バイト先から自転車を取りに戻り、帰宅して弁当の夕飯を済ませ、シャワーを浴びて、やっと一息ついた時、今日の選挙の結果を佳純に訊いておこう、とメッセージを送った。
『選管委員お疲れ様。今話せる?』
『3分待って』
『了解』
 3分後、FaceTimeの呼び出し音。画面には白いボウタイ付きのブラウス姿の佳純が映し出された。「バイトお疲れ様」と照れたような笑み。
「佳純は普段からおしゃれなんだね」
「ううん。パジャマだったから…慌てて着替えたんだよ」
と目線を逸らされた。軽く尖らせた唇。僕に見せるための着替え。何もかもが、可愛かった。
「パジャマ姿見たかったな」と笑うと、「バカ!恥ずかしいだろ」と赤面した。
「だったらメッセでも良かったじゃない」
「顔…見たかったから…」消え入りそうな小声だ。
「え?何?」
「2度も言わせんなバカ!」
「ごめんごめん」と笑った。
「…で、生徒会長は誰に決まったの?」
「小山内学」
「そうか…」ほっ、と安堵した。
「あんな奴が生徒会長だなんて、信じられない。たったの20票差よ?先生も、こんなに接戦の選挙は初めてだって」
「佳純は御門に投票したの?」
「うん。ボランティア委員会にも興味あったし。小山内よりまともだし」
 小山内にしつこく言い寄られていた佳純としては、御門の方が良かったのだろう、と推察した。
 御門にとって選挙の切り札はボランティア委員会だったのだろう。事実、それが功を奏して票を集めている。それでも小山内に手がわずかに届かなかったのは、校則の見直しによる締め付けが懸念されたからだった。
 誰だって、高校生活くらいは青春したいもんな。
「小山内は、会長になったからには真面目に役を務めると思うよ?将来がかかってるし」
 クス、と笑いが洩れた。
 それに───ボランティア委員会で、佳純を御門に近づけたくなかった。梶も繰り返して言っていた。御門に近づいてはダメだと。それは僕に言ったのだが、誰が御門の負の魔力に脅かされるかわからない。死神の僕に近い人間なら尚更だ。
 その時は、僕が守らなくちゃいけない。神にも言われているのだから。
 御門の後ろ盾は悪魔であり、いつか対決しなくてはならないと。




 翌朝には選挙結果が校庭に面した廊下の壁に貼り出され、午後には新生徒会の就任式が行われた。小山内は得意げに挨拶をし、「それでは来月の礼冠祭に向けて、共に頑張りましょう」と締めくくった。
 礼冠祭。普通の学園祭である。
 前にも言ったが、礼冠学園は進学校であるから、運動部より文化部の方が活動が活発だ。一年間の活動はこの礼冠祭を目標にしていると言っても過言ではない。それでも部員数には恵まれず───帰宅部が多い───囲碁将棋部などは囲碁と将棋の同好会が合併して人数を確保し、『部』として活動している。美術部と漫画研究部、演劇部と映像研究部なども部活動としての人数は足りているが、活動の発表となると、持ちつ持たれつで礼冠祭に参加しているのだ。
 同好会はどこも少人数で細々と活動しているが、礼冠祭にはこだわりの展示、出し物を用意する。ロボット研究会などはその最たるもので、大学の研究室並みの自作ロボットを動かしてゲームをしたりしている。「ロボ研を見に来ました」と言う声も多く、人気は高い。
 佳純の所属する英会話同好会は、毎年英語劇と決まっている。舞台の端に日本語訳のフリップを持った下級生がいるが、有名な話───童話など───なので、大体のところは聞き取れる。今年は『白雪姫』らしい。白雪姫はもちろん佳純だ。キスする王子は誰なのか気になったが、会員は全員女子で、キスするふりをするだけだと言われてほっとした。
 そして友部ら運動部組、僕ら帰宅部組は、クラス展示(と言ってもほぼ皆食べ物屋)に回るのだ。
 僕ら二年B組は、『ゾンビカフェ』に決まった。
 スタッフがゾンビのカフェ。ハロウィンが近いせいか、皆乗り気で決まったが、客が逃げないか?
「大丈夫、服装はメイドと執事だから」
 ───そういう問題か?
