仕事始めは雨。いつかの霧雨のよう───
 このくらいの雨なら、ラジオは傘を差さないんだろうな。
 そう考えて、思い出したのは、透明なビニール傘を差してこちらをまっすぐに見ていた和泉さんだった。またあの夜を思い出してしまう……
 俯いた勢いで額をガン、とデスクにぶつけた。「どうした?ミオ」と同僚が声をかけて来た。「締め切りが…」と呟いて、そうだ仕事に集中しよう、と思った。伊野さんの写真に付けるコピーがまだ浮かばない。時間は無慈悲に過ぎて行く。
「まあ、まあ、お昼食べに行かない?」
「しーめーきーりーがー」机に額をゴン、ゴン、とぶつけるのを繰り返した。顔を上げて「ごめん、これ終わったらお昼にする」と断った。
 いざとなったら抽斗のカップ麺でもいいしな。
 伊野さんの写真を見直す。担当するファミリーファッションの写真だ。仲睦まじい家族の写真(本当は他人のモデルさんばかりだけど)。あったかいな、と考える。温もりの伝わる良い写真だ。これをどうコピーで表すか……
 ああ、もう、どうしちゃったんだミオ。
 きっと最近いろいろあり過ぎたからだ───
 それとも休みボケか。
 後者だと思う事にして、写真を睨んだ。




 独りの部屋に戻ると、肩の力が抜けた。コピーも締め切りには間に合って、幾つか考えた中から採用された。夕飯は何にしよう、と冷蔵庫を開ける。一人分のおせちの残りがあった。これでいいや、ご飯炊こう、とコートを脱いで掛け、お米を研ぎ始める。ストーブが少しずつ室温を上げていく。日常───平穏な。だけど心の中は冷たい風が吹いていた。
 独りには慣れている。炊飯器のスイッチを押して、コーヒーを淹れた。インスタントだけど。六角屋の美味しいコーヒーが飲みたいな、近いうちに新年の挨拶を兼ねて行こう……とぼんやり思った。
 もし六角屋の空間が歪むのだとしたら───
 消えた高瀬さんはどこに行ったのだろう。
 私なら、どこへ行こうと思うだろう。
 由加さんが空間の歪みを通って和泉さんの部屋に現れたと言っていたな……
 ───私なら。
 東さんの居たあの日々に飛んで行きたい。だけど……
 あんなに早く、東さんが居なくなってしまうのを、もう味わいたくない───
 知らず、涙が溢れていた。

 ≪螺旋と走る少女が示すのは時間の流れで≫

 ラジオが空木秀二の『左回りのリトル』について言った言葉だ。
 時は戻らないのだと。
 けれど……

 ≪───けれどそれだけじゃないんだ。時を遡る───記憶を辿る、それは再び時を今に戻して繰り返される。はじめに戻る。僕らは時を遡って『現在』に帰って来るんだ≫

 東さんの居た日々があったからこそ、今の私がある。
 和泉さんとの事も───今の私だったから、東さんの心が判る、ラジオの心が判る、今だったから、抱きしめたかったのだ……

