今日もカラッと晴れて気持ちのいい朝だ。
 バイトがなければ洗濯物、外に干すんだけどな…と、昨夜部屋に干した洗濯物を見た。今朝もトーストで朝食。飽きてはいるが、これが一番安上がりだ。僕は昼の弁当を楽しみに、今日は何かな、と考えた。毎日、佳純が作ってくれる弁当。昼食代も浮いて助かってるけど…甘えっぱなしにはいかない。何かお礼できる事ないかな、と考えながら戸締りをして自転車を漕ぎ出した。
 心地よい風を受けて走る。赤信号で自転車を止めた。氷川神社の前だ。いつもここで赤信号に引っかかるんだよな…と思っていると、歩道の端に人が立った。カツカツという音で何気なく振り返ると、白い杖だった。目線を顔に向けると、サングラスをかけている。目が不自由なんだな、と思った。この通りは事故の多い危ない通りだ。僕はまたがっていた自転車から降りて近づき、「あの、」とその人に声をかけた。「はい」という声が思いがけず若かった。髪が短くてわからなかったが、女性の声だった。
「横断歩道、一緒に渡りましょうか」
「よろしいんですか?」
「はい。この道、危ないですから」
 ───僕もここで事故に遭ってるしな。
「ありがとうございます」
 僕は右手で自転車を支え、左手をその人に差し出し、肘の辺りをそっと取った。「青になりましたよ」と歩き出す。ペダルが足に当たってカタン、カタン、と音を立てた。痛いな、と自転車を少し離して引いた。
「自転車ですか?」
「はい」
「お急ぎじゃないですか?」
「大丈夫です。時間ありますから」
「お若い声ですね。学生さん?」
「はい。礼冠高等部の二年です」
「ああ、さすが礼冠の生徒さんは、親切ですね」
「いえ」
 そんな会話をして、道路を渡り切った。「ありがとうございました」と頭を下げられ、「いえいえ」と手を振ったが、見えないのだと気づいた。
「お気をつけて」
 僕は自転車にまたがり、ゆっくりと漕ぎ出した。急ぐとその人が心配するだろうと思った。時間はたっぷりある。僕はいい気分になって、フンフンと鼻歌交じりに自転車を走らせた。
 学校に着いて教室に入ると、驚きの光景があった。
 梶沙都莉の髪が短くなっていた。長い髪を後ろで括っていただけのヘアスタイルが、ショートボブというのか、短い。髪がウェーブしているのは巻いているのか。こちらを振り返り、「あ、八神くん…おはよう」と、少し怯えているように見えた。
「梶さん、髪切ったの?」
「う、うん…あの…」としどろもどろに話す。
「髪、くせっ毛が嫌で…しばってたんだけど…美容師さんが、短い方がか、可愛い…って…」
「ずいぶん思い切って短くしたんだね」
「か、かわ…変わりたく…って…」
 ああ、そういう事か。
 休み時間の度に教室を出て、一人きりで過ごしている梶に、僕はこう言ったのだった。
 ≪もっと周りを見なよ。そして話しかけたり、笑いかけたりしてごらんよ。寂しい霊の友達になれるなら、そんな事、簡単な筈だよ。君はひとりぼっちじゃないんだよ≫
 孤独のあまり霊に憑かれた梶に。
「どど…ど、どう?八神くん」
「うん。似合ってるよ」
 すると梶は照れくさそうにふわっと笑った。
 ───なんだ、こんな笑顔、できるんじゃないか。
 僕の中の梶のイメージ、『不気味キャラ』が一変した。こうして見ると、梶って案外可愛いんだな……
 と、そこで視線を感じて、目を教室の入り口に遣った。真顔の佳純がこちらを見ている。と思ったら、佳純が笑顔になって、まっすぐこちらに歩いて来た。
「梶さん、髪切ったんだね。可愛い」
 佳純の明るい声に、女子たちが集まって来た。
「えー?天パなの?うまく巻いてるのかと思った」
「いいなあ、可愛い天然巻き髪」
「八神くん」と佳純が振り向いてニコッとした。
「鼻の下、伸びてたよ?」
「……」
 怒っている。これは怒っている、絶対……
 とりあえず女子に取り囲まれている梶に巻き込まれている状況から抜け出したかった。しかし梶も僕に助けてくれと言わんばかりにこちらを見ている。