 生徒会交代で、クラス委員も下半期の委員に交代していた。礼冠祭が近いのもあって、クラスをリードするのに相応しい人材として、友部が委員長に、飯綱が副委員長に選ばれていた。
 そうして放課後、第一回の打ち合わせが行われた。
 飯綱が手元の紙の束をめくって、
「衣装係が要るわね。メイドと執事の他にもゴシックな感じで…そんなゲームあったでしょ」
「あれか」と通じる友部もすごい。
「衣装をレンタルするとなると、執事とメイド服だけじゃ足りないと思うし」
「暗幕も要るな。蝋燭は使えないから百均で灯りを探すか」
 どんどん話が決まっていく。
「特殊メイクはさすがに無理だけど…顔色悪く見せるくらいなら、女子に任せて。あとは血のついた包帯でも巻けばいいでしょ」
「なるほどな」
「メイド喫茶や執事喫茶は他のクラスでもやるから、衣装はもう衣装係で押さえちゃって。友部くん、暗幕頼んでいい?」
「争奪戦だからな。俺が八神とぶん取ってくるわ」
「お願いね。メニューは次回から詰めていきましょう。よろしくお願いします」
「あの、」と僕は右手を軽く上げた。
「衣装レンタルって…予算大丈夫なの?」
「生徒会長が私の家に頭が上がらないから大丈夫よ。それに礼冠祭に予算を割くのは会長の公約だったでしょ?」
 割と強引なんだな、飯綱……涼しい顔でさらっと言う。
「ちょっと待って」と手を挙げたのは佐藤さんだ。「トンキならレンタルと同じくらいの値段で衣装買えると思う。血糊のついた包帯とかでレンタルの服を汚すのはちょっと…」
「そうか。それもそうね。わかった。特にメイド服は早めに手を打ちましょう。とりあえず今日、帰りに値段調べてくるわ。佐藤さん、付き合ってくれる?予算の提示もしなくちゃいけないし」
 ざっくりとだが、大まかな方向が決まった。あとは設営だが───
 暗幕は普段体育館と視聴覚室で使われているのと、予備があるが、友部の言う通り、毎年争奪戦だ。そして使用を許可されるのは視聴覚室の暗幕と予備だけ。体育館でも演劇部の舞台やバンドのライブなどあるので、こちらは使えないことになっている。暗幕は礼冠祭前日までは配られない。廊下側と窓側だけで8枚必要になる。事前に待機して一番乗りで確保できれば良し、だが、同じ考えの奴らと結局奪い合いになることが予想できた。友部の巧みな話術に期待だ。
 ゾンビカフェの会議解散後、バイトの時間までまだ間があったので、教室で佳純が戻るのを待った。佳純は英会話同好会に行っている。白雪姫か…七人の小人はどうするんだろう?人数が足りない筈だ。なんてことを考えていたら、戻って来た佳純が「陽一くん」と驚いた顔で僕を見た。
「待っててくれたの?」
「うん」
 佳純は飯綱の席の椅子を引いて、僕に向かって座った。
「知ってたらもっと早く戻ったのに」
「ゾンビカフェの方がさ、話が早くまとまったんだよ。さすが友部と飯綱だな」
「そう…私も劇の出番以外はカフェの方、手伝うから…。あ、裏方よ?メイクしてる時間はないから」
「残念。佳純のメイド、見たかったのに」クス、と笑えた。
「ゾンビでも?」
「うん」と僕は頬杖を突いた。
「ゾンビでもきっと可愛い」
「バカ、変なこと言うなよ」と佳純が真っ赤になった。
「陽一くんはゾンビ執事なの?」
「一応ね」
 考えてみれば妙な話だ。死神の僕がゾンビになるなんて。
「執事の衣装が足りなかったら、何かゲームのキャラやらされるみたいだったけど。ゾンビだよ」
「楽しみ。見てみたい」
 教室には西日が差して、佳純の目がキラキラと輝いて見えた。───気づけば二人きりだ。期待で笑みを浮かべる佳純が、いつも以上に可愛く見えて、彼女の柔らかそうな唇に目が吸い寄せられた。
 僕は腰を浮かせ、飯綱の机に片手をついて、一瞬、佳純の唇に軽くキスをした。
