日曜日がやってきた。今日は佳純との初デートだ。毎日学校で顔を合わせているけれど、だんだん緊張してきた。
「落ち着け、俺」と呟きながらシャツにアイロンをかけて、『鈍感な二人はすれ違い。ちょっぴり泣ける、ゆるキュンコメディー』という触れ込みの映画を見るつもりなので、途中で佳純に差し出すハンカチにも隅々までアイロンをかけた。
 出かける前にトイレに入ると、早々に紙がひらりと落ちてきた。それをつかまえる。いつもより太い筆文字で『祝 初デート』と書いてあった。
「…便所紙、もしかしてバカにしてる?」と天井を睨んだ。ふわりと浮かび上がった紙が降りてくる。
『楽しみに水を差すつもりはない。今日おまえたちが行く複合型映画館の周辺は、違う死神の管轄になる。幽霊を見かけても無視しろ。死神に会っても無視しろ』
「もちろん、大事なデート中に死神の仕事なんて出来ないだろ。無視するよ」
『それが出来ないのがおまえという死神だ。だから忠告する。絶対に無視しろ』
と言われて、うっ、となった。
 ……まあ、まさかデート中に幽霊に会うなんて事もないだろう……と、紙を流した。




 認識が甘かった。
 待ち合わせの10分前、最上階にシネコンの入ったビルの入り口に立って、佳純を待ちながら辺りをゆっくりと見回した。
 駅前広場にはたくさんの人が行き交う。それを窺うように物陰から目を光らせて、不意に人波に紛れる者たちがいる。人々の間をぬって歩き、また物陰に潜む。彼らは幽霊だと一目でわかった。───影がないのだ。
 何をしているのかわからないけど、神に『無視しろ』と言われている。無視だ、無視。
 不意に「あら、あんた」と背後から声をかけられた。
「珍しいオーラねえ」
 その言葉にビクッとして振り向くと、青白い顔色の女がウェーブのかかったロングヘアを揺らして、軽く浮くように近づいてきた。
 ───関わるな。死神だと悟られてはいないようだ。だが振り向いてしまったために、相手の声が聞こえた事がバレていた。今からでも無視をするしかない。
「あんたのオーラ、霊力が強いのね。アタシの声が聞こえてるんでしょ?」
と背後から正面に回って来た。顔を覗き込まれ、目だけを動かして視線を逸らした。
「アタシの姿も見えるみたいね。フフフ、気に入ったわ」
「……」
 目を動かしたのが失敗だった。女は長い爪の手を伸ばして、僕の頬に手のひらを当てた。
「痛っ」
 パチッと音がして、女は素早く手を放すと、警戒するように一歩下がった。
「あんた、身守りを持ってるわね。…それも強力な…」
「……」僕は無視を続けた。
「ああ、男ってみんなそう!都合が悪くなるとすぐ無視して逃げるのよ。ここら一帯はアタシたちの餌場なのよ。人間が倒れない程度に少しずつ生気を奪っているの。気を遣ってやってるんじゃないの。それなのに姿が見えても無視?ああ、そう!無視、無視、無視なのね!男なんて卑怯者よ。アタシが生きようが死のうが知らずにやり過ごすのよ」
 女は生前、男に無視され裏切られたらしかった。恨みの念がじわじわと肌に沁みた。何かが侵食してくる感覚……不快だった。危険を感じたが神には無視しろと言われている。黙っていると、感情的になった女が言った。
「ここを通る奴らみんな、生気を全部奪ったっていいのよ?それでもちょっとにしてやってるんじゃない。アタシたちは善良な霊なのに、かわいそうだと思わないの?」
「…善良な霊?」
 僕はこみ上げてくる不快感を抑えながら言った。
「これまで僕が出会って来た霊たちは、身守りを持った僕に触っても痛がらなかったよ」
「なんですって?」
「あなたはもう悪霊になっているんだろう」
 どこからか風でも吹いたかのように、女のロングヘアがなびいた。
「…かわいそうに」
と僕が呟くと、女の髪がふわりと揺れ動くのをやめた。
 そこへ不意に誰かが僕と女の間に割って入った。女と対峙し、僕からは顔が見えないが、男だった。右手にお札を持っている。僕のと同じだ、と思った瞬間、男は手を伸ばして女の額にお札を押し付けた。
「あああああ───!」
 苦しげな悲鳴───これが断末魔の叫びというのか───女は悲鳴を残し、黒い影となり消えた。空いた手を下ろす男が、ゆっくりと振り向いた。
 御門正之……
 呆然とした。
「大丈夫か」と御門は無表情に尋ねた。
「あ、ああ…」
「君は八神陽一くんだったね。天ヶ瀬さんの彼氏の」
「……」頷いた。
「どうやら君は霊が見えるようだね。こういう、霊の集まる場所は気をつけた方がいい。見えると知れたら憑かれるからね。今みたいに」
 助けてくれたのか───「あ、ありがとう…」と言いながら戸惑った。
