昼食が済んで片付けが終わると、する事がなくなった。会話の糸口が掴めない。
 ───ふと、鎌田さんが「佳純ちゃん」と呼んでいたのを思い出した。
「あのさ…僕も『佳純ちゃん』って呼んでいい?」
「え…?」と天ヶ瀬さんはお茶を注いでいた急須を水平に戻して、手にしたまま頬を染めた。
「佳純って呼んで…くれると…嬉しい…」
 声がどんどん小さくなっていった。「いきなり馴れ馴れしくない?」と訊くと、彼女は赤面したまま視線を逸らした。
「…鎌田さんみたいなおじさんならともかく、同い年で『ちゃん』なんて恥ずかしいだろ」
 ムッとした顔をしている。あ、内緒の顔モードだ…と判って、僕はまたそれが可愛いのが可笑しくて笑いを堪えた。
「じゃあ、僕の事も『陽一』って呼んで」
「いきなり呼び捨てなんて恥ずかしいだろ!」
 僕ははははと笑って「矛盾」とだけ言って、背中が痛いのを堪えた。眉間に皺が寄るのが自分で判った。彼女はそれを見逃さず、「そんなに笑うなよ」と言いながら急須を置いてソファの隣に来た。「どこ痛い?背中?」と背をさする。僕はその手を引いて隣に座らせ、「大丈夫」と微笑んでみせた。
 ───どうしよう。
 漫画やドラマなら、ここでキスの一つもするところだけど……
 付き合い始めてまだ一時間だぞ?早い、まだ早い。でもキスしたいくらい可愛い。僕は、ここは我慢だ、と判断して、握った手を撫でた。




 天ヶ瀬さん───いや、佳純がカレーを作って帰った後、今日一日を振り返った。
 塩サバサンドが美味しかった事、『佳純』『陽一くん』と呼び合うのを決めた事、スマホの番号を教え合った事、お互いの趣味の話、佳純が事故の日に登校していたのは英会話同好会で集まる日だった事、僕が二年生になってバスケ部のレギュラーになれたのにすぐ辞めたのは親父が倒れて入院し、看病の為だった事───しんみりしてしまったが───お互いの事を少し、知る事ができた。
 何気なくテレビをつけると、ニュースの時間だった。
 ……あれ?見た事あるような景色───
 確か氷川神社の横の通りをまっすぐ行って……
「───近くに住む十五歳の麻生カオルさんと判明しました。事故が起きたのはご覧のように、交通量の多い通りで、先週にもこの通りの向こうの交差点で十七歳の少年が事故に遭ったばかりです。麻生さんは病院に搬送されましたが、死亡が確認されました」
 十七歳の少年って…僕?
 問題はそこじゃない。佳純がいる時に一度トイレに行ったが、お告げはなかった。死亡が確認された?遅いじゃないか。
 僕は慌てて立ち上がり、痛む体でトイレにすっ飛んだ。ドアをバンと開けて「おい便所紙!」と呼んだ。
『やっと来たか』と相変わらず下手くそな字だ。『惚けている場合じゃないぞ』
「なんだよ死亡事故って!」
 ひらりと落ちて来た紙にはその理由が書かれていた。
『天界で協議して、おまえには死神としての資質が欠けていると結論した。おまえはまた同じ事を繰り返すだろう。だからこれからは既に死亡している霊に接近し、成仏させる任務を課す。天界の仏心だ。有難く思え』
 確かに、目の前で人が死ぬのを見なくて済むのは、僕の為になるのかもしれない。
 だが死亡予定者に何もしてやれなかった事が悔やまれるだろう。
 ひらり、と次の紙が落ちて来た。
『既に亡くなっている霊にもしてやれる事はある筈だ。それを見て来い。今日の死亡者は麻生カオル、新田中学校三年生。今は自宅で通夜の準備をしているのを受け入れられないでいる。浮遊霊になりやすい霊だ。自宅までの地図を後で落とす。新田町の稲荷神社に天界への入り口を開ける。そこまで必ず連れて来い。あとはまあ、頑張れ』
 『まあ、頑張れ』の文字にがっくりした。真面目なんだかいい加減なんだか……
 地図がふわっと現れた。僕はそれを手にして地図を頭に叩き込み、「新田五丁目か…近いな」と呟いて流した。
 佳純のカレーは後でゆっくり食べよう、と僕は急いで出かける支度をした。




 自転車を漕いで氷川神社の方へ走らせた。神社の角を曲がって、しばらく行くと、パトカーと事故車が停まっているのが見えた。警官たちが現場検証しているらしかった。それを横目に通り過ぎ、麻生カオルの家を目指した。
