しばらく、空木秀二の絵の前から離れられなかった。守屋さんが言った通り、彼の絵の中でもっとも評価が高い裸婦は、とても魅力的だった。梢子さんは慣れているのか、彼ら三人が動けずにいるのを見守っていた。どこかの撮影隊が空木の絵の前に来て「すみません、ちょっと撮りますんで」と声を掛けられるまで……振り返ると、撮影クルーを案内していたのは高瀬さんだった。
「おや」と彼は薄い笑みを浮かべた。「今日は一般客は入れない筈ですが」
「守屋画廊の代表です」と答えてパスを見せたのは野宮君だった。
「そうでしたか」
 山崎君は、いけ好かない奴、と言いたいのを堪えている顔で無言だった。
 ラジオはというと、美緒子さんを思い出すせいだろう───悲しげな瞳で彼を見ていた。
 空木の絵から離れながら、高瀬さんが「良かったですね。これで空木秀二は注目の画家になる。生前の人気を思えば、今の評価はまだ低い。やっと正当に評価されるんですよ」と言った。
 私は反論せずにいられなかった。
「空木さんは有名になる事を望んでいなかったと…六角屋のマスターも言っていたじゃないですか」
 高瀬さんが軽く私を振り向き、横目で見た。
「あなたも空木秀二がお好きなら、いずれ良かったと思うようになりますよ」
「……」
「私共への私怨でものを言うのはやめて下さい」
 ぐっ、と言葉に詰まった。それはラジオ達も同じだったようだ。沈黙が長く感じられた。
「───私は良かったと思っていますよ。空木秀二の為にも」
 そう言い残して高瀬さんは撮影クルーの方へ戻って行った。
「…なんだあいつ、上から目線で」と山崎君。その気持ちはよく判ったけれど……
 高瀬さんには高瀬さんの、『北天』に対する悲しみがある───それを知っている私とラジオは山崎君に同意する事は出来なかった。上からの目線は、高瀬さんが自身の悲しみを隠しているのだと判るからだ。
 その後は館内をひと回りする事になった。大手企業グループが買い集めた作品達は、どれも一級品だと判るけれども、空木秀二のように心を揺さぶる作品はなかった。なんとなく、ラジオのペースに合わせて歩き、隣で絵を見ていた。山崎君はいつものように丹念に鑑賞し、エントランスホールで待つ私達の事を忘れているようだった。やっと一周した彼は、私達に「お待たせ」と言ってネクタイを緩めた。
「あー、早く着替えてぇ」
「えっ?もったいない」と私。
「せっかくかっこいいのに」
「何でも着こなすからな俺は」と言っていたずらっ子のような笑みを見せた。
「そうは思えないけど」と野宮君。「着こなすと言えば逢坂じゃない?モデルになったんだし」
「まだデビューしてないよ」と言うラジオの苦笑。
「明日でしょう?雑誌の発売日。明日デビューじゃない」
「忘れてた」
 本当に忘れていたらしい。他人事のように「嘘みたい」と言った。
「三人ともかっこいいから写真撮ろうよ」とスマホをバッグから取り出した。「梢子さんも入って」
「えー?空ちゃんとツーショットにして」と山崎君。
「珍しい山崎は撮っておいて後でネタに出来るな」と野宮君もスマホを手にする。
「こら、こっち見て」とスマホをカメラモードで構えた。「はい、撮るよー」
 カシャ、と音を立てて一枚撮った。
「うん、良い出来…」
 言いかけてハッとした。
 ラジオの瞳に映る小さな光───
 空木秀二と同じ瞳。
「ごめん、撮り直す」
「何で?」
「上手く撮れてなかったの」
 ラジオの瞳に注意しながら二枚目を撮った。今度は皆と同じように撮れた。
「その写真、送って」と彼らは携帯を手に集まって来た。四つの携帯に二枚目の写真だけをメールで送った。
 どんなに親しくても、ラジオの能力はトップシークレットだ。
 それを察知したらしい彼の「ありがとう」は、写真を送った事だけではない含みを感じさせた。




