今年も、この時期が来てしまった。
日曜日のデパートである。特設会場の売り場には、女性ばかり。チョコレートの見本が並び、ラッピングされた箱が山積みにされていた。そう、バレンタインの時期だ。私は空の買い物カゴを提げて、呆然と立ち尽くしていた。
去年は義理チョコだけだったので、何気なくあれこれと買ったけれど───
まずは、会社で配る分。これは必要と思って、大きい箱を一つ取った。後は……
会社で配っているのだから、仕事仲間の伊野さんの分がないのは不自然だ。けれど。
≪俺じゃダメか≫
伊野さんの気持ちを知ってて、義理チョコを渡すのはどうかと思われた。するとアシスタントのひかる君の分も買えない。そして───
ラジオは義理チョコとして受け取ってくれるだろう。心配はない筈だが……伊野さんには贈らない事を思うと渡しにくい。
そして、もう一つ、買おうかどうか迷っていた。
遠いし。住所も連絡先も知らないし。和泉さんの分は必要ないだろうと思うのに、気づくとチョコを探している。渡せる機会の可能性を考えてしまう。
───ええい、今年は義理もなし!職場の分だけ!
レジに並ぶ列の最後についたところへ、「ミオさん?」と声をかけられた。振り向くと短い赤い髪が目を引いた。梢子さんだった。
「こんにちは」と微笑む彼女が手にしたカゴには、同じ包みの箱が三つ、入っていた。
「梢子さんも野宮君にチョコ買いに来たの?」
「はい。あと山崎君と店長の分」
とカゴをちょっと上げてみせる仕草が可愛かった。……だが。私はカゴを覗き込んで尋ねた。
「三人とも、同じチョコなの?」
「はい」
「ちょ、ちょっと待って、」笑いが引きつった。「野宮君のは本命チョコじゃないの?」
「え?」梢子さんはきょとんとしてわからないといった顔だ。
私は梢子さんの腕を引いてレジの列から離れ、チョコの棚の前に戻り、「彼氏には義理とは別のチョコじゃないと…がっかりしちゃうよ?」と言った。
「去年は別に何も言われなかったけど…」
野宮君、大人だ。ちょっとかわいそうな気もした。でもそれが彼女らしくて可愛いとも思った。
「ミオさんは、逢坂さんにあげないの?一つなんて。でも大きい」
「あーこれは職場でみんなに配る用…」
前髪をかき上げる手を額で止めて、付け足した。
「今年はそれ以外義理チョコもやめようと思って」
「それって本命がいるから?」
「え、」
「薄く見えてます。スーツを着た眼鏡の人」
「……」
私は絶句して、顔が赤くなるのが自分で判った。
梢子さんはラジオ同様、能力者だ。その力は弱いとはいえ、私とは波長が合うらしい。誰にも見えない私の心が映像として見えてしまうのは二度目だ。それが和泉さんの姿をしていると指摘され、私が惹かれているのはやはり和泉さんなのだと思い知らされて、私は幻をかき消すように両手を振るという、意味のない動作をした。
「…と、とにかく、野宮君のチョコを探そう?ね?」
「つらくないですか?」
「え?」
「私にはミオさんがつらそうに見える」
「……」
≪泣いていいんだよ。僕の前では≫
ラジオにも私はつらそうに見えたのか───そして、梢子さんにもそう見えるのなら、私は作り笑いをしなくてもいいのか───うなだれると「ごめんなさい」と聞こえた。「ううん、謝ることじゃないよ」と言うので精一杯だった。
その後、チョコレート売り場で梢子さんと別れた。これから野宮君とデートだと言う。バレンタインは明日だけど、フライングで今日渡して驚かせるのもいいね、なんて笑って話した。
デートか……いいな。
ちくりと胸が痛かった。結局、梢子さんの説得で、私は義理チョコをいっぱい買い込んだ。伊野さんもこれまで通りにしてくれているのだから、私が変な態度を取る方がおかしい、と思い直したのだ。ラジオには本当に、いろいろお世話になっているのだから、そのお礼と思えばいい。
一つ、余計に買ったのは、自分が食べる分だ。そう、自分の。
梢子さんには「本命の人の分も買った方がいい」と言われたのだけど。渡す術もない。
買って来たチョコを冷蔵庫に入れた。100円ショップで買った保冷バッグは三つ。会社用、伊野さん用、六角屋用だ。寒い季節とはいえ、部屋は暖かい。チョコが溶けないように……なんて思いつつ、忘れそうだったので『チョコ』と書いた付箋を冷蔵庫に貼った。
なんとなく、いつものコミュニティサイトを覗いた。独りには慣れているけど、少し寂しくなったのは、デートに行くと言う梢子さんが羨ましかったのかもしれない。
サークルカフェには『入室:1』。誰かいる。ラジオかな、と思って入ってみると、和泉さんだった。
海音:こんばんは
rhythmi:こんばんは。お久しぶりです
海音:お久しぶりです
この前話した時を思い出そうと必死だった。和泉さんも普通に接してくれていたから、普通に普通に……と思うほど、言葉が出て来ない。しばし沈黙。ややあって、彼から話しかけてくれた。
rhythmi:今日は何してましたか?
