左回りのリトル-5

「空木秀二展って本当にやるの?」
 山崎が言い出したのは数日後、空の歓迎会をやったお好み焼き屋でだった。山崎と空と僕の三人で、閉店後に寄ったのだ。山崎はもんじゃ焼きの土手を作りながら空に尋ねた。
「知らない」
「一周忌に合わせて、どっかの美術館でやるとかで、今、空木サンの絵を持ってる個人を探してる。高畠サンとこに問い合わせがきてたよ」
「ふうん。今度訊いてみる」
 野菜の丸い土手がしんなりした。「入れるぞ」味をつけたタネを流し込むと土手から溢れた。湯気がもうもうと上がった。
「バカ、入れすぎ」
「火、強くない?」
「気にすんな」山崎は少しずつ土手を崩しながらヘラでかき混ぜた。彼はいつもこういう時の仕切り担当だ。鍋奉行、鉄板王。空は「私、もんじゃって初めて」と笑った。
「この小さいハガシにくっつけて食う。いいか、舌が火傷しようが気にするな。それがもんじゃというものだ」
「はい、コーチ」
 空は山崎の「コーチと呼べ」に素直に従っている。「もんじゃのためにその一」とか言いながら山崎は徹底指導した。
「そんでさ、高畠サンが言うには」山崎はアチチと顔をしかめながら「空ちゃんとこの絵をどうしようって。未発表なんだって?」
 本題はそれか。僕はだんまりを決め込む。空は「ああ、大きいから、あれ」と的外れな答えを返した。
「あるんだ」
 山崎の目が鋭く光るのを見逃さなかった。「ずいぶん詳しいな」僕は皮肉を刺す。彼も「空ちゃんの事は何でも」と応酬した。山崎の隣に座る空に緊張が走る。それを見てとった山崎は「君の事は何でも知りたいんだよ、ハニー」と笑って見せた。
「野宮も見たいだろ?ファンになったみたいだし」
 もう見たなんて言えない。
「見たいなー。そんなにでかいんなら空ちゃんちに行こうかなー。野宮は絵だけ見たらすぐ帰れ。一分で帰れ」
 この前の事は絶対に言えない。
 彼女を黙らせるキスの後で互いに困り果てて、僕は帰るしかなかった。それからは気まずくて殆ど口をきいていなかった。空にちょっかいを出したりからかったりする山崎を見ていてわかったのは、彼は結構マジだという事だ。
 僕は話の矛先を山崎に向ける。
「おまえは日本画ってタイプじゃないよな。CGとかやってそう」
「絵は肉体から直に出てきて欲しいの、俺は。絵はナマモノなり」
「ナマモノ」
「そう。あらゆるスピリットと俺様のスピリットの愛の結晶なのだ」
 わかったようなわからないような。「で、何で日本画なんだ」
「俺様がトップに立つには日本画だな、と」
「トップに立つ気だったのか」
「あらゆるスピリット」空が呟く。
「空木秀二は」山崎の声がやわらかくなる。
「あらゆるスピリットを描こうとした画家だった。惜しい人を亡くした」
 しんみりしてしまいそうだった。「何だ、山崎もファンなんじゃないか」
「うん。あの人の絵、好きだよ、俺」鉄板の焦げ付きを落として言う。「よし、次行くぞ」
 熱い鉄板がじゅうっと大きな音を立てた。湯気の向こうで空がありがとうと言った。




