「で?明日はどうなんだい、陽ちゃん」
と言って、鎌田さんはパチンと駒を置いた。王手。僕は逃げるしかないと、王将を動かそうとすると、「もう逃げ場はねえよ」と言われて、「参りました」と頭を下げた。
「まだ一回も鎌田さんに勝てねえ…ああ」
「始めたばっかの陽ちゃんに負ける俺じゃねえよ」と鎌田さんは笑った。
 それが柳さんのカラカラという笑い声と重なった。
 柳さん、僕は時々、こうして鎌田さんと将棋を指しています。柳さんとの思い出は、悲しくもあるけど、楽しみもくれました。胸はまだ痛むけど───僕は駒を片付けながら、
「明日は午前中で授業…と言っても全部自習になるんだけど、昼までで終わりで、その間に好きな時に投票に行けるんだ。佳純が選管委員だから、明日は勉強もできなくて…。午後には開票を始める事になってる」
「ふうん」
 今日の放課後、放送委員会が生放送した所信表明演説での小山内学と御門正之の主張はだいたい次のようなものだった。
 小山内は、生徒が青春を謳歌する明るく楽しい学園作りに生徒を牽引する生徒会にすると述べた。その為にまずは十月の学園祭に力を注ぐつもりだと。学校行事を生徒主体で運営するリーダーになると言った。また制服の規定の緩和を学校側に働きかけ、自由度の高い、生徒たちが個性を発揮する学園作りを目指すという事だった。
 一方、御門は、希望者なら誰でも入れるボランティア委員会を設立し、地域に、ひいては社会に貢献する人材を育成する学園を目指すとした。学園祭も地域に礼冠をアピールする機会であると捉えていた。また風紀の乱れ───女生徒のスカート丈の短さなど───を正したいとも述べた。
 簡単にまとめると───話は長かったが───学園を楽しくしたい小山内と、厳しく規律正しい学園を理想とする御門との、相反する内容の演説だった。
「梶の言う通りなら、御門に投票はできない。負の魔力で学園を統率するならね。小山内は気に食わないけど、奴に投票するしかないんだ」
「神様のお告げは?」
「どちらが当選するかは生徒次第でわからないって」
 はあ、と知らずため息が出た。お茶をいれよう、と立ち上がってキッチンに向かう。
「だから、小山内が当選するのを祈るしかないんだよ」
「でもあれだろ?陽ちゃんが朝助けた目の見えない人の件、広まってるんだろ?」
「そうなんだよ…。普通に考えたら小山内の方が優位なんだけど、その件で票が減ると考えられるから…」
 お湯を注ぐコポコポ…という音が、やけに響いて聞こえた。もう夜中だ。こんな時間まで僕に付き合ってくれる鎌田さんに申し訳なくなった。鎌田さんは時々、バイトが終わって帰る頃には訪ねて来てくれていた。お土産を手渡してすぐ帰る時もあれば、将棋を一局、手合わせしてくれる今日のような日もある。
「鎌田さん、明日大丈夫なの?」
「休みだから気にするな。俺が来たくて来てるんだしよ」
「ありがとう」とお茶を差し出した。
「陽ちゃんこそ休まなくて大丈夫なのかい。毎日ギリギリだろう」
「まあね。…でも、大丈夫だよ」
 自然と顔がほころんだ。鎌田さんの優しさが、僕を笑顔にしてくれる。
「それと、親父の四十九日だけど…このまま鎌田さんに任せちゃっていいの?」
「ああ。陽ちゃんは死神の仕事もあるし、勉強にも集中してもらわないとな」
「ありがとう」ずず、とお茶を啜る。
「おふくろさんは呼ばなくていいのかい?」
「…うん…。母親にはもう物心ついた子供もいるし、前の旦那とはいえ他人だろ、もう。関わらせて向こうの家庭に迷惑かけたくないんだ。親父もそう思う筈だよ」
「そうだな。葬式も本当は、人を呼ばないでひっそりやりたいって言ってたからな。ほら、あの人柄だから、職場の連中は来たがったから承知したけどな」
 鎌田さんはフッと笑った。
「親父さんはみんなに好かれてた。その血が流れてんだ、陽ちゃんも。それを忘れるなよ…っと。長居しちまったな。陽ちゃんは明日もあるんだからもう休みな」
「うん、ありがとう」
 それじゃまた、と玄関まで見送りに出た。すると暗い夜道に、おばあさんが一人、立っていた。玄関の明かりに近づいて、「ただいま陽ちゃん」と言うので驚いた。
「帰って来てくれたのね」
 これは───
 鎌田さんが「任せろ」と僕に囁いて、「おかえり。遅かったじゃないか」とおばあさんを迎えた。
「今のうちにこの人が誰か神様に聞いてきな」と小声で促す。僕はトイレに飛び込んで「便所紙」と呼んだ。
『その老婆は今市聡子。認知症で徘徊癖がある。おまえがドアを開けなければ、坂下二丁目の交差点で事故死する筈だった。鎌田も余計な事をする』