 御門の力は負の魔力のはず……それはオーラの見える梶だけでなく、天界の便所紙も言っていた事だ。
「今の霊はどうなったんだ?…消えたけど…」
「悪霊は地獄に堕ちるしかない」
 すると御門は『死神』ではないのか…?同じお札を持っていたが…
「ああ、天ヶ瀬さんが来たよ」とバス停の方を見て御門が言った。
「デートの邪魔はしないよ。じゃあ、僕はこれで」
 佳純が僕に駆け寄るのと、御門が離れて行くのが同時だった。
「遅れてごめんなさい。渋滞でバスが遅れちゃって」
「ううん。そんなに待ってないよ」と微笑むつもりが、顔が引きつった。
「今、ここにいたの御門くん?」
「ああ、偶然会って…挨拶してただけだよ」
「ふうん?」と佳純は上目遣いで僕を見て、「ん、ん」と咳払いをした。
「何?」と訊くとムッとした顔で言われた。
「ニブチン」
 鈍…?ああ、そうか。いつも垂らしている真っ直ぐな髪を、ハーフツインテと言うのか、サイドをリボンで結んでいる。服は小花柄のブラウスにペールブルーのスカートが清楚だ。どう?って訊いてるって事だよな。デートの初歩じゃないか。
「似合ってるよ。いつも可愛いから気づかなかったけど」
「一言余計なんだよ」
 耳まで真っ赤に染めて佳純はプイと横を向いた。




 映画の内容が頭に入って来ない。一つ、気になっている事があった。
 先刻の幽霊は、僕が「かわいそうに」と言ったら殺気が消えたのだ。
 もしかしたら、説得すれば成仏出来たんじゃないのか…?
『悪霊は地獄に堕ちるしかない』
 御門はそう言ったが……救えたのではないかと気になって仕方なかった。
 時折、隣の佳純がクスッと笑って我に返った。───楽しんでるみたいだな。良かった。両片思いの二人がコミカルにすれ違いを続け、笑いを誘っていたが、二人がやっと気持ちを確かめ合うシーンでは、隣からスンと聞こえて来て、僕はアイロンをばっちりかけたハンカチを差し出した。「ありがと」と小声。ポップコーンが手もつけられずにそのままだ。僕はポップコーンを頬張りながら、終盤をちゃんと見る事が出来た。
「良い映画だったね」
とシアターを出て佳純が僕を振り向いた。空いたジュースとポップコーンのカップを載せたトレーを片付けながら「うん」と答えた。
「ごめん、ちょっとトイレ」
「あ、私も」
 見つめ合ってフッと笑った。それぞれのトイレに別れ、僕は個室に入り「便所紙」と呼んだ。
『幽霊に会ったら無視しろと言ったであろう。このバカチンが』
 ニブチンの次はバカチンか。
 相変わらずの便所紙の語彙力に、僕は力が抜けた。早速の説教だ。
「見てたんだろ?無視出来る状況じゃなかっただろ。それよりこの辺りの管轄の死神って、御門なの?」
『余所の管轄の死神が誰なのかは答えられない。死神同士で争いが起こる可能性があるからだ』
「争い?」何を、と思った。便所紙はそれには答えずに、
『先程の悪霊を御門正之が消した事により、天界で問題が生じている。詳しくは言えないが、引き続き御門への注意は怠るな』
 ───天界に問題?そんなに大ごとだったのか。
「それよりさっきの…悪霊?俺が説得してたら成仏できたかもしれない」
『いいや、悪霊は地獄に堕ちるのみだ』
 続けて紙が落ちてくる。
『地獄で苦行を経て、やっと昇天出来る。それが輪廻転生の定めだ。おまえの説得などで昇天は出来ない』
「じゃあ御門のやった事は正しかったの?」
『正しいと言わざるを得ない。ただし、今回に限ってだ。これ以上は追及するな。おまえが身を滅ぼすかもしれないんだぞ』
 ───いつか言ってたな。僕が死神じゃなくなったら、昇天も出来ず浮遊霊に……悪霊になる、と。
「御門がお札を持ってたのはどうして?」
『答えられない質問をするな。これ以上追及するなと言ったはずだ』
「おい!便所紙!」
 もう紙は落ちて来なかった。
 さっきの悪霊も言ってたな……男なんて都合が悪くなると無視して逃げるって。神様も似たようなものなのか。神って、案外、人間らしさを持っているのかもしれない。




 それからカフェで少し佳純と話し───映画の前半の内容がうろ覚えなので後半の事しか言えなかったが───、スーパーで買い物をしながら、また新婚さんみたいだ、と思った。デミグラスソースの缶詰をカゴに入れ、佳純は「あとは…」と野菜や肉などを選んでいた。レジで僕が財布を出すと、佳純は「わりかん」と言って半額出した。結局気を遣わせてしまった……僕に経済力があれば……ちょっとへこんだ。
 スーパーを出て家に向かって歩きながら、「佳純は作ってくれるだけでいいのに」と会計のことを言うと、佳純は僕を振り仰ぎ、
「私、陽一くんとはフェアでいたいの。どっちかが負担になるような関係は嫌よ?」