 空の次の休みに『左回りのリトル』を見に行く事になった。山崎はJRの改札前で「サンキュー空ちゃん、愛してるぞぉ」と彼女に抱きついた。僕はアノラックの背中に靴跡をつけてやった。
「友達も一緒でいい?」
「逢坂君?」
 山崎は頷く。僕らは思い出し笑いをした。「彼の批評は変わってるね」
「あいつは発想がキュビズム」
 逢坂が山崎を「チョロQ」と表現したのを思い出す。
「一見めちゃくちゃに見えるけど、拾ってくる形は的確」
 空が「信頼してるんだね」と言うと山崎は「バカ言え」とそっぽを向いた。
 駅の地下を歩きながら「山崎君に最初に会った時」と空は言った。
「店長にT美の学生って紹介されて、山崎君はちょっと困ってた。高畠さんは始めから彼を私のお目付役にするつもりで双月堂を勧めたんだってすぐわかった。そうまでしてもらわないと、だめなのかな、私」
 自動改札に通したパスごと手をポケットに入れた。ホームから吹き上げてくる生あたたかな風を受けて階段を降りる。
「高畠さんが山崎君を選んだのわかる。今日自分から高畠さんの話を出してくれて、私やっと彼と対等になれたなって思った。友達って事だよね。私、ずっとあんなだったから、友達っていなかったんだ」
 空が言ったありがとうにはこんな意味もあったのか。「僕は?」後ろから尋ねる。空は振り返って僕を見上げた。
「え?」
「全然口きいてくれなかった」
「友達と思っていい?」
「だめ」
 ポケットから手を出して肩を抱き寄せる。やっとつかまえた。




 留守電が一件。無言。午後11時19分。ほんの十分前だった。
 きみは何を言おうとしているのか。




 山崎と逢坂は二十分も早く待ち合わせの駅に着いたという。
「俺、昨夜は興奮して眠れなかった」
「僕も。空木秀二の遺作を個人的に見られるなんてね」
 駅まで迎えに来た空の後について歩く。平日の昼間、賑わう通りから路地に入ると静かな家並みが続く。どこからかテレビの音が聞こえてきた。
 部屋に入ると二人は『左回りのリトル』の前で、コートも脱がずに立ち尽くした。僕もそうだった、とあの夜を思い出した。
「下描きが見えるね」と逢坂の小声。山崎は答えなかった。
 静かだった。
 空木秀二の世界を前にして、息を殺してじっとしていた。
 どれほどそうしていたのか、山崎がぽつんと「時間だな」と言った。「うん」と逢坂が同意する。彼が話しだすのを僕と山崎は待った。
「タイトルはあるの?」
「左回りのリトル」空が答えた。
「左回りか。梢子さんはこれをどう思いますか?」
「破滅的」
「なぜ?」
「壊れていく予感がする」
「予感か」
 彼は数歩後ろに下がって絵全体をとらえようとする。「なるほど」
 山崎が「始まるぞ」と言ってニヤリと笑った。
「この螺旋が左回りであると決定づけているのはこの少女の向きだよね。これがなければ螺旋を右回りに見てもいい訳だ。こちらへやってくるものとしての螺旋、破滅の予感としてはその方が効果的なんじゃないかと思うけど?」
「恐怖心を煽るかも」と僕。
「逢坂、医者より評論家の方が向いてるんじゃないか」と山崎。逢坂は山崎をちらりと見て苦笑した。
「左回りである必要があるんだね。螺旋は何の象徴なのか」
「不安」と空。
「それなら向きは関係ない」
「消滅」と僕。
「うん、左回りに見ればね」
「時間の流れ」と山崎。
「正解。ここで向きが問題になる。時間に向きがあるとすれば」
「過去と未来」と空。
「では、左回りはどちらを目指しているのか」
「過去」と僕。「この絵全体が一つの時計じゃないか?右回りは時計回り。だから時計の針を逆に回すんだ」
「時計回りの逆、と答えが導き出されたところで」と逢坂はにっこりと笑った。「背景だけど、この塀や建物の形を歪めて時計の歯車に似せてある事でもこの絵が『時』をテーマにしているのは明らかだよね。鳥の群は、断言はできないけど、例えば僕なら人間に置き換えてみる。空から降りてくる様はヒッチコックの映画『鳥』さながら襲ってくるようだと思えない?畏れの予感がこの絵にあるのはそのせいもあるけど」
 逢坂はそこまで言って僕らを見回した。誰も何も言わないので、目を絵に戻して続けた。
「逃れるように螺旋をたどる少女、リトルとでも名付けようか、リトルは時を遡ってゆく。その先にあるのは何だろうね。母の胸か、安らぎの懐かしい日々か、この絵の不安な赤い夜空から時を遡って逃れるなら」
 逢坂は空を振り返った。
「予感があるとするなら、それは絶望の予感だよ。時は戻らないのだから」
「逢坂さん」
「何ですか」
「父は、絶望していたんですか」
 空の声が震えていた。空木は自殺したかもしれない、と高畠氏が彼女に言った筈はないと思うが、周囲の空気に敏感な彼女の事だ、そう考えていたとしても不思議はなかった。
「あくまでこの絵のテーマを話しているんですよ」
 そう言って彼は深く微笑んだ。「帰ろう、山崎」
「ああ」
「見せてくれてありがとう。辛い話だったと思うけど、」と、彼は帽子をかぶってから続けた。
「僕はこの絵に空木秀二の優しさを感じた。それはわかってください」
 それじゃ、と部屋を出る二人の後に続こうとすると山崎は「おまえはいい。熱があるんだから」と僕の肩を叩いた。「ゆっくり休め」
「お大事に」と医者の卵、逢坂も笑う。扉がばたんと閉まると、空は「野宮君、熱あったの?」と訊いた。空を一人にするなという事なのはすぐわかったが、どうしよう?
「熱、あるかな。測ってよ」
 空の額に僕の額をくっつけた。「どう?」「わかんない」彼女はじっとしている。それがあんまり無防備だったので、おかしくて笑ってしまった。