 すまん、梶。友達を作るためだと思って頑張ってくれ。
 僕は「ちょっと、ごめん、ちょっと」と佳純の腕を引いて女子の群れからやっと抜け出した。クラス公認の仲なので、不自然ではない筈だ。
 教室を出て廊下を少し進んで教室を離れ、小声で話した。
「鼻の下なんて伸ばしてないって」
「……」じろり、とにらまれた。
「梶はずっと学校でボッチだったのを変わろうとしてるんだ。佳純も仲良くしてやってよ。結構いい奴だよ、あいつ」
「…なんでそんな事知ってんだよ」
 それは───死神の仕事で梶に憑いた霊を成仏させたから───なんて言える筈もなく。佳純の口調が変わったので、やっぱり怒ってた、と思った。
「一人で昼飯食べてるの見かけて、話をしただけだよ。ほら、鎌田さんから電話があった時」
「ああ、それで…戻って来るの遅かったの」
「そうそう」
「でも…」と佳純の表情が曇った。
「陽一くん、誰にでも優しいから…。梶さん、陽一くんの事、好きって顔で見てたよ」
「ええ?」目をひんむいてしまった。
「そんな事あるわけないだろ」
「…自覚ねえのかよ」
「ない。それより、」
と僕は佳純の頭に手を載せた。
「妬いてくれてるの?」
「バッ、」と佳純は言いかけて絶句した。「バカ」と叫びそうだったらしい。僕は優勢に立ったと思って、佳純の顔を覗き込むように見た。
「心配要らないよ」
 佳純の頭を撫でてやると、何も言えないらしい佳純が赤面して唇を尖らせた。やっぱり、こんな佳純がいい。僕の一言でむくれながらも信じてくれているのがわかる。
「今日は生徒会選挙前の朝礼の日だろ?一緒に体育館行こう。ね?」
 僕も照れくさくて笑いかけながら言った。
「俺の彼女らしく、堂々と隣にいてよ」
「……バカ……」
 聞き逃しそうな小声だった。




 体育館には徐々に人が集まり、自然と出席番号順に並んだ。佳純は一番前、僕は後ろから二番目。前の舞台に校長が上がると、静かになった。
「───今朝、道で目が不自由な方の手を引いて横断歩道を渡ってもらったと、ご本人からお礼の電話がありました。我が校の二年生だと名乗ったそうですが、誰ですか。挙手しなさい」
 生徒たちがざわめいた。手を挙げにくいな……と思っていると、
「恥ずかしがらなくていい。礼冠の指導は素晴らしいと褒めていただきました。誰ですか」
「はい」
と声がして、僕は驚いて、頭の上に伸びた手の持ち主を見た。
 隣のクラスの小山内学だった。
「いい事をしましたね。これからも、その心がけを忘れないように」
 ───人の親切を横取り?
 いや、僕は褒められたくてしたわけじゃない。だが平気で嘘をつく小山内に腹が立った。
 次に生徒会選挙の候補者たちが舞台に上げられた。一列に並んで頭を下げる。小山内は得意げに見えた……のは、立腹していたからかもしれない。
 選管委員長が「今日の放課後、候補者の演説を生放送します。ぜひ見て、清き一票を投票する人を選んでください」と朝礼を締めくくった。
 朝礼が終わると、生徒たちはバラバラに教室へ戻っていく。僕の顔を見た佳純が「どうしたの?」と訊いた。
「何が?」
「陽一くんがそんな顔してるなんて…図書室で小山内くんに怒った時みたい」
「ああ…なんでもないよ」と僕は笑ってみせた。「トイレ行くから、先に教室に戻ってて」
と、僕は男子トイレの個室に入ると「あの野郎…」と本音が出た。
 はらり、と紙が落ちて来た。
『おまえの行動は神々が見ている。おまえの善行は徳として積まれた。いずれ理解者も現れる。気にするな』
「…慰めてんの?」
 紙は落ちて来なかった。僕は『気にするな』の文字を繰り返し頭の中に刷り込んで、紙を流した。
 そうして昼休みまで僕は少し苛ついて───結局気にしてた───午前中を過ごした。以前は一緒に昼飯を食べていた前の席の友部祐也は他の友達と学食へ行ったようだ。僕は佳純と、隣の席の飯綱和歌子と昼飯を食べるようになっていた。飯綱の前の席は梶だ。
 ───さあ、どうする?