海音:買い物行ってました。バレンタインチョコ
rhythmi:良いですね。僕は今年は多分ゼロ個です
海音:なんで?
rhythmi:男所帯の職場だからw
胸がドキドキする。チョコを渡せれば…と思い、ふと思い出した。
確か和泉さんと初めて会った時にもらった名刺に……あった、メールアドレスが書かれている。
私は「ちょっと待ってください」と発言して冷蔵庫へすっ飛んだ。『余計に買ったチョコ』を取り出して包みを開け、チョコの写真を撮って即、和泉さんに送った。
rhythmi:あ、なんか来た
rhythmi:チョコだ!w
海音:気分だけでも味わってください
rhythmi:ちょっと待ってね
なんだろう?と思って待つ。スマホがメールの着信音を鳴らした。開いてみると……
和泉さんの自撮り写真だった。唇を結び、片方の頬を膨らませ、それを指差している。本文には「ありがとう。美味しいです」と書かれていた。その顔が面白かったので、ぷっと吹いてしまった。
rhythmi:海音さんの写真も送って
海音:え?なんで?
rhythmi:顔が見たいから
全身の血がザーッと早く流れ出したような、急激な動悸と恥ずかしさ。私はチョコを1個手に取り、今にも食べるところ、という仕草と顔で写真を撮った。「変顔対決」と本文に書いて送った。
rhythmi:変顔対決ってw
rhythmi:髪を切ったんだね
海音:あ、はい
rhythmi:僕のせい?
手がキーボードの上で浮いた。何と答えたものか逡巡した。
rhythmi:この前は言えなかったけど
rhythmi:ごめん
謝らないで、と思った時───
ピーンと耳鳴りの向こうで声がした。
≪謝らないで≫
≪……忘れる、から≫
以前にも聞いた、ふわっと柔らかな可愛らしい声……
同じ声を和泉さんも聞いた筈だ。
≪後戻り出来ると思う?≫
出来ない。出来る訳がない……
海音:謝らないで
海音:後悔してないから
沈黙が長く感じられた。余計なことを言ってしまったかと不安になった。
rhythmi:ごめん。僕は悔やんだ
rhythmi:彼女を裏切ったことになったし
rhythmi:彼女との約束も果たせなかった
rhythmi:海音さんの優しさにつけこんで
rhythmi:僕は甘えていた
「僕は悔やんだ」の言葉が痛かった。やっぱり和泉さんにとっては、あれは過ちだったのだ。両目がじんと痛くなった。パソコンの画面が滲んで見える───泣いちゃダメだ。
rhythmi:でもね
rhythmi:初めて会った時からずっとだけど
thythmi:僕は君の前では自分を偽らないでいられた
rhythmi:僕の為に泣いてくれた君を
rhythmi:愛おしいと思ったのも本当だよ
「愛おしい」の文字列が、一瞬よく判らなかった。
───え?どういうこと───?
rhythmi:ごめん、喋り過ぎた
rhythmi:海音さん生きてる?
私は慌てて「はい」と答えた。
rhythmi:これからもこうして話してくれる?
胸がぎゅっとした。「もちろんです」と答えるのがやっとだった。