 僕はこの前来た時と同じ位置に膝を抱えて座り、『左回りのリトル』と向かい合った。ここからだと真正面から全体を見られる。
 山崎が絵だけ見てすぐに帰ったのが不思議だった。彼は空に好意を寄せていると思っていたけど違うんだろうか。僕を残すなんて。いや、帰ろうと言ったのは逢坂だ。けれどいつもの山崎ならそこで「ハニーと離れたくない」くらい言う…。
 いや、山崎はそんなふうに好意をあからさまに示す奴ではない。
 何か理由があるんだ。空の前で山崎が饒舌になる理由。
 饒舌といえば、あの逢坂が逆に喋らなかったのではないか?そう、「絶望の予感」と結論づけた事で終わった筈の話が、中途半端に感じられる。
 空が「はい」とカップを差し出した。目の前にぬっと現れたので驚く。ありがとうと受け取って、冷たい紅茶を飲んだ。彼女はそれを見ているだけだ。
「空は飲まないの?」
「唯一の食器、それ」
 びっくりして白いカップを見た。食事はどうしているのかと尋ねると、家では食べない、一人で食べに出かける訳でもない。高畠氏の心配ももっともだ、と思った。
 見るたびに吸い込まれそうだと思う赤い螺旋は僕らの言葉を呑み込んでしまったらしい。並んで座る僕らは黙って絵を見つめている他になかった。何かの呪縛。
 それに気づけば動き出せる筈だ。僕はゆっくりと口を開いた。周囲の空気が重くて、と空が言ったのを思い出す。それはこんな感じだろうか、と。
「絶望の予感は少女の足を止めないのかな。見ている僕は動けないのに彼女は螺旋を駆けてゆく。向こうにもうひとつの予感があるように」
 空は「もうひとつの予感」と言って抱えた膝に頬を載せて丸くなった。




