朝、寝ぼけ眼でトイレの戸を開けると、便器の周りの床に紙が散らばっていた。一枚ずつ拾い上げて見る。
 『バカ』『ドジ』『間抜け』『スカポンタン』など、およそ神らしくない語彙力。
『もう一押しすれば麻生カオルを成仏させる事ができた筈だ。詰めが甘い』
『成仏させられないばかりか、霊に取り憑かれる死神など前代未聞だ』
 筆跡の違いで、複数の神から説教されているのがわかった。
『他の死神は粛々と任務を遂行している。それができないなら、八神家はおまえの代で途絶えるだろう』
 僕は思わず「親父…」と呟いていた。
「俺の代で八神家が途絶えても、俺にはできないよ…」
 僕はトイレのドアを背に凭れ、ズルズルと床に座り込んだ。ふわり、と紙が一枚、降りて来た。見慣れた下手くそな筆文字。
『今、おまえに死神を続けさせるか協議している。おまえはお人好しが過ぎる。そこを強調して恩赦を願い出ているが、おまえが死神でなくなったら、おまえ自身が死後は昇天すらできずに浮遊霊になる。悪霊になりたくなければ、励め』
 悪霊に───?
 僕は習慣的に───ぼんやりとしながら───紙を流した。トイレを出てリビングに目を遣ると、ソファに横になりタオルケットをかぶって寝ているカオルの姿が見えた。
 このまま浮遊霊でいたら、カオルも悪霊になるのか…?
 僕の気配を感じたのか、カオルがぱちっと目を開けて「オハヨ、八神」と起き上がった。霊は眠らないのかな、と思った。
「なあ…カオル。やっぱり、天国へ行かないか?」
「行かないよ?」と無邪気な笑顔だ。
「このままだと悪霊になっちゃうかもしれないんだぞ」
「ならないよ。八神の側にいれば」
 え?
「八神、優しいもん。優しい人ってね、他の人も優しくするんだよ。だから私、悪霊なんてならないよ」
 そうか───
 僕はカオルに歩み寄り、「優しいのはカオルの方だよ」と、ニット帽の頭をポンポンとそっと叩いた。




 トーストで朝食をとり、制服に着替えた。今日は夏休み中の登校日。あと五日で夏休みは終わろうとしていた。
 鏡の前でネクタイを締めているとカオルが隣に飛んで来た。
「そのレジメンタルストライプ、礼冠?かっこいいよねえ。中等部の臙脂色もいいけど、やっぱり高等部のブルー系がいいな。女子の制服も可愛いよね。パフスリーブのブラウスに水色のリボン。スカートもネイビーじゃなくて微妙な、びみょぉぉうな青で…ジャケットのネイビーと色が合ってて。成績が良ければ礼冠、受験したかったなあ。…って、八神って頭いいんだね」
 一息で喋るカオルに苦笑しつつ「俺は成績は学年で真ん中くらいだよ」とリュックを背負った。
「…カオル、留守番できる?」
「できない。八神が見えないだけで、ガクガク震えるもん」
「震える?」
 ───悪霊に変わってしまう予兆だろうか。昨夜一晩、震えていたという事か───カオルの魂を側に置いた方が良さそうだった。
「わかった。一緒に行こう」
「やったー!礼冠に入れるんだ!ヒュー!」
と万歳するカオルが可笑しくてプッと笑った。
 自転車の後ろにカオルを乗せて走り出す。朝の日差しはもう強さを増して、今日も暑くなりそうだった。風を切って走る自転車を、赤信号で止めると、そこは氷川神社前交差点だった。通りの向こうの神社は木々の影が濃く、厳かな雰囲気を醸していた。ここに天界へのドアが置かれる筈だったんだな……僕のしたことは間違っていない、と自分に言い聞かせた。神が責めてもだ。信号が青に変わって、僕は佳純の笑顔を思い浮かべながら、ペダルを漕いで学校へ急いだ。
 門の所で自転車を降りた。ここから先は引いて歩く。数人の女子生徒たちが何かのビラを配っていた。何気なく受け取ると、びっくりした。