 そのまま見つめ合う。
 佳純はみるみる顔を赤くして、でも「バカ」とは言わなかった。両目が潤んでいる。嫌だったのかな……と後悔しかけたその時、瞬きした佳純の目から、ぱたぱたと涙が落ちた。
「あ…ごめんなさい。これは…」と佳純は指先で涙を拭った。
「陽一くんが優しくて嬉しかったから…」
「え?」
「その……中等部の時にね、クラスにストーカーみたいな人がいて……その人は高等部の入試に落ちたから転校してって、それはもう良いんだけど、ただ…」
「うん」と僕は椅子に座った。
「…無理矢理にね、キスされたの…」
「……」
 そんなことがあったなんて───佳純の人気を思えば、それはあり得ることだったが───やはりショックだった。
「押さえつけられて…逃げられなくて、強引で乱暴で…気持ち悪くて怖くて…もう…最悪のファーストキス」
 そう言って、佳純が表情を曇らせた。
「…そんなの忘れなよ」と、口をついて出た。「そんなの、カウントするなよ。初めては俺とって、思ってよ」
「…うん。初めては陽一くんがいい…」
 佳純がまぶたを閉じた。僕はもう一度、キスした。佳純が怯えているのがわかって、ほんの少し長く、二秒くらい。
 わずかの時間が、長く感じられた。唇を離して佳純の目を覗き込み、彼女の頭に手を回して僕の胸に押し付けた。
 佳純が泣いているのが伝わってきた。しばらく動けずにじっとしていた。
 そんなの忘れなよ、と簡単に言ってしまったけれど───
 佳純にとっては、忘れたくても忘れられないトラウマだったのだろう。
 バイト先のコンビニに向かって、二人並んで歩きながら、泣いて目の縁が赤くなった佳純の横顔を盗み見た。無理矢理のキスのショックで頭の中は真っ白になり、いつものように怒ることもできなかったと言う。コンビニに着いて、僕は自転車を支えて足を止め、「佳純」と呼んだ。
「これからは俺が佳純を守るから。だから、信じて」
 佳純は僕を見上げ、どう反応していいかわからない、といった顔をした。
「佳純に辛い思いさせない。そうなるよう、頑張るからさ…信じて、俺のこと」
 すると佳純は泣きそうな微かな笑みを浮かべ、「うん」とだけ答えた。僕は佳純の頭を撫でて、「じゃあ、いってくる」と軽く片手を振った。
「いってらっしゃい…」
 フッと笑いが洩れた。
「何だか本当の恋人同士みたいだね」
「…これまでは違ったの?」
「ううん。ただ…やっと本物になれた気がするよ。日曜、楽しみにしてて」
「…うん」
 店の裏手に自転車を停め、通用口の戸を開けても佳純は僕を見つめていた。笑顔で手を振って戸を閉めた。




 バイトを終えて帰宅すると、トイレのドアを開けただけで紙が落ちて来た。「何だよ」とドアを閉めながら紙を受け止めた。
『天ヶ瀬佳純の寿命が延びた。良かったな』
「え?」
『おまえとの接吻で、天ヶ瀬佳純の心が変わったのだ。これまでこの世に執着のない娘だったが、今は無意識にも生きたいと生命が望んでいる。この前のおまえの失敗で死期がずれてしまっていた。それが変わったのだ』
「え?…ちょっと待って、じゃあ佳純はまた死ぬ目に遭うことになってたの?」
『その通りだ』
「何で黙ってたんだよ」
『おまえがまた助けようとするからに決まっているだろう』
「当たり前だろ!」
 僕は、はあと深く息を吐いた。
「佳純は俺が守るって決めたんだ。神様でも相手になる」
『それでいい。おまえの強い意志が天界の決定を覆したのだ。必ず守ると肝に銘じておけ』
「わかってるよ」
 それ以上、紙は落ちて来なかった。
 初めての司令の紙にもあったな───佳純は、この世に執着のない娘だと。
 それって……いつ死んでもいいって思ってたってこと……?