 ≪もし海音がうさぎになったら、おいで。抱いてあげる≫

 東さんのあの言葉があったから。
 涙を拭って、可笑しくもないのにふっと笑った。東さんの記憶はとても優しい……
 それはきっと、今に至るまでの日々も優しかったからだ。
 そこには菜摘姉ちゃんやパパ、太一が居て。伊野さんが居て、苑子ちゃんが居て───そして出会った六角屋。ラジオが居て、遠山さんが居て、森宮さんが居て。山崎君が居て、野宮君と梢子さんが居て。高畠先生と守屋さんが居て。そして……
 空木秀二という画家がいて。彼の絵があって。
 みんな、優しい───
 拭っても拭っても涙はこぼれて来た。メイクを落として顔を洗おう……立ち上がった時、スマホがコートのポケットの中で鳴った。入れっぱなしだった、と取り出すとラジオからだった。「はい」という声が鼻声で、息を吸ったらスンと音がした。
「ミオさん?」
「こんばんは」と言いながらティッシュを取って鼻を押さえた。
「…泣いてたの?」
 風邪だよと言おうとしたけれど、ラジオにはお見通しだろうと思って「ちょっとね」と答えた。
「何かあったの?」
「何もないけど…思い出し泣き、かな」
「今、大丈夫?」
「うん」
 柔らかな口調に安堵して答えた。慣れていた筈の『独り』が今は私を凍りつかせる。ラジオの声が暖かかった。何でもいいから話を聞きたかった。
「あのね、空木秀二の『宿命』、美術館に展示される事になったんだ」
「…『宿命』だけ?」
「守屋さんの情報によると、あと二枚かな、櫂が買い取ったらしいよ」
 野宮君が言っていたっけ。『空木の絵に高値が付くとわかれば手放す気になる人も出てくる』と。
 そして遠山さんはこう言ったのだ。
 絵は自分の居場所を心得ている、と。
 大阪のギャラリー櫂にあり、高瀬さんの側にあった『宿命』は、居場所を変える事にしたらしかった。それが美術館……
「…あ。まさか美術館に行こうって話…?」
「ピンポーン」
「山崎君や野宮君も一緒なの?」
「うん。野宮君が梢子さんを連れて行くんだから、おまえもミオさんを誘えって山崎がね」
 そう言ってラジオはクスクス笑った。
「もう…何を気を遣ってるんだか…」私は前髪をかき上げて「山崎君こそ、誰か誘わないの?」と言うと、
「あいつは…」と言い淀む。
「…ずっと好きな人がいて、まだ気持ち変わってないから」
「え、そうなの?」
 まるで東さんを忘れまいとしている私のようだ───
 その気持ちも、今変わりつつあるけれど……
「美術館のオープンは春なんだけど、メディアに向けて今度公開されるんだ。それで守屋さんのつてで潜り込める事になってね。守屋画廊のスタッフに化けて入っちゃおうって」
「いいの?大丈夫なの?」
「うん。みんな二十代半ばだし、不自然じゃないでしょ」
「ラジの童顔は不自然だと思う」
「顔は関係ないでしょ」とむくれた声。「どう?行く?」
 空木秀二の『宿命』───他に二枚。魅力的な話だった。
「いつ?」
「今度の日曜」
「それなら行く」
「元気、出た?」
「…うん。…うん、ありがとう」
「よかった。待ち合わせとか詳しく決まったらメールするね」
「はい」
 それじゃまた、と電話を切った。何をしようと立っていたんだっけ、と携帯を握って考えた。そうだ、顔を洗おうとしたんだ…。鏡を見て驚いた。泣いたのを拭ったせいで、アイラインが落ちて目の下にくっきりしたクマが出来ていた。
「電話で良かった…」
 急いでメイクを落として顔をザブザブと洗った。
 ≪きれいでいろよ≫
 ≪意地張るなよ≫
 ≪それはほんとのおまえじゃないんだから≫
 東さんの、消えてしまいそうな優しい声。あれが最後の言葉になった。
 素顔の自分を見て思う。
 東さん、今の私はきれいですか。本当の私は、あなたの目にどう映りますか。