 日が暮れる前には自分の部屋に戻った。読みかけだった推理小説の続きを読んでいると、山崎から電話がかかってきた。バイトの休憩時間らしい。本に夢中になっているうちにずいぶん時間が過ぎていた。
「どうだった、あの後」
「落ち着いてたよ。一時間くらいで帰った」
「ならいいけど」
 僕は気になっていた事を口にした。山崎は「俺も」と言って、空の部屋を出てからの事を話した。
「父親が死ぬ直前の絵を見て絶望の予感なんて、突き落とすような事言って」
 駅までの道を戻りながら山崎が言うと、逢坂は「僕に話せるのはあそこまでだったよ」とさらりと答えた。
「どんな作品にも作者のメッセージがある。空木秀二のメッセージを僕が伝える必要はない。見る人が空木秀二から直接受け取らなければいけないんだよ。そうでなければ、彼は何のために描いていたんだ」
 そう言って彼は「わかるだろう山崎」と真顔になった。
「あいつにわかって俺にわかんねーのがくやしい」
「そうかな」ふいに胸にこみ上げて来たものが言葉を押し出した。
「絶望の予感なんて、わからない方がいいかもしれない」
「……」
「行く先に袋小路が見えていたら」
 僕と美久のように、
「走るのをやめるしかないんだよ」
 息苦しさを感じて、僕は部屋を横切って窓を開けた。外の冷えた空気と物音が入り込む。
「山崎、」
「うん?」
「今日、何か変だったよ、おまえ」
「そうか」語尾に溜息のような笑いがついた。
「何で僕を残したんだ?」
「俺には逢坂の言う空木秀二の優しさがわからなかった」
「僕だってそうだよ」
「どっちにしろ」と言ってから少しの沈黙があった。待つ間の重苦しさを山崎がふうっと破った。「俺には無理だったよ」
「何が、」
「じゃあな、切るぞ」
 彼は一方的に電話を切った。結局、疑問が増えてしまった。
 山崎が送り込んだ不透明な空気が天井から降りてくる。僕はストーブを消すとコートを手にして部屋を出た。夕飯をとって本屋に寄った。活字は重く沈み記憶に堆積するものだろうか。それなら、絵はどうだ、目に鮮やかに焼き付いて跡を残すものだろうか。
 僕には、そしておそらく山崎にも、『左回りのリトル』は火傷のようにひりひりと痛かった。まだ『水からの飛翔』の痛みさえ取れない僕は、その理由を探っていた。
 空木秀二に関する書籍は見つからなかった。そんな物が役に立つとは思っていなかったけれど。




 鍵を開ける扉の向こうで電話のベルが鳴っていた。慌てて部屋に飛び込む。「はい、野宮です」と留守電に切り替わるところで受話器を取った。
「もしもし」
「……」
「……」
「及川です」
 声も出なかった。壁に寄り掛かってずるずると座り込んだ。
「…もしもし?」
「はい」何て他人行儀なんだろう。「どうしたの」
「この前の、」美久は用意した台本を読むように抑揚のない声で言った。「手違いって何だったのかと思って」
「ああ」
 耳をふさいで僕を見つめる空の顔が懐かしくなって、少し笑った。
「うん。勘違いなんだ」
「勘違い?」
「うまく説明できないよ」
 僕がふっと笑うと、美久は少し安心したようだった。
「何か、心配してくれたみたいで」
 うん。でも、言わない。
「河野と、絵を見に行ったんだってね」
「……」
「空木秀二って覚えてる?」
「水の上の裸婦ね」
「うん」
 やっぱり、きみなら覚えていると思ってた。言葉を探す必要もないと思える、長い沈黙。以前にも何度かあった似たような沈黙より、ずっと静かで深い。それはただ寂しさを交わしていた頃と今が違うという事なんだろう。
「…胸に深く残る絵だった」
 同意してしまったら、また僕らの何か───何か、としか言いようがない───が縺れてしまいそうだった。それには答えずに僕は言った。
「河野がその時のパンフをくれて、空木秀二の絵と出会って」
 数秒、言葉を選んだ。
「僕は今、旅をしてるんだよ」
「旅?」
「空木秀二のメッセージを探してるんだ」
「メッセージ」
「友達の受け売りだけどね」僕も美久も笑った。
「友達と、大事な女の子と一緒に」
 美久の沈黙が痛い。だが待つしかなかった。
「そうね、きっとみんな旅をしてるんだわ」
「うん」
「いい旅を」
「きみも」
 受話器を置いて、深く息を吐いた。「大事な」と言った瞬間から、どうしようもなく空に会いたかった。
 部屋が寒い事に気づく。帰ってきてから、何もかもがそのままだ。コートも着たままだったし、右手には鍵も握っている。僕はすぐに出かけた。




 今日二度目の来訪に、空は驚いていた。「顔が見たかった」と言いながら、どこかで聞いた台詞だと思う。「顔?」と言って彼女は不思議そうに両手を頬に当てた。反応がいちいち『空』なのがいとおしかった。僕は靴を脱ぐ間も惜しんで彼女を抱き寄せた。何か言おうとする彼女に「動かないで」と言った。じっとする素直さ。「何かあったの?」僕は黙って首を横に振った。
「彼女が泣いてる」
 僕も泣いていた。

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