 『学園を刷新する』というコピーらしき文字に男のバストアップ写真。隣のクラスの生徒会書記、小山内学だった。下の方に堂々と『生徒会長候補』と書いてある。
 隣で覗き込むカオルが「何?ナルシストっぽい顔」と言ってクスクス笑った。
「九月の半ばに生徒会選挙があるんだよ。選挙活動も今日から解禁なんだ」
 礼冠学園は一応進学校でもあるから、生徒会長は二年生から選ばれる。つまり小山内は一年生の時から生徒会役員なのだ。カオルが「ナルシストっぽい」と言った通り、顔は確かにジャミーズ系と言うか、整った顔立ちをしているが、僕から見れば八方美人でフラフラと意見を変え、長いものに巻かれるタイプである。この一年で奴が学園を変えた事と言えば、去年佳純が優勝したミスコンを企画立案した事くらいで、学園を刷新する生徒会長に相応しいかどうか怪しいものだ。
 こんなビラ、ナルシストじゃなきゃ作れないよな。ビラを配っているのは小山内の取り巻きの女の子たちと思われた。僕から見ればアホっぽい小山内も、何も知らない女子たちにはカッコよく見えるらしい。
 ビラをたたんでポケットに入れ、自転車置き場で鍵をかけていると、「おはよう八神、おまえ死にかけたんだって?」と声をかけられた。顔を上げたら両手をポケットに突っ込んだ友部がニヤニヤ笑っていた。友部祐也とはバスケ部で一緒だった仲だ。僕は「おはよう。…まあ、そうだけど」と立ち上がり、「知ってたんなら見舞いくらい来いよ」と笑い返した。
「俺も今朝知ったんだよ。スッゲー噂になってるぜ?天ヶ瀬を助けたって、事故現場見てた奴がいてさ。車に跳ねられて飛んでったって」
 話によると、事故を通報したのもその生徒らしい。それはありがたいが、「小山内のビラよりおまえの噂で持ちきりだよ」と言われ、戸惑った。
 教室に向かう廊下でも、教室に入っても、生徒たちが遠巻きに見ているのがわかった。廊下の窓に人がたかっている。目線をそちらに遣ると「キャー」と悲鳴が上がったのには驚いた。友部が僕の前の席に座り「スゲーな。悲鳴が黄色いぜ」と鼻で笑った。
「あの天ヶ瀬を助けたスーパーヒーローだもんな」
「やめてくれよ…」僕はうなだれた。「そんなつもりで助けたんじゃないよ」
「わかってるよ。おまえは超ウルトラスーパーお人好しバカだもんな」
「なんだよ、その二つ名」
「ぴったりだろ?」
 予鈴が鳴ると廊下の人だかりは散っていった。教室に生徒たちが入って来て、それぞれの席に着く。僕は佳純が席に着く時、チラッと僕を見て微笑むのを見た。遠い。
 残りの夏休み、一日くらいデートできないかな…
 そんな甘い妄想がよぎった。
 ホームルームが始まった。担任の八幡先生が「二学期が始まったら進路志望調査票を配る。今からでも遅くないから進路はじっくり考えろ」と教卓に両手を突いた。
「それから、二学期から生徒会の選挙管理委員会が活動を始める。各クラスから1名ずつ、選管委員を頼むんだが、これは天ヶ瀬佳純にやってもらう。今日はこの後、視聴覚室で顔合わせがあるから、そのつもりで」
「はい」と佳純が返事する声。斜め後ろで顔は見えないが、緊張したのが感じ取れた。選管委員はクラスで首席の生徒が担う事になっている。
 ちなみに、隣のクラスでは首席の小山内が会長に立候補する予定なので、成績二位の生徒が選管委員を務める。
 カオルがコソコソと小さい声で話しかけて来た。
「ねえ、さっきから八神の事じーっと見てる子が後ろにいる」
 後ろ?と振り向くと、隣の列の一番後ろ、梶がパッと俯いた。
 梶ってどんな子だっけ……名前は確か、沙都莉だ。珍しい名前だと思って覚えていた。
 目立たなくて印象がない。考えてみれば、クラスにいくつかある女子グループのどこにも梶を見た事がない。
 噂のせいかな、と思った。学校中の見知らぬ連中が教室にまで押し寄せたくらいだ。クラスメイトがじっと見るくらい、あるだろう。