 金曜日、ラジオからのメールで待ち合わせの確認をした。
 『画廊スタッフっぽい変装をしてくる事』と書いてあったので、守屋画廊の女性が清楚だったのを思い出し、毛足の長めな白のセーターと紺色のAラインスカート、ノーカラーコートの首元にスカーフを巻いて行った。
 待ち合わせ場所には驚きの光景があった。
 いつも派手で個性的なファッションの山崎君が、スーツを着ていたのである!
 黒のスーツ、黒のシャツ、ネクタイは白黒ボーダーのニットタイ。モノトーンでまとめていた。そこは山崎君らしかった。見慣れた金髪はいつ染めたのか、黒髪になっていた。
 いつもカジュアルな野宮君も臙脂色のネクタイを締めている。やや明るめのグレーのジャケットにダークグレーのスラックス。白いシャツが清潔感溢れている。
 梢子さんもしばらく会わないうちに髪型を変えたのかと思ったら、「山崎君が変装してって、これウィッグ」と黒髪のショートボブの毛先を引っ張った。
 最後に、待ち合わせ時間きっかりにラジオが現れた。
 彼は三つボタンのジャケットの黒っぽいグレーのスーツ。濃い色が細身の身体を引き立てる。コバルトブルーのシャツに濃紺のネクタイを締めて、まるで雑誌から抜け出てきたように見えた。
「これ渡しとく」
と山崎君から配られたのは、首に提げる入場許可証だ。皆それを鞄に入れて、列車の切符を買った。山崎君が先導する。最後を歩く私は、隣の梢子さんに「あの三人、目立つね」と囁いた。「そうですね」と梢子さんも小さく笑った。
 都心のターミナル駅から電車一本。美術館はアクセスの良い場所にある。郊外の駅で降りた。美術館までの道のりものどかな雰囲気だ。
 やがて美術館が見えた。脇の駐車場には既にマスコミ関係者の物らしい車がたくさん停まっていて、撮影機材など下ろしている。「わ、すごい」と声を洩らした。
「私達、手ぶらだけど大丈夫なの?」
「守屋画廊も見学に申し込んでいるから大丈夫」と山崎君。
「メディア向けの公開じゃないの?」
「そうだけど。作品を提供した画商や個人も招かれてるし、新たに作品提供を募る意味もあるから」
「という事は…」と野宮君がぼそっと言った。
「ギャラリー櫂はまだ空木の絵を集める気なのか」
「まあ、そうだろう」
 すると───高瀬さんが来ている可能性が高い。
 同じ事を思ったらしいラジオが「バレても守屋画廊の関係者で通すしかないね」と言ってフ、と笑った。
 エントランスホールで入場許可証を首に提げた。山崎君が堂々と先に歩いてゆく。こういう時は開き直りが肝心。受付でも、パスをつけている事だけ見てすんなり通してくれた。
 美術館特有の薄暗さ。絵の横の解説パネルが明かりで照らされていて、それがなんだか不穏な空気を作り出していた。
 これらの絵が全て、自分の居場所を心得ていてここにあるのか───
 巨大な生き物の腹に入ったようだった。
 作家ごとに作品を分けて展示されている。空木秀二の絵は、フロアの奥まった所にあった。
 二枚の裸婦像。
「これ、梢子さん?」
「うん」
 一枚は『夢を喰らう少女』と題されている。まだ幼いと感じる未成熟の身体で横坐りをし、顔は上を向き、右手を空に伸ばしている。画面上からおどろおどろしく魔物が降りて来ようとしていた。そして気がつくと、少女の足元には、おそらく喰らった後の魔物の残骸が無数に落ちていた。
 もう一枚は、『梢子像』。生まれたままの姿で籐椅子に腰掛け、傍らのテーブル上の林檎を見ている。右手にはナイフを持ち、物憂げな表情で、これから林檎を切るのか、皮を剥くのか、それとも躊躇っているのか───そんな一瞬を捉えていた。
「これ、一昨年の『空木秀二の世界』で見たよね…?」
 確か個人蔵の作品だった筈だ。画集にも載っていた。
 あの後───『宿命』のお披露目の後、櫂が買い取ったのか……
 『宿命』。頭から水に飛び込む男性の裸体。赤い足の裏に心臓がぎゅっと痛かった。
「いくら積んだか知らないけど」と山崎君。「俺が画商だったら絶対誰にも譲らない」
 するとラジオが小声で言った。
「遠山さんから聞いたけど、空木秀二が言っていたって。『絵は自分の居場所を心得ている』って。それならこの絵は今、ここにあるべきなんだ」
 野宮君と山崎君が振り向いた。
「時代が空木秀二を認めたって事だと思う。そもそも、僕らだけの物じゃないしね」
「ああ。絵は誰のものでもない。櫂の勘違い野郎が絵を手に入れても」
「いいじゃない」とラジオはクスと笑った。
「ここにある事が、空木の絵が誰のものでない証明になるんだから」
「でも遠山さん、言ってたじゃない?『空木さんの絵は、持つべき人が持つ』って。それが今は……美術館って事なの?」
「うん」
 ラジオの視線は『宿命』から動かなかった。
「僕らと同じように、空木秀二と出会う人が、これから次々と現れる。心を揺さぶられ、魅了されるんだ。そしていつか、空木の本当の心に触れるんだよ」
 空木秀二の本心───
 それは掴みどころのない、煙のようなものに思われた。
「伊野さんが『木霊』を見てトマトを潰したようにね」
 しん、と静まり返った。
 これから空木秀二と出会う人々───考えてもみなかった。『北天』の雪の結晶が歯車となり、ギィッと音を立てて回った気がした。
 時代が彼を認めたという言葉が、私達を置いて駆け出してゆくように思えた。