 僕と付き合い始めてからも───僕がキスするまで。
 そんな風に思っていたなんて、僕は佳純のことをまるで知らないのだと改めて気づいた。僕の知る佳純は、リアル天使と呼ばれる愛らしい顔立ちと、それに似合うおとなしい雰囲気、誰もが憧れる学園のアイドル───それも事故までのことで、もう一つの顔───口が悪くて、だけど優しくて、恥ずかしがりですぐ赤くなって怒る、それも可愛くて、だから僕は好きになったんだ。僕とのキスで、生きる希望を感じ始めたのなら、尚更愛おしかった。
 だけど僕は知らない。『それまでの佳純』を。
 過去に何かあったのだろうか……ストーカーみたいな奴がいたって言っていたけど、それだろうか。
 もっと違う何かがありそうに思えた。
 それより、日曜は明後日だ。いつも学校で会っているけど、どこかへ出かけて───デートするのは初めてだ。明日の土曜は溜まっている家事をやっつけて、夕方にはまたバイトだ。僕はスマホで近くのシネコンの上映スケジュールを調べた。なんたって初デート。佳純にとって最高の日にしたい……「ちょっと待てよ」と僕は寄りかかったソファから起き上がった。
 初デートより先にキスなんてしちゃって、佳純を傷つけてないだろうか?
「うわああ、やっちまった」と両手で頭をくしゃくしゃと掻いた。だってとても可愛かった───文字通り吸い寄せられたのだ。
 佳純が「嬉しかった」と言ったのを信じるしかない───両手を垂らしてソファにもたれ、天井を仰ぎ見た。僕の胸で涙をこぼした佳純の髪の香りが思い出されて、ちくっと胸が痛かった。
 親父の遺骨に供えるウイスキーがもうない、と思いながら最後の一杯をグラスに注いで、僕は親父と相対した。正座して、膝に拳を載せて尋ねた。
「親父、俺…神様でも相手になるって言ったけど、そんなこと出来るのかなあ…。トイレの神様は『それでいい』って言ってたけど、俺なんかにも出来ることなの?他の死神に会ったことないからわからないけど…」
 ろうそくの炎が明滅した気がした。───気のせいか。
「親父…おふくろが出てった時、どうだった…?他に男作ってさ、子供の俺を置いて…最低な母親だよな。それでも親父は…おふくろのこと、どう思ってた…?」
 無論、答えはない。
 お酒、鎌田さんに頼んで買って来てもらわなきゃ…
 ろうそくを手であおいで火を消した。




 そこは以前カオルが夢に現れた、白い場所だった。雲のように薄い靄のかかった足元。そこにいたのは、親父だった。
「陽一。母さんを責めるな」
と、静かな声だった。
「会社と死神の仕事で、家にいることが少なくて、いても神に呼ばれればすぐ家を後にした。俺は家庭を顧みない男だった。母さんも寂しかったんだろう。俺を信じてなかったのかもな。そんな時に出会った人だったから、その男を選んだんだろう。陽一を置いて行ったことは───俺に息子を残してくれたんだと俺は思ってる」
「…残してって?」
「父さんが独りになってしまわないようにな」
と、親父は言って鼻をスンと鳴らした。
「母さんが出て行ったのは、俺が不甲斐なかったからだ。だから母さんを責めるな。母さんは俺が死神だと知らなかった。俺が何か隠していると気づいて、信じられなかったんだろう」
 そう言うと親父は微笑んだ───見たこともないような笑顔だった。
「おまえはいい恋をしているようだな」
「……ッ!」
「ハハ、ちゃんと見てるさ。彼女、いい子だな。大事にしろよ。もし───」
「もし?」
「必要なら、死神のことを話してもいいんだぞ。規定では許されないことだが……父さんたちのようになるな。イレギュラーもあるんだって、おまえが『最初の例』になればいい。これからの死神たちの幸福も考えてやれ」
 これからの死神たちの幸福───
 責任重大だと思った。
「ああ、最後に一つ」
 親父の姿が消えそうに薄くなっていくのがわかった。
「母さんはおまえを愛していたよ。それは間違いないことだ。だから母さんを憎まないでくれ。憎しみは心身を蝕む。柳さんも言っていたが、今のおまえを大切に、大人になれ」
 そうして、すうっと親父は消えた。
 白い景色が消えてゆく───そう思った時、親父が再び現れた。
「もう一つ。ウイスキーはいつものよりちょっと高級なやつで頼む。…おまえが自分で買いに行ける日が楽しみだよ。じゃあな」
 フッと消えた。僕はガバッと飛び起きた。───夢か……
「なんだよ、ちょっと感動したのに、あんなオチつけるなんて」
 朝の鳥のさえずりを聴きながら、思った。
 俺の人生、コメディーだ。