「余計じゃないだろ」
『魂管理の予定が狂う。余計な事だ』
「…とにかく、保護したからには警察に連れて行くからね。止めるなよ」
『おまえの事はあきらめている。止めても無駄だと承知している』
「いい心がけだ」僕はニッと笑った。
 トイレから出て「聡子おばあちゃん」と呼んでみた。
「はい、はい。陽ちゃんも大きくなったのね。茂雄、あなたにはあまり似てないのね」
と鎌田さんに言うので、鎌田さんが「茂雄って息子と間違えているんだろう」と囁いた。僕も「警察に連絡するから、相手しててあげて」と小声で耳打ちし、スマホを手に二階へ上がった。近くの警察署でいいだろう、と電話をかけた。
「───おばあさんが徘徊しているのを保護したんですけど。はい、今市聡子さんです」
「今市聡子さん。捜索願いが出ていますね。すぐ迎えの車をやりますので」
「よろしくお願いします」
 階下に戻ると、聡子おばあさんはすっかり鎌田さんの事を息子の茂雄さんだと思い込んでいた。話が時折ちぐはぐなのも、記憶が混濁しているのだろうと思われた。
「陽ちゃんがこんなに大きくなって。茂雄も歳をとるわけだわ。礼冠学園は楽しい?陽ちゃん」
 どうやら、孫の『陽ちゃん』は、礼冠の卒業生らしい───「うん、楽しいよ」と笑いかけた。
「孫が礼冠に行ってるって、ご近所さんも羨ましがるのよ。自慢の孫だわ。今度の学園祭も楽しみね。陽ちゃんはフォーク部で歌うんでしょう?おばあちゃん、見に行くからね」
「うん。待ってるよ」
 いいのだろうか、こんなに嘘を重ねて。
 鎌田さんがどっしりと構えているので、僕もすらすらと嘘をついていた。聡子おばあさんの楽しげな笑顔に、僕も嬉しかった。そうしてお茶を飲みながら、笑顔で話を続けていると、
「茂雄、こうしてゆっくり会うのも久しぶりね。私がふるさとの園に入ってからなかなか来てくれないんだもの」
 ───ふるさとの園?
 だとしたら随分な距離を歩いて彷徨っていた事になる。同じ事を思ったのか、鎌田さんも少し驚いていた。
「ごめんよ、忙しくて」
「いいのよ。わかっているから」
「ふるさとの園に帰ろうとしていたの?」と僕。
「そうよ。でも道がわからなくなって…気づいたら帰って来てたの。良かったわ、陽ちゃんに会えて。自分の家もわからないなんて、まるで惚けているみたいね」
 他人事のように言う。
「おばあちゃん、ふるさとの園に帰る前に、警察に行かなくちゃいけないから…」
「警察?どうして?」
「おばあちゃんがいなくなったって聞いて、警察に捜索願いを出したんだ。そのせいでちょっとだけ、用事があるんだ。すぐ帰れるから…」
「そうなの…」
と、聡子おばあさんは落胆したように俯いた。
「やっぱり私は家には帰れないのね…園に戻るのね」
 家族に会えなくて寂しかったのだろう。迎えが来たら、家族に一言、もっとふるさとの園に行ってやってくれ、と言おうと思った。
 と、家の外で車が止まる音がした。程なくしてピンポンと呼び鈴が鳴る。モニターに制服姿の警察官が二人、映し出された。
「おばあちゃん、お迎えだよ」
「はい、はい。陽ちゃん、またね。会いに来てね」
「うん、絶対行く。もっと行くようにするから…」
 ドアを開けると二人の警官がおばあさんを挟むように並び、背を押した。僕が「ご家族は」と訊くと、「署で待っていらっしゃいます」との事だった。僕は「もっと聡子おばあさんに会いに行ってあげるよう、伝えてください」と頼んだ。警官も微笑んで「わかりました」と答えた。すると、不意におばあさんが振り向いた。
「陽ちゃん」
「何?」
「ありがとう。あなたは本当にいい子ね。こんな年寄りにも優しくしてくれて」
 それは───認知症からふと正気に戻ったような口ぶりだった。
「聡子おばあちゃん。僕、本当に園に会いに行くから。待っててね」
 孫じゃないけど。……その言葉は呑み込んだ。
「ありがとう。茂雄もありがとう」
「ああ。気をつけて」
 路肩に停まったパトカーの後部座席に乗り込んだ聡子おばあさんは、にこやかに手を振った。警官が運転席と助手席に着くと、静かにパトカーは走り出した。
 ほんの、小一時間の出来事だった。
 鎌田さんも帰り、僕はシャワーで風呂を済ませて、髪を拭きながらテレビをつけた。「今入ったニュースです」とアナウンサーが原稿らしき紙を手に引き寄せた。
「───坂下二丁目の交差点で、パトカーが大型トラックに追突される事故がありました。この事故で、パトカーに乗っていた今市聡子さん八十五歳が亡くなりました。今市さんは徘徊していたところを保護され、警察署に向かう途中でした」
 ───え?