 梶から仲間に入れて欲しいと声をかけるのは難しいと思われた。僕は「梶さん、お昼一緒に食べない?」と話しかけた。
「え…」
と固まった梶は、やっとの事でという雰囲気で、つっかえながら答えた。
「み…みんなが…よ、よければ…」
「一緒に食べよう?梶さん」
 僕が「仲良くしてやってくれ」と言ったせいか、佳純からも誘った。飯綱は黙っている。無表情で感情が窺えないのはいつもの事だが、それを拒否と取ったのか、梶が「私やっぱり…」と言いかけたところへ、飯綱が「机の向き、変えたら」と言った。僕と飯綱の席が向かい合わせに付けてある。「机。こっち向けなよ」と続けた。
 少々つっけんどんだが、飯綱もいい奴だな……。梶が机を逆向きにして、四人で机を囲んだ。
 ちょっと、居心地が悪い。友部がいてくれたらこの男一人の状況を変えられるんだけど……今度から一緒に食べてくれるように頼もうかと考えていた。───佳純と二人で食べる筈だった弁当だけど。こういうのも楽しいかもしれない。
「このひじきの五目煮、うっま」白飯が進む。メインのミニハンバーグも美味い。佳純は照れくさそうに頬を染めて弁当に視線を落としている。たちまち弁当をたいらげたが、女子三人はまだ食べている。沈黙を割って友部が戻って来た。「学食で噂になってたんだけどさ」と椅子を引いて僕と梶の間に入った。
「今朝言ってた目の不自由な人を助けた奴、小山内じゃない疑惑浮上してるぜ」
「……」僕は黙って友部を見た。
「三年生で受験の合格祈願で毎朝氷川神社に通ってる人がさ、その現場を目撃してたんだけど、小山内みたいに背が高くなくて、片手でチャリンコ引いて歩いてたんだって。俺、この特徴に心当たりあるんだけど」
と僕を見てニッと笑う。飯綱が箸を置いて弁当箱の蓋を閉めて言った。
「小山内くんは電車通学でしょ。駅なんて、氷川神社と逆方向じゃない」
「それな」
「ひょっとして…八神くん?」
 全員の視線が僕に集まって、僕は梶のようにどもってしまった。
「う、うん…まあ…そう…だったかな」
「なんで言わないの?」と佳純が怒った。「陽一くんの親切をダシに使われるのよ?選挙、明日なんだから」
「言える雰囲気じゃなかったんだよ…先に小山内に言われちゃったし」
 僕も弁当箱をバンダナで包みながら、
「褒められたくてしたわけじゃないし。わかってくれる人が少しいてくれればいいよ」
「お人好しだな、おまえホント」
「私は許せない」と佳純。
「嘘をついて人を踏み台にするなんて、最低」
「じゃあ、呪ってあげようか…」と梶が例の『神秘の黒魔術』の本を取り出したので、「それはよせ」と慌てた。「冗談よ。フフフ」と、梶はやっぱり不気味キャラのニヤリとした笑みだった。
 しーんと静まった。僕は「とにかく、俺の事はいいから。ね?」と手で場を抑えた。
 飯綱が「まあ、この学園は噂好きだから、広まるのも時間の問題よ。佳純、落ち着きなさいよ」と頬杖をついた。「小山内のファンクラブもさすがに呆れるでしょうよ」
「ファンクラブ?そんなのあるの?」
「小山内、見かけだけはジャミーズ系でかっこいいものね。───八神くんにもファンクラブくらいあるわよ?」
 コーヒー牛乳が喉に引っかかってむせた。「な、なんで?」
「主に一年生だけど、天ヶ瀬佳純の命を救ったヒーロー、背は低いけど元バスケ部のレギュラー、家族を亡くして働く頑張り屋さん、地味だけど誠実そうな顔、…こんなところかな?噂では」
「なんで俺の知らないところでそんな事になってんの」
「佳純がいるから出しゃばらないのよ。相手が佳純なら、って納得してるみたいよ。奥ゆかしいわね。小山内のファンクラブと違って」
 不意に教室がざわついた。前の戸口から入ってきたのは、噂の小山内学だ。
「生徒会選挙を明日に控え、最後の挨拶に参りました。小山内学、小山内学です」とウグイス嬢の取り巻きを連れていた。
「明日の学園を創造する、生徒会長候補、小山内学です。皆様の清き一票を、小山内学に投票して下さいますよう、お願いします。放課後に所信表明演説を行います。ぜひ生放送でご覧下さい。小山内学、小山内学をよろしくお願いします」
「…何回名前言うんだよ」ボソッと友部の声。
 それに対して、飯綱も小声で言う。
「小山内の家は議員一族だからね。おじいさんが元国会議員で、伯父さんはおじいさんの地盤を受け継いで、現国会議員なの。もう一人、父親の弟の叔父さんは兄の威光を借りて県会議員だしね。父親は伯父さん───兄よね───の秘書をしていて、それを見て育った息子としては、父親のようになりたくない。従兄弟たちと争うわけだけど、自分が礼冠で生徒会役員をやってるから、伯父さんの地盤を継げると考えてるみたいよ。国政に打って出ると考えれば、生徒会長なんて、そのためのステップでしかないわけ」
