限りなく続く音-3

 翌朝、寝坊したのは草太の方だった。顔を洗って居間へ行くと、母が台所から「草太君を起こしてきて」と言った。私は廊下を引き返して家の端から端までぐるりと廻った。障子のガラスの向こうに、草太が布団から片脚を斜めに出して、大の字で寝ているのが見えた。私は障子を開けずに、腰を落としてガラス越しに「草太、草太」と大声で呼んだ。
 目を覚ました草太は、顔だけこちらを向いて私の姿を認めると、むっとした表情で再び目を閉じた。私もむっとして、昨日草太がしたように乱暴に障子を開けて「起きなさいよっ」と怒鳴った。
「だってゆうべ眠れなかったんだもん」
「何で?」
「……」
 草太が黙り込んだので、私は「暑かったの?」と訊きながら草太の枕元に正座した。草太は目をこすっていた両手を止めて、目を隠したまま静かに口を開いた。
「…おじいちゃんの幽霊が出るかと思ってさあ」
「え?」
 軽く握った拳を除けて私を見上げる草太の目には、眠いのか怖いのか、いつものような覇気がなかった。
「だっておじいちゃん、俺のこと嫌いかもしれない」
「何でよ、会ったこともないのに」
と私が言うと、草太はがばっと起き上がって叫んだ。
「会ってくれなかったんじゃないか!」
 草太がいきなり怒りだしたので私はびっくりした。(何で私が怒られるの)とカッとなって枕をつかむと、それで草太を殴りつけた。
「じゃあ何でおじいちゃんが病気になった時に来なかったのよ!」
「しょーがねーだろ知らなかったんだから!」
 草太も枕を奪い取って私を殴り返した。膝に落ちた枕でまた草太を殴った。
「おじいちゃんだってあんたなんて知らないわよ!」
「そっちが俺たちのこと放ったらかしにしてたんじゃないか!」
 枕で殴り合いながらの罵り合いが続いた。これ以上殴られてはたまらないと二人で枕の端をつかんで睨み合った。
「何よ草太なんて、おじいちゃんのこと何にも知らないくせに!おじいちゃんは幽霊になったりしないもん、怖かったけど本当は優しかったんだから!あんたなんてきらい、もう一緒に泳ぎに行ってやらない!」
 ふいに草太の手の力が緩んだ。私は枕を振り上げて草太の脳天に叩きつけ、客間を飛び出した。
 母と草太と三人、黙々と食卓を囲む。味噌汁が冷めていた。納豆をかき混ぜる手に、知らず力がこもる。あっという間に食べ終えた草太が「ごちそうさまでした」と自分の食器をまとめて、流しに運んだ。
「伯母さん、俺泳いできます」
「まだ千夏が食べてるわよ」
「ちなつは行きたくないって」
と言いながら居間を横切って行った。その背を見送った母が私を振り返って「喧嘩でもしたの」と呆れ顔で言った。
「一人で泳ぐなんてだめよ、食べたら千夏もすぐに行きなさい」
 ほら、と母は手のひらを向けて私を追い立てた。



 絶え間なく聞こえる蝉の鳴き声をくぐって歩く。気持ちとは裏腹に、坂道は海への足を早める。国道沿いに走る単線の線路をまたぐ時、見下ろした海は朝の陽光の中でまだまどろんでいた。青空に取り残された不安のような灰色を抱えて寄せてくる波が見えた時、(帰りたい)と思った。
 草太はすぐに見つかった。海には入らずに、浜に下りる階段の途中に腰掛けてぼんやりと海を眺めていた。ドーンと響く重い波音。波が高くて入れないらしかった。
 私も草太の隣に腰を下ろして「怖い?」と訊ねた。
「怖いよ」
「私も怖いよ」
 遠い水平線は静かに見えるのに、近づいた波は暗い色彩の中に何もかも呑み込んでしまう口を開くように突然膨れ上がり、荒々しく波飛沫を上げてドーンと吠える。途方もなく巨大な生を目の前にして、小さな生き物は怯える他にないのだ。
 だが、草太は私の質問の意味を取り違えていた。
「俺、時々怖くなるよ。いろんなこと」
「いろんなことって?」
「こんな荒れた海に入ってブイの向こうまで泳いで行きたくなる自分とか」
 草太の言う意味がよくわからなかった。それこそ怖いもの知らずの考えだった。波の轟きがゆっくりと胸の底まで響いた。
「だめだよ草太、今日は泳げないよ……」
「うん」
 遠くを漁船が横切って行くのが見えて、私はふと思いついて岬を指さした。
「草太、今日はあっちの方へ行ってみようよ。展望台があるの」
「どこ?」と目を凝らす草太に「四阿があるだけだけど」と念を押して、先に立って歩き出した。
 弧を描く砂浜に沿った道を歩いて、山へと続く細道の入口で曲がる。養殖場の脇を抜けて、急坂を上ってゆくと、小さなトンネルが黒い口を開けていた。立ち止まって待った。後からついてきた草太は「ちいせえトンネル」と、やっと笑みを見せた。
「真っ暗だ」
「うん」
「おばけ出そうだな」
「行くのやめる?」
「ううん、行く」
 二人並んで歩けばいっぱいになってしまう幅と、大人なら頭がつかえそうな高さの狭いトンネルだ。片側に点々と取り付けられた明かりが鈍い光を落とすだけで、出口の光がやけに遠くに見える。中程まで来た時、暗さが増して思わず足を止めた。
(何で急に暗くなるんだろう…)
「…ああ、明かりが切れてるんだ」
 落ち着いた草太の声に、そちらを見た。顔もよく見えなかった。今度は草太が私に訊ねた。
「怖い?」
「…うん」
「俺も怖い」
 草太は私の手をぎゅっと握って走り出した。
「出るぞ!出るぞ!何か出るぞーっ!」
「やだーっ!」
 出口が遠い。
 緑に光る外の世界へ向かって、私たちは叫びながら走った。笑い声がトンネルじゅうにわんわんと響いた。大声を上げて日差しの下に飛び出すと、辺りの色が黄ばんで見えた。まぶしさに目を細めて止まり、トンネルを振り返った。
「すげえ怖かった!」
「私も!」
 顔を見合わせてアハハと笑った。私の手を握る草太の手にはぎゅっと力がこもっていた。私も手に力をこめて草太の手を握っていた。
 私たちは、本当に、怖かったのだ。




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