 麻生の家は静かだった。病院から遺体がもう戻っている筈……庭の生垣から家の中の様子を伺っていると、縁側に立った女の子と目が合った。マズイな、と思って目を逸らし、自転車を漕ぎ出そうとすると「待って」と呼ばれた。縁側から庭に飛び降りてこちらに走ってくる。靴を履いていた。家の中で靴…?彼女は生垣越しに「私のこと見えるの?」と必死の様子で話しかけて来た。
「ええと…麻生カオルちゃん?」
「そうだけど…あんた誰?」
「八神…」と言いかけて、相手が亡くなった麻生カオルなら、答えは違うなと思った。
「僕は死神。君を迎えに来たんだよ」
「死神がチャリに乗ってるの?嘘だあ。本当は誰よ」
「本当に死神なんだって。本業は高校生だからチャリに乗ってるの。本当だって証拠に、僕以外の人には君は見えてないんでしょ?」
 麻生カオルは黙り込んだ。僕の後ろから走って来た黒い車が生垣の先の門の前で止まった。ここに居るとマズイ。僕は小声で「こっち来られる?チャリの後ろ乗って。早く」とカオルを呼ぶと、生垣をすり抜けてこちらに来た。「乗った?」「うん」短い会話で自転車をスタートさせた。
 後ろに何も乗っていない軽さ…それでいて人のいる気配…氷川神社の方へは行けない。事故現場の前を通るのは酷だと思った。反対方向に自転車を走らせるうちに日が沈んだ。僕はひと気の少ない、川土手を目指していた。斜面の道路を立ち漕ぎで登る。土手の上に自転車を止めて、僕らは草の上に腰を下ろした。
 さわさわと風が吹き渡る。明かりの少ない土手からは星がよく見えた。ゆったりと天の川が空に横たわっていた。
「きれいな空……私、死んでるんだよね?死神さん。そしたら銀河鉄道に乗れる?」
「うーん」と僕は返答に困った。「僕は天界の入り口までしか行けないからわからないけど。もし、銀河鉄道が走ってるなら、見たいな」と、気づくと微笑んでいた。ロマンチストな子なんだな、と思った。
 便所の神よ、この子の声が聞こえたなら、銀河鉄道を開通してやってくれ。
「あーあ。あと十年は生きたかったなあ」とカオルは膝を抱えた。「私には野望があるんだ」
「野望?」
「うん。まず高校へ行くでしょ?どこでもいいんだ、私の成績で卒業できる所なら。そしたら服飾の専門校に行くの。ファッションデザイナーになって、たくさんの人が私のデザインした服を着るの。それで表参道とか原宿とか六本木とか、私の服で遊びに行くの。おしゃれして。自分、可愛い、自分、おしゃれ、って思って街を歩くの。パリコレのランウェイをモデルが着て歩くんじゃなくてさ、みんなが大好きって言ってくれる服を作るの」
「…壮大な野望だね」僕はクスッと笑った。
「何で死んじゃったんだろ、わからない間に…」ぽつり、声のトーンを落とした。「気づいたら病院で私死んでた」
 どんな言葉ならこの子を天界へ送ってあげられるだろう。探りながら、話してみた。
「こういうのはどう?生まれ変わって、今度こそデザイナーになる。その頃には僕はおじさんになってて、娘がいてさ。年頃の娘だから父親なんて邪魔くさいと思ってる。そこへ僕が君のデザインした服を買ってあげて、お父さんありがとう大好き、って家庭円満になるんだ」
「あはは、何それ。面白い」
「でもその為には、一度天界へ行かなきゃいけない。そうしないと生まれ変われないんだ」
「うん…」
 風に消えそうな小声だった。
「大丈夫、天界の入り口までは送って行ってあげるから」
 そう言ってカオルの頭にそっと触れて、撫でようとした。
 何か、ぐしゃっと潰れている感触がした。
 致命傷になった傷だ───頭頂部から後頭部にかけて、頭蓋骨が陥没している。長い髪が血で固まっていた。
 そうか、魂の姿は亡くなった瞬間の姿なのか。
 カオルも自分の頭の異変に初めて気づいたという顔で僕を見た。
「───やだ。…やだ、やだ!こんなみっともない頭で天国なんて行けない!」
 やだやだと繰り返してカオルが泣いた。声を上げて地面に顔を伏せてしまった。
「お母さん。お父さん…助けて」
 それはもう叶わない。僕が助けなきゃ……
 僕は「もううちに帰ろう?」と極力優しい声で言った。「お母さんとお父さんに会いたいでしょ」
 泣きじゃくるカオルを起こして肩を抱いて、ふと思った。
 家の生垣をすり抜けられる体なのに、なぜ僕は触れるんだ?