と笑顔で言った。
 フェアで、か───佳純らしいや。
 僕は片手にエコバッグを持っていた。空いた方の手を伸ばし、佳純の手をそっと握った。
「…恥ずかしいよ」とボソッと声がした。
「いいじゃない、俺の彼女だって見せびらかしたいんだ」
「……」
「俺も同じだよ。佳純の負担になりたくない。フェアでいたいって、そういう佳純がいいんだ」
「…うん」
 きゅっと、手を握り返された気がした。
 こんな些細な事で気持ちを確かめ合う───映画みたいにロマンチックじゃなくても───それが、心を暖かくした。
 家に着いた頃には夕方六時を回っていた。佳純は「早速作らなきゃね」とバッグからエプロンを取り出して身につけた。「お米は?」と訊かれて、そういえば米なんてずっと買ってないな……と思い出した。
「親父と二人になってからは、一人で飯にする事が多かったから…。真空パックのレンジでチンするごはんしかない」
「そう……ごめんね、思い出させちゃった?」
「え?」
「ご両親の事」
 ああ───そうか。また気を遣わせてしまった。
「おふくろが出て行ってもう十年だし、親父の事は……ちゃんと看取ったから。大丈夫、落ち着いてるよ」
「…無理してない?」
「してないよ」
と、僕は手のひらを佳純の頭の上に置いた。
「だって俺たち、フェアな関係なんだろ?」
 ニコッと笑ってみせた。
 佳純はそれを見てか安心したように「うん」と微笑んだ。
 それから手早く料理を始めた。玉ねぎとにんじんを細かく刻んでるのへ、「何か手伝える事ある?」と訊いたら「ごはんをチンしておいて」だった。何もしないのと同じだ。じゅうっと熱したフライパンが音を立てて、何か炒めている様子だった。それを片手鍋に移し、フライパンを洗って、鍋にデミグラスソースを加え、味を整えている。
「何作ってるの?」
「オムライスのソース」
「わ、本格的なやつだ」と言うと、佳純は「ふふっ」と笑った。
 余程手慣れているのだろう───あっという間にデミグラスソースのオムライスと、トマトとモッツァレラチーズのサラダが出来上がった。ダイニングのテーブルで向かい合い、いただきますと手を合わせた。感動的に美味い。昨今、美味いと評判のコンビニ弁当を毎晩食べていても、それ以上に美味いのは、やはり好きな子が作った料理だからだろう……胃袋が幸せで満たされるのを感じた。
 後片付けは僕がやった。佳純がやろうとするので、それを止めた。
「佳純が料理して、僕が洗い物をする。フェアでしょ?」
と言うと、佳純はむっとした顔で「ぐうの音も出ねえ」と言ったのが可笑しかった。
 門限があるからもう帰らなきゃ、と言う佳純を送って行く事にした。何気なくトイレに入る。
 ひらり、と紙が落ちて来た。
『これから天ヶ瀬佳純を送るのだろう。途中、坂下二丁目の公園で幽霊に会うはずだ。だが無視しろ。天ヶ瀬佳純を家に送ってから、その幽霊を成仏させろ』
 坂下二丁目の公園───僕が聡子おばあさんを天界へ送った場所だ。
『その霊は天ヶ瀬佳純が中学時代に無理矢理キスをした男だ。今日、自殺したばかりだ。自殺した霊はこの世に全く未練がないか、何かに強く執着してこの世に留まっているかのどちらかだ。その霊は天ヶ瀬佳純に執着して、おまえを恨んでいる』
「え……」
 はらり、とまた落ちて来た。
『説得は厳しいだろう。身守りの札で祓え。ただし、それは最終手段だ。できればこれまでのように、説得して成仏させろ。それが出来ないなら、御門のように札を霊に押し付けるしかない』
「そんな、無理矢理だなんて…」
 昼間の悪霊の断末魔を思い出した。
 耳をつんざく、地獄へ堕ちる恐怖の悲鳴。
「かわいそうだよ…」
『そう思うならおまえらしく説得するんだ。それがおまえという死神のはずだ』
 僕という死神───
 紙を流し、佳純が帰る前にちょっと、と僕らは親父の遺骨の前に正座した。
「親父、紹介するよ。俺の彼女の天ヶ瀬佳純さん」
 佳純はぺこっとお辞儀をした。
「親父が墓に入る前に紹介出来て良かった。頼む。佳純の事、見守ってやって」
「陽一くん…?」
「俺じゃ未熟なんだ。何かあったら、守って欲しい」
と、頭を下げた。つられたのか、佳純も頭を下げた。
 御門の素早い判断と行動に、自分の未熟さを思い知らされた───
 親父なら。
 ───親父という死神なら、こんな時どうやって愛する人を霊から守っただろうか。
 きっと、成仏させたはずだ。天界へ送ってやる事が出来たはずだ……
 僕を恨むのは構わない。だが佳純に執着して何かしでかすなら───いや、その前に天界へ送るんだ。
 それが、僕という死神だと神が言うのだから。