 翌朝、出勤の途中でコンビニに寄り、雑誌を買った。ラジオのモデルデビューはどんな感じかと楽しみだった。
 始業前に席に着いて雑誌を開いた。スタジオでの撮影だったと聞いていたけれど───
 一ページずつめくっていく。街中でのロケ写真が続く。ラジオの姿はない。デビューだし目立たないのかな、と思ってぱらぱらとページを繰った。
 どきっとして手を止めた。
 バストアップでの写真。少し照れたような微笑でこちらを見るラジオ。
 『新専属モデル 逢坂仁史』という言葉が添えられている。
 見開きで二ページも使われている。ページ下部はラジオの紹介とインタビューだった。
 T大医学部からモデルへの転身という略歴。趣味はギター。
 なぜモデルになろうと思ったのか、という問いには「周囲の勧めがあったから」、そして自分については「モデルとしては背が低いけど、見てくれた人が親しみを持ってくれたら良いです」などと話していた事が書かれていた。
「聞いてないよ…」と思わず呟いていた。二ページ目は様々なポーズのカットがコラージュされていた。自然体で動くラジオ。グレーと黒のツートンのラグランスリーブニットとジーンズといういでたちは普段の彼らしさそのままだ。
 モデル事務所がしつこかった、と伊野さんも言っていたっけ……
 それはすなわち、ラジオをモデルとしてと言うより、ラジオ本人を、着ている服より売り出したかったのだと気がついた。
 ラジオの将来が大きく動こうとしている───
 腕時計を見るとまだ九時前。スマホを取り出してメールを打つ。
 『見開き二ページなんて聞いてないよ!』とだけ送った。
 すぐさま『ごめん、言いにくかった』と返って来た。
 本当にもう……時々、ラジオはびっくりさせる。
 その後は、他のモデルさん達と一緒に『服を見せる』ページが二ページあった。以前からの専属モデルと思しき人達と比べたら、扱いは小さく、ページ数も少ない。これからだな…と思った。始業時間になって、雑誌をバッグにしまった。




 伊野さんと昼食。打ち合わせが終わって、蕎麦屋に入った。
「仁史君の載ってる雑誌見た?」と訊くと、「見た」と簡潔な答え。
「やっぱり絵になるな、あいつ。俺が撮った方が上手いけど」
「自画自賛」
「ああ、春のAIMのテーマな、何撮るか決まったよ」
「何?」
「『K』」
「けー?」
 アルファベットのKと気づくまで数秒要した。
「『K』で始まる言葉で撮る。おまえも参加しろ」
「はあ?どういうこと?」
 野菜天せいろが二つ運ばれて来た。二人とも割り箸を割る。
「モデル、二十人くらい欲しい」
「何を撮るの?」
 ずずっと蕎麦を啜った伊野さんは、割り箸の先で宙を差して、
「人類愛」
と答えた。意味がわからない。「撮る時に説明する。学校の後輩をかき集めるんだが、仁史も呼ぶつもりだから。おまえも来い」
「え、つまり私の写真も撮るの?」
「そそ」また蕎麦をずるずる。「無理だよ」と言ってみた。「そうかもな」と伊野さんはニッと笑った。
「そうかもって…わからないからでしょ」
「ああ。出来れば当日まで黙ってて、断れない状況で撮る」
「悪どいなー」
 私は茄子の天ぷらにつゆをつけて一口食べて言った。伊野さんは「ハハ」と笑った。
「悪いようにはしねーよ」
 それなら……参加しても良いかな、と思って頷いた。
「なあミオ」
「うん?」
 伊野さんはかぼちゃの天ぷらを取る手を止めて、
「その後好きな奴とは上手く行ってんのか」
「……」
 蕎麦が喉に詰まるかと思ってむせた。「何を藪から棒に」
「保護者としては気になるだけだ」
 ≪保護者として心配してるんじゃねーぞ≫
 ああ、伊野さんの本心は───保護者としてじゃないんだと自覚した。
「上手く行くも何も…」視線を蕎麦猪口に落とした。
「遠くに住んでるから会ってないし?…そもそも本当に好きなのかわかんない。伊野さんは『惚れてるのと同じ』って言ったけど……」
 気になる人がもう一人居るなんて言えない。
 どちらも気になるけど、どちらも好きかどうか判らない。
 東さんを失ってから時間が経ちすぎて、ただ寂しいだけなのかもしれなかった。
 ───私って浮気性なのかしら。
 恥ずかしくなって黙り、蕎麦を啜った。
「仁史の事も気になるんだろ」
 ぶっ、と今度は本当に蕎麦を吹いた。
「な…なんで」
「見てりゃ判る。だから仁史に惚れてんのかと思ってたけど、違うのか。遠くに、ね…なるほど?」
 図星。自滅。墓穴。そんな言葉が頭の中をラインダンスした。
「ずっと近くでおまえ見てんだ。それくらい判るさ」
 どきっとして───やばい、伊野さんまで気になっちゃう。和泉さんとラジオだけでキャパオーバーだ。少なくとも、伊野さんには友情の方が勝る。…と、思う。
「おまえの事だから、東に悪いと思ってんだろ?言ったろ、おまえは言われたくなかっただろうが、奴を安心させろよって。もうそうしてもいい頃だ」
「……」
「自分を責めるなよ」
と言って、伊野さんは蕎麦つゆに蕎麦湯を注いだ。
 もうそうしても……他の誰かを好きになってもいい頃……
 胸が痛い。
 それだけはずっと変わらない。
 自分の心が見えないのは、なんて不安なんだろう───
 呆然と天ぷらを見た。バッグの中の雑誌で微笑むラジオの顔が浮かんで消え、彼ならなんて言うだろうと思った。きっと───伊野さんと同じ事を言うのだろう。
 僕の前ではうさぎになっていいんだよ、と。
 でも、うさぎにならないで、と。





2018.3.12