「詳しいな、飯綱」
「選挙の度に、うちにご祈祷に来るからね、あの一族」
「うち?」友部と僕がハモった。佳純がきょとんとした顔で言う。
「和歌子の家、神社よ?」
「えええええ!」
「そんなわけで、小山内の事は小学校から知ってるの。家も近いから」
 衝撃の事実。飯綱の家が近くでなくて良かった……天界へのドアを呼び出すのを見られたら───多分見えないけど、不審には見えるだろう───それでなんとなく、神秘的な奴に見えたんだな、と思った。
 梶流に言うと、オーラがあるのだ。人を近づかせない雰囲気。佳純とは仲がいいけど……他に親しくしている女子を見た事がない。
 今朝の一件の真実を知らない生徒たちから拍手を浴びて、「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返し、小山内たちが教室を出て行った。
 次いで現れたのは、もう一人の生徒会長候補、御門正之だった。連れている応援団は二人しかいない。しかも男子だ。「お食事中失礼します」と教壇に立った。
「生徒会長候補、御門正之です。最後のお願いに上がりました」と本人が言う。
 それを見ていた梶が片手を口に当てた。───顔色が青ざめて見えた。と、突然梶は立ち上がり、教室を飛び出して行った。
「今日の所信表明演説をご覧の上で、御門を信用いただき、清き一票を投票下さるよう、お願い申し上げます」
 笑顔を見せる余裕すらあった小山内とは対照的に、厳しい真顔だ。僕はそれより、体を震わせて出て行った梶が気になって、「梶さん気分悪いみたいだったから、様子見てくる」と友部に後を頼んで梶を追った。
 梶は廊下の突き当たりに立っていた。後ろ姿がふらついている。僕は「梶さん」と呼んで近づいた。梶は吐き気を堪えるように両手で口を押さえていた。
「…あの御門くんって人…こ、怖い…」
「え?」
「オーラが…黒い…。禍々しいオーラ…あんな人見た事ない…」
 梶はガクガクと震えていた。僕は梶の肩を抱いて、「保健室行こう。ね」とゆっくり、目の前の階段を降り始めた。
 禍々しいオーラ…?
 梶の動揺は、黒魔術で悪魔を呼び出した時に似ていた。まさか───
 保健室に行くと、誰もいなかった。僕は梶をベッドに座らせ、掛け布団をめくって「少し寝てなよ。後でまた様子見に来るから」と梶を寝かしつけた。
「八神くん…」
「何?」
「あの御門くんには気をつけて…近づいちゃダメ。八神くんのオーラでも、御門くんには勝てない」
「どういうこと?」
「あの人…多分、強い魔力を持ってる…。それも負の魔力…。八神くんに災いが降りかかるかもしれない…ダメ、近づいちゃ…」
「わかった。わかったから。もうおやすみ」と僕は微笑んでみせて、ベッドを囲むカーテンを閉めた。
 ───さて。問題はトイレの神からどれだけ情報を得られるかだ。
 肝心な事、言わないからな…あの便所紙。
 僕は近くのトイレに入り、誰もいないのを確かめて個室に入り「便所紙」と呼んだ。
「御門正之について知りたいんだけど」
 にらみつけていた宙に紙がふわりと現れた。それを手に取る。
『梶沙都莉の忠告と同じだ。御門正之は魔力を借りて生徒会長になろうとしている。小山内学がおまえの善行を横取りしたのも、魔力に操られての事だ。小山内を自滅させるためだ』
「それじゃ全て御門の計算通りって事?」
『だが生徒会長を選ぶのはあくまでも生徒たちの意思である。どちらが当選するのかは天界でも把握できていない』
 肝心なところで…!
『いずれ御門正之とは対決する事になるだろう。身守りを授ける。十枚綴りに一枚サービスしてやる』
「回数券かよ」
『必ず一枚、身につけておけ。今や礼冠学園は、霊と魔物が集まりつつある。梶沙都莉が悪魔を呼び出したからだ』
「え…じゃあ、あの時、悪魔は消えてなかったって事?」
『そういう事だ。今は札の霊力で封じ込められているが、他の霊や魔物の力を得て再び、三度と現れるだろう。それを止められるのはおまえしかいない。おまえの学園なのだからな』
「……」
『天界からもできるだけ手は貸そう。だが最終的に悪魔を退けるのはおまえだ。それを忘れるな』
 集まりつつある霊や魔物とだけでなく、最後には悪魔と……
 ぞくっと寒気がした。