 死神だから?
 カオルを抱きしめると、胸の中でしゃくりあげ、だんだんと落ち着いて来たようだった。カオルの呼吸が整うまで抱いていた。
「…帰ろう。ね?」
 ようやくカオルがこくりと頷いた。僕は彼女の肩を抱いて歩き、自転車の荷台に座らせると、ゆっくりとペダルを漕ぎ出した。




 カオルの家に戻ると、先程の黒い車はまだ路肩に停まっていた。葬儀社だな…多分。僕は門の横にある呼び鈴を押した。
「どうするの?」
「ちょっと嘘をつく」
と僕は答えて、インタホンから聞こえた「どちら様ですか」という声に、「カオルさんの先輩って言うか…、中学の時の知り合いです」
「わ、嘘つき」とカオルが目を丸くした。
「ニュースでカオルさんが亡くなったって…それで慌てて来ました。慌ただしい時に恐縮ですが、ご遺体に会わせてもらえませんか。明日には僕、留学で渡米するんです」
「お待ち下さい」と通話が切れて、程なく玄関から憔悴したカオルのお母さんが出て来た。
「お母さん、私ここ…」
と泣きそうな声でカオルが言うが、お母さんはそちらも見ずに「どうぞ」と僕を案内する形で先を歩き始めた。
 玄関から入ってすぐ、客間と思しき広い和室があって、最初にカオルを見た縁側に続いていた。カオルは布団に寝かされていた。頭には傷を覆うように額の周りから顎の周りまで、ぐるぐると包帯が巻きつけられていた。痛々しかった。
 僕は線香をあげて手を合わせ、眠るカオルの顔を覗き込んだ。「無念だよね」と思わず知らず、話しかけていた。
「おっきな夢があったのにね」
「夢とは?」とお父さんが尋ねた。
「デザイナーになって、自分の作った服でたくさんの人を幸せにするっていう夢がカオルさんにはありました」
「そうでしたか…」
 僕はすぐそこにカオルの幽霊がいるにも関わらず、涙が出そうになって、目頭を押さえながら「ちょっとお手洗いをお借りしていいですか」と言った。
 楽しげに夢を語ったカオルの亡骸が、もう動かないと思うと悲しかった。
「どうぞ、廊下を出てすぐ向かいですから」
「ありがとうございます」
 僕は立ち上がり、カオルをちらっと見て一つ頷いてみせた。さて───
 トイレに入るなり、僕は小声で「便所紙」と呼んだ。
 便所の神様がひらりと紙を一枚落とした。
『おまえは本当に死神に向いてないな。死者の全員に感情移入してたら自我が崩壊するぞ』
 僕は目頭の涙を指先で拭った。
「遺品って天界に持って行ける?」
『遺品による。例えば銃刀法に違反するような武器類は持って行けない』
「例えが極端なんだよ。…じゃあ、一つくらい持たせてやっていいかな」
『どうする気だ』
「任せてよ」
『わかった』
 紙を流してトイレを出て、お母さんに「カオルさんの部屋を見せてもらっていいですか」と訊くと、気落ちしているお母さんはもう何でもいいという感じで「どうぞ。二階ですから」と答えた。
 階段をゆっくり上ると、ドアに『KAORU』と札の下がっているのが見えた。「お邪魔します…」とドアを開ける。なんとも、女の子らしい部屋だった。学習机が正面に、右手には壁際にお姫様みたいな白いベッドとドレッサー、大きな洋服ダンス。ピンクのカーテンが閉められている。僕は明かりをつけて、部屋を見回すと、壁に取り付けられた棚にそれらはあった。僕はどれがいいかと一つ一つ手に取り、「これにしよう」と持って階下に降りた。
「それは?」とお父さんが訊いた。
「ニット帽です」
 僕はカオルの亡骸の枕元に正座して、「カオル、おしゃれしような」とそっと頭を持ち上げた。
