高瀬さんはコーヒーを一口啜り、「何から話せばいいのか…」と呟いた。「そうだな、まず僕がなぜ今、東京に居るのか、から…」
 それはつい先程の事だったと言う。
「僕は仕事で外回りをしていました。櫂に戻る道を曲がったら、景色が突然変わった。大阪は晴れなのに雪が降っていて…そこは見覚えのある団地でした。僕がまだ学生だった頃に一人暮らしをしていたアパート近くの団地で、毎朝駅に向かうのに使っていた道だった。僕が初めて美緒子に声をかけた場所でもありました」
「はい」と続きを促すラジオの声。
「話は十年…もっと前か、そのくらい前のクリスマスイブにまで遡りますが…」とまたコーヒーを一口飲んで、「美緒子は通学に使う電車が同じで、毎朝見かける、ちょっとユニークな子でした。地下鉄なのに、暗い窓の外の景色を楽しそうに眺めている。面白い子だな、と思っていたところへ、団地に積もった雪に足跡を付けて遊んでいるのを見かけて……おはようございます、と声をかけたんです」
 そう、あれは雪の日でした───と言って、高瀬さんは沈黙した。次に何を言おうか考えている様子だった。
「美緒子はちょっと世を拗ねた、無愛想な子でした。電車では楽しそうだったのにね。けれどその日一日を一緒に過ごして───だんだん、本性と言うのかな、本心を見せるようになったんですね。雪のせいかもしれません」
 雪のせい……?
「先程、『結晶の秘密』と仰いましたね。僕らはそれに気づいてしまったんです。仕方なかったと思います。雪が次から次と降ってきて、結晶が溶けてはそこに秘めていたものを思い出させたのだから」
「結晶に秘められたものですか」とラジオ。
「そう、それで僕は今日、大阪から一瞬で東京に移動し、そこで美緒子と再会したんです」
「ちょっと待って、急に話を変えないでください」と私は口を挟んだ。高瀬さんは「順序立ててお話ししていますよ」と静かな声で言った。
「彼女は雪の結晶の力を使って、僕を大阪から引き寄せたんです」
 ───どこかで聞いたような話だ。
 そうだ……由加さんが空間の歪みに落ちた時に和泉さんを呼び寄せた、と───
「驚かないんですね」と高瀬さんは私たちを見た。
「予測し得たので」とラジオ。
「なるほど、僕と同じくらい判っている、と仰る通りなんですね」
 高瀬さんはわずかに苦笑した。
「では、これは知っていますか?この世界には番人がいると」
「番人?」
「彼らは、結晶の力を秘密にし、守っている」
 ラジオは頷いて、「それは知りませんでした」と言い、煙草に火を点けた。高瀬さんが続ける。
「だから僕と美緒子は彼らと敵対する事になった。……闘った訳ではありませんが……ゲームをしたんです。僕と美緒子の記憶を賭けて、時と記憶の番人たちと」
 ラジオは「時と記憶の…」と呟いて煙をそっと吐き出した。
「…そして、僕らは負けたんです。だから記憶を抜き取られた」
「高瀬さん、先程仰いましたね。『思い出してはならない事』と。それは誰が決めるんですか?」
「自然が…宇宙が…この世界が決める事、と言えば良いでしょうか」
「どういう意味ですか」と私。
「自然の理、だという事です」
「という事は、思い出すのは自然の理に反する事なんですか」
「いいえ。彼らは言いましたから。『いつか全てを思い出す』と。僕らは、ただその『いつか』より早く、この世の記憶に気づいてしまった。最初は面白半分に、雪の結晶の力を使っていた。だから番人が現れたんです。この世の秩序を乱さない為に」
 いつか全てを思い出す───
 美緒子さんの言っていたのはこの事か……
「では」とラジオが煙草の火を消した。
「美緒子さんは、思い出した…、つまり『いつか』が訪れた、という事でしょうか」
「判りません。ただ、僕の描いた絵をきっかけに思い出したのなら、その『いつか』はまだだったのかと思います」