 僕は両手でテレビの角を掴んで画面を睨んだ。事故現場が映る。よく見知った、坂下二丁目の交差点。僕はトイレのドアを大きく開けて「便所紙!」と呼んだ。
「どういう事だよ!事故の予定はなくなったんじゃないのか?」
 はらりと落ちて来た紙には、
『そんな事は一言も言っていない。予定が狂って、追突事故という、事故の内容が変わっただけだ』
「そんな…」
 僕はトイレの床にへたり込んだ。
「約束したのに…。ふるさとの園に会いに行くって…」
『所詮他人だろう』
「他人だけど!」
 僕には祖父母の記憶がない。物心ついた頃には祖父母とも亡くなっていた。
 聡子おばあさんは、そんな僕にとって、本当の孫のように褒めてくれた、本当のおばあさんのような人だったのに……
「良かったな、死亡予定通りになって!」
 僕はトイレを飛び出しドアをバンと勢いよく閉めた。
「……っ」
 両目がじんとして、僕はギュッと目を瞑った。
 泣いている場合じゃない。僕にはすべき事があった。
 今頃、聡子おばあさんは、どこに行けばいいのかわからず、迷っている───
 僕は2階の自分の部屋で、スウェットを脱ぎ、白いシャツとジーンズに着替えた。胸ポケットにお札を一枚入れて、戸締りをして自転車を引いて門を閉め、坂下二丁目の交差点へ向かった。




 腕時計を見ると午前一時を差していた。交差点の明かりの下で、事故に遭ったパトカーがレッカー車で引かれて行くのが見えた。車が退くと、歩道に立って運ばれてゆくパトカーを見ている聡子おばあさんがいた。自転車の速度を緩めて近づく。現場を調べる警官たちがいたが、事故車に乗っていた───おばあさんを迎えに来た二人の警官もいなかった。
 事故現場を眺めるふりで聡子おばあさんに近づいて、肩をポンと叩いた。僕を振り返り「陽ちゃん」と言うのへ、僕は人差し指を唇に当てて「しー」と合図した。声は周りに聞こえないのはわかっていたが、返事ができないからだ。右手は自転車を引きながら、おばあさんの手を握って歩き出す。
「何があったの?呼んでも誰も答えてくれないし…私が見えないみたいなの。陽ちゃんは違うのね」
「うん。一緒に来て」と曲がり角で小声で言った。角を曲がると住宅街だ。この先に公園がある。そこでなら、天界へのドアを呼び出せる筈だ。お札を持っているから───説明も、公園でしようと考えていた。
 公園に着くと、聡子おばあさんは「あら懐かしい」と明るい声を上げた。
「陽ちゃんが小さい頃、一緒に来たわね。公園。陽ちゃんはブランコが好きで…」
と、ブランコに近づき、腰を下ろした。ゆらゆら揺れながら続きを話す。
「よくこうしてブランコに乗る陽ちゃんの背中を押したものよ。危ないって言ってるのに、もっと、もっと押してって。大きく揺れるブランコから落ちやしないか、気が気じゃなかったわ」
 そうして今度はジャングルジムに目を遣った。
「それからジャングルジムに登っていたわね。一度落ちた時は怖かったわ…。大した怪我がなくて覚えてないでしょう?陽ちゃん」
 僕も隣のブランコに腰かけた。
「ごめんなさい、聡子おばあちゃん。僕は、あなたの孫の陽ちゃんじゃないんです」
「…え?…じゃあ…誰、なの?」
 僕は小さくブランコを揺らしながら、
「陽一です。だからおばあちゃんに『陽ちゃん』って呼ばれた時はびっくりしました。でも、嘘をついてごめんなさい」
「…ああ…そうよね…。陽ちゃんは確か三十歳になったもの…こんなに若い筈ないわ…」
「こんな夜中に一人で歩いてるなんて、危ないと思って、僕の知り合いも咄嗟に茂雄さんのふりをして家に入れたんです」
「そうだったの…」と聡子おばあさんは俯いた。「茂雄と間違えて、ごめんなさいね」
「いいえ」胸が痛かった。「僕らが嘘をついたからです。ごめんなさい…」
 頭を垂れると、「いいのよ」と頭上で優しい声がした。
