゃあああああ!」
 彼は黒い影になり、霧散して消えた。
「かはっ」と僕は咳き込んで、しばらく公園の隅に転がって息を整えた。
 説得に失敗した───天界へ送れなかった。
 僕は地面に仰向いて寝ながら、「くそ!くそーっ!」と叫んだ。
 天界へ送るべきだった魂を、僕が悪霊に変えて消し去ってしまったのだ……




 帰宅してすぐトイレに入った。どんなに責められても仕方ない。
 ひらり、と紙が落ちて来た。
『ご苦労だった。おまえには悪かった』
「え?」
 何だかいつもより紙が現れ落ちてくるのが遅く感じられた。
『あの霊が言っていた天使の存在を把握しきれてなかった。天界の落ち度だ。おまえが気に病む事はない』
「でも…」口惜し涙がこみ上げた。「俺らしく成仏させろって…言ってくれたのに…」
『そうだったな。おまえになら出来ると私は思ったんだが、荷が重かったようだ』
「やっぱり俺、未熟なんだな…」
『始めは誰だってそうだ。今回の件も、仕方なかったと思え』
 ───仕方なかった。果たして本当にそうなのか。そう思え、それしかないのか。
「救える筈の霊を…悪霊に変えてしまった。それも仕方ないの?俺は死神失格だよ…」
『いいや、一つわかった事がある』
「何?」
 はらりと落ちて来た紙にはこう書かれていた。
『天界に裏切り者がいる。死神でもない御門正之に札を授けて操ろうとし、少年に天ヶ瀬佳純を自分のものに出来るとそそのかし、自殺させた者がいる。天界に問題が起きていると言ったのはそれだ。誰かが悪魔と通じている』
 天界の中に裏切り者が───天地がひっくり返るような驚きを感じた。
『天界の問題は我々で処理する。おまえはこれまで通り、死神として励め』
「ああ…わかった…」
 それ以上紙は落ちて来なかった。僕は『天界に裏切り者がいる』の紙を何度も読み返してから流した。
 裏切り───神が?
 何を企んでいるのか、天界という場所さえよく知らない僕には難しい問題だった。
 ただ、昼間に思った事───神って、案外、人間らしさを持っているのかもしれない、それは本当の事のようだった。
 心してかからなければならない。
 大切な人を、大切な場所を、僕が守らなければならないのだから。