 八幡先生が「───以上だ。残りの夏休み、気を抜いて事故に遭うなよ」と言うと、皆どっと沸いた。…人の不幸を笑いやがって、と思ったが、おかげで佳純と付き合う事になったんだ……赤面するのがわかった。
「八神」
「は、はい」いきなり呼ばれてびっくりした。
「無事で良かったな。お父さんの事は残念だったが、前の進路志望は進学だったな。どうするか、悔いのないように考えろ」
「…はい」
 ではまた新学期に、と起立、礼して皆がガヤガヤと話し出す。少し離れた席から友部が「八神」と呼んで近づいてくる。
「なあ、バスケ部に戻らないか?」
「……」
「お父さんの事出すのは悪いけど…」と友部は頭を掻いた。「部活する時間くらい、あるだろ?」
 友部は僕の肩にぽんと手を置いて、僕の顔から目線を外した。
「おまえが辞めてって、みんな残念がってた。戻って来て欲しいんだ」
 考えといてくれよ、と友部は手を振りながら教室を出て行った。
 それを見送って、佳純はと目を移すと、席に着いたまま傍らに立つ飯綱和歌子と話していた。邪魔しちゃ悪いかな、と思って声はかけずに教室を出た。選管委員もあるし───
 歩きながら、カオルが「八神ってバスケ部だったんだ。その割に背、低いね」と真顔で言った。悪気はないのがわかったので答えた。
「170センチあればなんとかなるよ。小回りの利くプレーで、背の高い奴らをすり抜けてシュート決めると気持ちいいよ」
「バスケ部に戻るの?」
「いや…」と僕は鼻のあたまを掻いた。
「親父の残した貯金と保険金があって…進学もなんとかなるけど、生活する為にはバイトしなくちゃいけない」
「そっかあ…八神、家族いないもんね」
 何かあったら頼って、と母は言ったが、新しい家庭を持っている母に甘える事はできないと思った。
 ふと、視線を感じた。振り返っても誰もいない。気のせいか、と階段を降り始める。踊り場で曲がった時に、もう一度上を見ると、誰かがパッと手すりの壁の向こうに隠れる頭が見えた。「どうしたの?」とカオル。僕は人差し指を唇の前で立てて、しばらく人が消えた辺りを見つめていたが、また階段を降りて行き、相手が顔を出したと思った瞬間、振り返った。
 ───梶沙都莉だった。
「梶さん、何か用?」
「…あの、話…してた…」
 梶はどもりながら低い声で尋ねた。
「おと、お父さん…先生が、ざぬ、残念だったって…な、亡くなったの?」
「うん。そうだよ?」
「やっぱり」と梶が階段を駆け下りて来た。
「夏休み前とオーラが違う」
「オーラ?」
「知らない?」
「聞いた事はあるけど…」
「生体が発するエネルギーが具現化して見えるもの。大抵、体の周りに色として見えるんだけど、八神くんのはすごく複雑な色をしてて…玉虫色に輝いてる。すごいエネルギーを感じるの」
 どもっていた梶がペラペラと喋り出したので面食らった。
「玉虫色って…そこは虹色とかじゃないの?」思わずクスと笑いが洩れた。梶は「あ、そか…」とまた暗い表情を見せた。
「とにかく、オーラの色は生体の状態で変わるの。今、八神くんにはすごく強いエネルギーが与えられていて、それ多分、亡くなったお父さんが守護霊になって憑いているんだと思う。事故に遭って無事だったのも守護霊が強いから。八神くん自身も霊力が強くなってる筈よ。今、誰と話してたの?お父さん?」
 聞かれてたか……油断しちゃいけないな、と思った。
「独り言だよ。先生に言われて、進路の事、考えてたんだ」
「……まあいいけど……」訝る様子でこちらを見る。
「八神くんの事、神様も見守ってるから。頑張って」
 ───今朝、けちょんけちょんに貶されてたけどね。
「うん。じゃ、さよなら」
 僕は足早にその場を離れて、下駄箱に向かった。───やべえ。梶沙都莉、関わると危ない奴!