「私が道に迷っていたのを、助けてくれたんでしょう?ついていい嘘も、あるのよ」
 ついていい嘘もある───
 その言葉に救われた気がした。
「おばあちゃん。事故現場で誰にも気づかれなかったのは、あなたがもう亡くなっているからです。今ここにいるのは、体から離れた魂だけなんです。僕に姿が見えるのもこうして話せるのも───僕が死神だからです」
 僕はすっと立ち上がった。聡子おばあさんに手を差し出した。
「…天国へ、行きませんか」
「天国…?」
「僕が『陽ちゃん』として、最後にできる事です。天界への扉を呼び出します。そこから───」
 目頭が熱くなった。
「───天国へ、行ってください」
「…つまり私は死んだのね?」
「はい。こうして死神の僕がおばあちゃんに会えたのも、何かのご縁です。どうか、僕に見送らせてください」
 おばあさんは僕の手を取って立ち上がり、
「そうね。私が道に迷ったのも、陽ちゃんと出会うためだったのかもしれないわ」
と微笑んだ。
 胸ポケットが温かい。お札を取り出すと、ぽう、と淡く光っていた。
 暗い公園に灯された小さな明かりのように。
 僕は左手にお札を持って聡子おばあさんに差し出した。
「端を持ってください」
 言われた通り、おばあさんが端を持つと、お札の輝きが増した。僕は右手を伸ばして天界へのドアを呼び出した。
「さあ、開けてください」
 おばあさんがドアを開ける。眩い光が漏れて来た。
「ここから先は、僕には行けません。このお札は天国まで迷わないよう、導きの札として持って行ってください」
 僕がお札から手を離すと、おばあさんはそれを両手で持って胸に当てた。
「ああ…今なら何もかもわかる気がするわ。茂雄や嫁のことも、陽ちゃんのことも……私は親として祖母として、大切にされていたんだって。ふるさとの園になかなか来てくれなかったのも、仕方のない事だったのも……むしろ私が寂しくないように、園に入れたんだって事も……」
「聡子おばあちゃんは、愛されていたんですね」
 僕はふっと笑みを浮かべていた。
「それはきっと、聡子おばあちゃんが、みんなを愛していたから…」
「ええ、そうよ。本当は家族と離れたくない……」
「そうですね。でもね」
 僕は言葉を探りながら続けた。
「事故という突然の事だったけど、事故がなくても、いつかはお別れしなくちゃいけないんです。できれば、今の愛されていたという気持ちで、天国へ行ってください」
「愛されていた───そうね、愛されていたんだわ」
 聡子おばあさんは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう陽ちゃん。いえ───死神さんかしら。最後にあなたに会えて、良かったわ」
「僕もです。僕には祖母がいなかったから…聡子おばあちゃんが、本当のおばあちゃんのようでした。幸せな時間を、ありがとうございました」
 深く頭を下げると、上げられなくなった。
 どうしてこうも僕は、涙もろいのだろう。
「ありがとう陽ちゃん。頭を上げてちょうだい。顔を見せて」
 僕は涙を堪えて顔を上げた。
「そんな顔しないで。本当に、あなたは優しい子ね。人の痛みがわかる、いい子だわ」
「……」
「家族はきっと泣くでしょうね。他人のあなたが泣くのだから。それだけで充分よ。ありがとう、陽ちゃん。さようなら」
「…さよなら…」
 おばあさんがドアの向こうの光の中に消えた。僕はそれをいつまでも見ていたい気がした。だが、もう家に戻らなければ。僕がドアを閉じると、ドアはすうっと消えた。
 自転車をゆっくり漕いで帰宅した。トイレの神様のお告げが、そのまま床に散らばっていた。一枚ずつ拾い上げる。
 『所詮他人だろう』の文字が目にとまった。
 他人だけど───
 孫のように、見送る事ができたのは奇跡に近い幸福なのだったと、僕は紙をトイレに流した。