限りなく続く音-7

 私たちは寝ぼけ眼で朝食を採り、水着の上に服を着て、母に小言をくらう前に家を出た。夜中に抜け出したことは気付かれなかったようだったが、私たちは眠かったのだ。物置からパラソルを引っぱり出し、草太がそれを担いで海へ向かった。
 二人で砂を掘ってパラソルを立て、シートを広げると、私は日陰に転がった。草太はシャツを脱いで、無言で海へ向かって駆けていった。(タフだなあ…)と思いながら、草太の背中が吸い込まれてゆく空と海の青が、視界に丸く広がってゆくのを見ていた。
 世界は丸く、無限に見えた。
 世界を前にして、草太の背中は、とても小さかった。
 けれど、それは確かにそこにあったのだ。
 草太の頭が波に見え隠れする。目の中が、青に支配されていった。



 病院のベッドに横たわる祖父。
 大きく開けた口は入れ歯も外され、残った奥歯がよく見えた。呼吸は規則正しいが、それでも苦しいからそうしているのか、私にはよくわからない。祖父の目は半分開いていた。私は祖父の顔を覗き込んで、「おじいちゃん」と呼んでみた。
 ≪すーっ、はーっ、すーっ、はーっ、≫
 返事はなかった。
 祖父の目に私が映っているのかもわからなかった。祖父の瞳は動かなかった。
 祖父のすぐ近くにある死。
 病室に満ちた死の気配は、白々と明るく、清潔な匂いがして、そして、他に何もなかった。私はベッドに脇に立ち、言葉もなく、ただ祖父の顔を見ていた。



 冷たい水が頬に落ちて、私は目を開けた。髪から滴をポタポタと垂らしながら、傍らに座った草太が私を見下ろしていた。
「…今、おじいちゃんの夢見てたよ。死ぬ少し前の…」
「うん」
 草太は寝転がって目を閉じた。私は夢の話をしようとしたが、そのまま再び眠りに落ちた。
 波音が夢の中にまで浸食する。監視所からの拡声器の声が時折眠りを妨げた。目を開けるとそこには草太がいて、頬に乾いた砂をつけて眠っていた。私は眠りから覚めるたびに、草太がそこにいることに安堵した。
 人はひとりから始まってひとりで終わる。それはあの海で帰結するように思われた。草太が海へと駆けてゆく時、それがふいに訪れるような気がして仕方なかったのだ。
(おじいちゃんの夢を見たせいかもしれない)
 夢の場面は現実にあった。その後、祖父は家へ戻った。
 家で最期を迎えるためだった。
 気分の良い時は、病床から母にあれこれと頼んで身の周りの物を整理していた。手伝おうとして母に「わからなくなるから、いじらないで」と言われ、横で見ていただけだった。ただ、少しでも長く祖父の側にいたかっただけだ。
 祖父が元気だった頃には気にも留めなかった。祖父の持ち物は、意外に少なかった。長い時を生きる間に、ある物は捨てられ、ある物は手元に残り……そうして死の間際、祖父の人生は行李一つにまとめられた。
 それが見たくなっただけだ。
 草太に見せたかったというのもあったが、私自身が見たかったのだと今は思う。
 私たちは浜で眠った後、少し泳いでから家に戻った。昼食の後で母が買い物に出かけると言うので、ちょうどいい、と思った。素麺を食べて後片付けを済ませ、草太と祖父の部屋へ行った。押入から行李を引っぱり出す。
 最期に着ていた寝間着、眼鏡と腕時計、万年筆や古い手紙の束。
 現れなかった祖父の幽霊の代わりに、こうして遺品に触れて祖父を思い出したかった。草太は祖父のアルバムをゆっくりと開いた。
 草太はモノクロの写真に写された、祖父の生きた時と出会った。
「これ、伯父さんの結婚式だね」
 私は草太の横からアルバムを覗き込んだ。
 最前列の中央に、まだ若い両親の晴れ姿があった。父の横には祖母、祖父、そして聡子叔母さんが並んでいた。叔母は花嫁よりきれいだった。
 この時にはまだ、叔母は祖父の娘だったのだろう。
 胸がきゅっとした。
 草太も同じ思いだったのか、次のページを急いで繰った。手元の小さな風が写真を一枚、はらりと飛ばした。私はそれを拾って、元の位置に貼ろうとしたが、アルバムに空白はなかった。(挟んであったのか)と写真を見た。
 聡子叔母さんの写真だった。
 叔母の顔は変わらないようでいて、少しふっくらした頬が若々しく、まとめた髪や丈の短いワンピースが昔の流行だと思った。叔母は腕に赤ちゃんを抱いていた。
「これ、…草太?」
「……」
 草太は写真を凝視したまま、じっと動かなかった。
 蝉の声が急に近くなった。草太の額に滲んだ汗が、玉になってつうっとこめかみを流れるのを、ぽんやりと眺めた。
(暑い…)
「おじいちゃん、俺のこと知ってたんだ…」
「…うん、写真、大事にしてたんだね」
「写真なんか!」
 草太は私の手から写真を取り上げて、手のひらでバンと畳に叩きつけた。
「写真なんかより、どうして」
 玄関から「ただいま」と母の声がした。(早く片付けなきゃ)と写真をアルバムに戻しながら「草太」と呼ぶ。けれど激昂した草太は立ち上がると仏壇の祖父の写真を手にして叫んだ。
「どうして俺に会ってくれなかったんだよ!」
 写真立てのガラスが大きな音を立てて割れた。
「何すんのよ!」
 私は足元に投げつけられた祖父の写真に手を伸ばした。音を聞きつけた母が「どうしたの」と駆けてくる。草太は自分の爪先を睨んで呟いた。
「俺、生まれてきちゃいけなかったの?」
 何が何だかわからない。
 顔を上げて草太を見る。母が「千夏、」と私の傍らに膝を突いて、私の手首を掴んで「手、切ってるじゃないの」と言った。その言葉に草太がゆっくり振り向いた。
 私は切れた指先から真っ赤な血が溢れるのを見て、また顔を上げた。
(痛い)
 それよりも痛そうな顔をして、草太は部屋を飛び出した。「草太」と追いかけようとしたが、母が手を放さなかった。




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