 オレンジのむら染めの糸で編んだニット帽。包帯を隠すようにかぶせた。服は葬儀社の人の手によって白い死装束に着替えさせられていたが、幽霊のカオルは私服のままだ。またそっと頭を戻すと、「あ、」と幽霊のカオルが頭に手を当てた。
 ニット帽をかぶっている。
「これで天国へ行っても恥ずかしくないだろ」
 感極まったお母さんが「ううっ」と泣いた。
「ありがとうございました。僕はこれで」とお辞儀をして、目立たない動きで幽霊のカオルの手を取り、繋いで歩く。カオルは両親の方を振り返りながら「ちょっと待って」と言った。僕は玄関で「ん?」とご両親と葬儀屋に聞こえないように答えて足を止めた。
「お父さん、お母さん、ありがとう…さよなら」
 僕は安堵して、またカオルの手を引いて歩き出した。この近くに稲荷神社がある。これが事実上の初仕事だ。カオルが別れの挨拶をきちんとできた事で、仕事は充分上手くいったと思った。
 門を出たところで「お稲荷さんってどこ?」と訊くと、
「この道をまっすぐ行って、『つかさ』っていう小料理屋さんの角を入るとあるよ。…なんで?」
「お稲荷さんに天界への入り口が開くから」
「そっか…」
 ゆっくり歩いた。カオルにも心の準備が必要だろう。
 僕にもだった。
 こんな無邪気な子が、たったの十五歳で亡くなって天に召される。
 短すぎる人生だった。
 天界の魂の管理、ってなんだよ、と思った。
 誰が長生きして誰が早死にするか、何を基準に決めるんだ。
 カオルも、この前死にかけた僕も、まだ生きたかった。
 まだ生きたい、やりたい事がある、守るものがある───そういう人はたくさんいる筈だ。
 ───親父。
 まだ生きたかっただろう。癌なんかに命を縮められて。
 僕が大人になって一緒に酒を飲んだり、成長を見届けたりしたかっただろう……
 『つかさ』の角を曲がると、小さなお社と狐の像が見えた。
 天界の入り口は───と思うと、すうっと現れたのは、どこかで見たようなドアだった。
 ───ふざけてるのか?神たち。
 このドアを開けると、そこは天界だ。
 僕はカオルの手を離して、「開けてごらん」と促した。
「やだ」
 え?
「八神の側にいる」
「ええっ!?」
 上手くいったと思っていた僕はびっくりした。
「なんで俺の名前…」
「最初に誰?って訊いたら言いかけたじゃん」
 ───そうだった。
「八神と一緒に死神になる」
「な、なんで?」
「優しくしてくれて嬉しかった。天国に行こうとも思ったけど、八神と一緒の方が面白そうだから。私みたいに幸せな気持ちで幽霊を天界に送ってあげたい」
 ただ、ただ───唖然とした。
 カオルは僕の両手を取って握りしめ、ニコッと笑った。
「八神、大好き」
 はああああ?
 今日は───なんて日だ!
 佳純と付き合う事になったかと思えば、今度は幽霊に好かれるなんて……
 心臓がバクバクした。
「死神の仕事っていいね。私、頑張るから」
 それを聞いて、佳純とは『好き』の意味が違うんだ、と少し安堵した。
 ───いや、そういう事じゃない。
「ダメだよ、ちゃんと成仏しなさい」
「やだよ。もう決めちゃったもん」
「生まれ変わってデザイナーになる夢は?」
「うーん。まあいつでも?天国へは行けるんでしょ?幽霊なんだから」
 そうだけど!
 忘れていた全身の痛みが戻って来た。僕は自転車をカオルの家の前に置いて来た事を思い出し、どうせ戻るならまた説得を…と思ったが、カオルは満面の笑みで「よろしくね」と言った。
 ───ダメだこりゃ。