 帰り道の途中のコンビニに寄って、履歴書を買った。店に入る時に、入り口に『バイト・パート募集』という貼り紙があったので、それを読んだ。夕方から夜までならできそうだな……勉強の時間も必要だし、いつ死神として駆り出されるかもわからないが、親父の貯金を生活費で切り崩すわけにはいかなかった。僕はその場で面接の約束を取り付けて帰宅した。
 トイレのドア。
 僕は暫しそれを見つめて、思い切ってドアを開け、中に入るとパタンと閉めた。
「親父、そこにいるのか?」
 返事はなかった。仕方なく、僕は「便所紙」と呼んだ。
「親父の霊はここにいるの?」
 ふわりと紙が現れた。それを受け止める。
『天界の規則により、それは教えられない。人は死後の世界を知り過ぎてはならない。生きてゆけなくなるからだ』
 もう一枚、落ちて来た。
『おまえも天界のドアは呼び出せても、中に入る事は許されない。おまえはまだ生きなければならない』
「じゃあ事故の怪我が軽く済んだのは…?」
『まだ死期ではなかっただけだ。余計な探りはやめろ』
 梶の言う通りなら、軽い怪我で済んだのは親父に守られたからという事になるが……これ以上の詮索は無理なようだった。僕はカオルが震えてないか気になって、「カオル」と呼びかけながらトイレを出た。
「…八神…」と答える声が震えていた。
「大丈夫か」と肩に手を置くと、それにすがるように小さな手を重ねた。
「…八神がちょっと見えないだけで…体がゾクゾクするの。八神の事、好きな気持ちが黒くなってくみたいに…自分が別人になるような気がするの。怖い。怖い…」
「カオル…」
 カオルは僕の胸に額を当てて、「八神の側にいるのに…悪霊になっちゃいそう…」と涙を浮かべた。
「八神と離れたくない気持ちがだんだん強くなって…取り憑いて…八神を殺してしまいそう…嫌だ、怖い…」
 僕は腕をカオルの背中に回して、軽く抱きしめた。
「…カオル。…天国へ行くかい?」
「やだ。八神と離れたくない。でも…」ヒック、とカオルはしゃくりあげた。「悪霊になっちゃいそうで怖い」
「僕もね、死神だけど、天国がどんなところかは知らない。カオルが不安なのもわかるよ」と涙を拭ってやった。「でもね、きっと…新しい命に生まれ変わるために、魂を浄化する場所なんだってわかる。カオルの中の黒い気持ちも、真っ白になるよ」
 背中を手のひらでトン、トン、と軽く叩き続けた。
「ごめんね。僕が死神としてしっかりしなくちゃいけないのに」
「八神は悪くない!ちゃんと天国のドアまで連れてってくれたのに私が行かないって言ったんだもん」
 僕を見上げるカオルの両目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「…天国、行く…」
「うん。うん。よく決心したね。偉いね、カオル」
「最後にぎゅってして…」
「うん」
「大丈夫だよ」と僕はカオルを強く抱きしめた。
「生まれ変わって、また会おう。僕は死神だから、きっとカオルに気づくよ」
「うん。…うん」
 気づくと僕の目からも涙がこぼれていた。たった一日一緒だったけど、もうずっと長い事一緒だった気がした。
 自転車の荷台にカオルを乗せて、僕はゆっくりとペダルを漕いだ。不思議な一日だったな…と後ろのカオルの気配に、また涙が出そうになった。これじゃ死神失格だ。笑顔で送り出してやろう、と心に決めた。
 僕が天界のドアを呼び出す事にしたのは氷川神社だった。昨日の稲荷神社に行くには事故現場を通らなければいけなかったからだ。ゆっくり走って来たのに、あっというまに氷川神社に着いてしまった。
 境内を歩いていくと、隅に例のドアがあった。
「カオル」
「うん」
「約束だよ…また会おうね」
「うん。ありがとう、八神…」
 僕らはまた抱き合って、暫し動けなかった。カオルは無邪気で明るい、可愛い妹みたいな幽霊だった。
「さあ、ドアを開けて」
 カオルがそっとドアを開いた。ドアの向こうは、ただまばゆい光に覆われ、景色のようなものは見えなかった。
「私ね、さよならって言葉、嫌いなんだ。もう最後みたいな気がして…。だからお父さんとお母さんには言ったけど、八神には言わないね。また会うんだから」
「うん、また会おう」
「八神、大好き」
 カオルが背伸びして僕の頬に軽くくちづけた。
「へへっ」と笑って、でも目に涙を浮かべて、「またね」とカオルは光の中へと進んで行った。その後ろ姿が見えなくなるまで、僕は眩しいドアの向こうを見ていた。カオルが見えなくなってドアを閉めると、ドアはふっと消えた。
 ───言いそびれた。僕もカオルが大好きだって。
 心の中にいつまでも残しておこう。僕の可愛い、妹みたいな幽霊。
 僕はお社に向かい、賽銭を投げて礼をし、手を打って祈った。
 カオルの魂が救われますように。また会えますように。
 手を合わせて俯いた顔を上げられなかった。涙が止まらなかった。どれくらい手を合わせていたのだろう、僕はようやく顔を上げて、拳で涙を拭いた。
 そうして僕は自転車を飛ばして家に帰り、トイレで「便所紙」と呼んだ。
 はらり、と紙が一枚落ちた。
『ご苦労だった。今回の件で、おまえは死神として認められた。これからも励め』
 たったそれだけだった。
「死神の仕事って、こんなに辛いんだね…」
 返事はなかった。神には人の生死など、事務的に処理するものなのかもしれない……
 ただ疲れていた。僕は腕の中のカオルの余韻を忘れたくなくて、ソファに置きっ放しだったタオルケットにくるまって、横になり目を瞑った。