「けれど雪の結晶の力で高瀬さんを東京まで引き寄せたんですよね。それがどれほどの想いからだったか、想像されましたか」
「…しました。そのくらいの事は判るつもりです。だから僕は───彼女の前から消える為に雪の力を使いました。そうしたら、この近くに出た、という訳です」
 そう語って彼は『北天』に目を遣った。
「『北天』が僕を呼び寄せたのかもしれません」
「美緒子さんは…どうしたんですか…?置き去りですか…?」私の声が震えていた。
「いや、少し話して…今はまだその時じゃないと…さよならを言いました」
 高瀬さんの瞳の光が滲んだ。涙となってこぼれそうに見えた。
「そろそろ列車の時間なので…これで失礼します」
 立ち上がった高瀬さんに、ラジオが引き止めるように言った。
「『その時』は誰が決めたんですか」
「僕です」
 では、と彼は深くお辞儀をした。私たちの顔を見ないように彼はすっと動いて六角屋を出て行った。後に残った私たちは、ただ『北天』を見つめるしかなかった。
「いつか全てを思い出す───か。だとしたら、高瀬さんにはその『いつか』が来たんだろうね。『記憶の地平』を描く事が出来たんだから」
「あ、そっか…」
「『全て』はきっと空木秀二が描いたような『あらゆるもの』なんだろう…。高瀬さんは言葉を抑えて言わなかったね。『後悔する』と言った、その真意を」
 そう言ってラジオはまぶたを閉じた。
「彼は優しい人だよ」
「…うん、そうだね…」
 私たちを揺さぶる高瀬さんの悲しい波動が、いつまでも六角屋を満たしているような気がした。




 独りの部屋に戻って明かりをつけて、誰にともなく「ただいま」と言った。「おかえり」と部屋中のものたちが応えるような気がした。私は冷蔵庫から、包みを開けたチョコレートを取り出して、東さんの写真の前に置いた。「おすそ分け、もらうね」と言って一粒つまむ。
 いろんな事があったな……疲れていた。チョコの甘さが身に沁みた。
「中途半端、か…」
 伊野さんの「俺が認めない」が思い出された。どうしたらラジオのように認めてもらえるだろうか。───何をばかな事を考えてるんだろう。恋人じゃないのに。「愛おしかった」という言葉が本物だとしても。
 窓を開けると雪が舞っていた。私はそれを手のひらに受けて溶けるのをじっと見た。
 結晶に封じ込められているのは何か。
 次々と手のひらに落ちる雪を、そっと舐めてみた。
 何も起こらなかった。
 どうすれば奇跡を起こせるのだろう。
 『いつか全てを思い出す』。
 私には、まだその時ではないのだと思われた。
 ───和泉さん。逢いたい……
 そう思った瞬間、ふっと明かりが消えた。
 停電?
 どこもかしこも暗闇で、私は手探りで部屋を歩いた。懐中電灯はベッド下の引き出し……その辺りと思われる場所を探ってみた。何の手応えもない。ここは───どこ?
 不意に近くに人の気配を感じた。「…誰?」と声に出した。でなければ怖かったのだ。
「…ミオさん?」
 この声は───
 少し低い、柔らかな声。
「和泉さん?」
 やみくもに手を伸ばすと指先に何か触れた。と、手を掴まれた。再び「ミオさん?」と問われて私も「和泉さん?」と訊き返した。
 何が起こっているのか判らなかった。
 その誰かは私の手を引っ張って、その拍子に私はその人の胸に倒れ込んだ。
 ───東さんの匂い……
 そう思った時、誰かの気配は消えた。明かりが点って、私は部屋の隅で壁にすがりついていた。
 気のせい───
 頭がガンガンと痛くなって来た。
 今のはいったい何だったのだろう。
 幻覚…?
 きっと和泉さんに逢いたい気持ちが強すぎて、停電のせいであんな幻覚に襲われたんだろう……
 自分が恥ずかしかった。
 東さんの写真がこちらを見ていた。私はそれを裏返しに置いた。
 ごめんなさい、東さん───
 やっぱり、あの人が好きみたいです。