大晦日は簡単に掃除をして買い出しに行き、夜はゆっくりと紅白を見た。この大晦日独特の空気感が好きだ。ゆく年くる年で年を越して、元旦は朝寝坊を決め込む事にした。眠くなるまで落語の本を読み、翌朝目覚めたら本はベッドの脇に落ちていた。こんな怠惰な朝も元旦らしい。あけましておめでとう、と心の中で呟いた。誰もいない朝。
 外に出ると空気が清々しいのは新年だからか。ただ単に冬だからと思うけれど、いつもとは何かが違う気がするのが正月というものだ。コンビニに行きがてら散歩をした。去年の正月は雪だったっけ……澄んだ青空を見上げて、明日も晴れるといいな、と思った。
 ラジオと初詣の約束をした二日、菜摘姉ちゃんの家に一泊する私は大荷物だった。着替えを詰めた大きいバッグを駅のコインロッカーに預けて、小さいバッグを手にする。混雑する神社対策といったところだ。
 待ち合わせ場所には既にラジオが居た。軽く手を挙げて微笑み、近づくと「あけましておめでとう」。今年初めて、新年の挨拶をした。駅から神社を目指す。
 私もラジオもここは初めてだった。まずは大鳥居から花園神社の拝殿に向かった。さすが都心のオアシス、人でごった返していた。目的の芸能浅間神社はこの境内の隅にある。「直接あっちへ行った方が良かったかな」と私が言うと、ラジオは「メインの神様に挨拶しない訳いかないでしょ」とクスと笑った。「それにミオさんは芸事をするんじゃないんだから」。やっと順番が回ってきた。並んでいる間に何を祈るか決めておいた。───今年もみんな健康で幸せに暮らせますように。漠然としているが、オールマイティーな願いだと自分では思った。素早く祈るのも初詣のマナーだ。
「次…入口の方に戻るけど隅っこの方」
「よく知ってるね」ラジオが目を丸くした。
「調べたのよ」
 小さいお社、小さい鳥居。周囲の塀の玉垣には奉納した有名な芸能人の名前がずらりと並ぶ。「ラジも芸能人の仲間入り?」と笑って訊くと「僕は絵馬で充分」と笑い返された。参拝する時、ちらっと横目でラジオを見ると神妙な顔をしていた。私は、ラジがモデルとして大成しますように、と祈った。
 元来た道を引き返して社務所でお守りなど見た。様々なお守りがずらり。芸道成就守というのが目についた。ラジオはそれを選んで、あとは絵馬を奉納する事にした。
「何て書いたら良いんだろう」とラジオが呟く。
「モデルの仕事が上手くいきますように、かな。ミオさんは?」
「うーん…」そう言われると考えてしまう。「私も仕事のことかな」
 絵馬を奉納した後は、人混みの流れに乗って大通りに出た。流されるまま駅の方へと向かっていく。交差点でやっと人混みから解放された。
「駅ビル寄って良い?」とラジオ。「お年賀買って行くから」
「気を遣わなくて良いのに」
「ミオさんは用意してないの?」
「もうお菓子買ってあるから」
「ほら!やっぱり買って行く」
 太一君が居るならお菓子が良いのか、でもそれじゃミオさんとかぶるし、とか、パパの好みなど訊いて悩んだ結果、和菓子を買った。
 菜のはなに向かう。電車に揺られながら、ラジオのモデル初仕事の雑誌の発売日や、伊野さんがラジオを撮りたがっている事など話した。聞けば今年のAIMのモデルにも誘われたらしい。テーマはまだ知らされてないとの事だった。
 電車を降りて駅前ロータリーから伸びる道の一つに入ると商店街が見えてくる。しばらく行けばスナック『菜のはな』。脇の細い路地に入って建物の裏に出れば玄関があるが、無論菜のはなから入っても構わない。今日はさすがに菜のはなのドアの鍵が閉まっていて、脇道に入ると、私の後に続くラジオが「ミオさんが初めて六角屋に来た時の心理が判る気がする」と言ってフッと笑った。 
 インタホンを鳴らすと菜摘姉ちゃんの明るい声が「どうぞ入って」と迎えてくれた。ラジオと二人、「おめでとうございます」と言いながら玄関に入ると、太一が飛んで来た。「ミオ姉ちゃん」と飛びついて、ラジオに気づくと私の陰に隠れた。ラジオは腰を落として目線を太一に合わせ、「あけましておめでとうございます」と微笑んだ。
 菜摘姉ちゃんが遅れて出て来て、「太一、ご挨拶は?」と言ってラジオを見て、「おめでとうございます。仁史君?はじめまして」
「はじめまして、逢坂仁史です」と立ち上がって頭を下げた。それを見て太一が真似をしてお辞儀した。精一杯、挨拶したつもりらしかった。
 居間に通され、コートを脱いだ。ラジオの白いセーターは、これもお母さんの手編みかと思わせるアランニット。爽やか好青年、といった雰囲気だ。キッチンでお茶を淹れようとする菜摘姉ちゃんに「手伝うよ」と近づくと「いいから座ってて」。こたつの角を挟んでラジオの斜め前に座った。パパと向き合うラジオは少し緊張しているのか、伊野さんと初めて会った時のように曖昧な笑みだったが、太一がパパの膝に座ると、ふわっと優しく笑った。
 それを見たのか、菜摘姉ちゃんはお茶を置きながら、
「モデルさんですって?やっぱり素敵な方ね」
「いえ、まだ卵です」と照れ笑いするラジオ。いただきます、と湯呑みを手にしてお茶を一口飲んだ。
「ミオとはどこで知り合ったの?」
「僕のよく行く喫茶店で…ミオさんが雨宿りに入って来て、それで」
「雨に濡れてたからタオルとか傘を貸してくれたの」と私が補足した。
 あれから───二度目のお正月。一年半。ラジオとの付き合いも、もうそんなになるのか。
 いろんな事があったな……
 感慨深かった。
「ミオは頑固だから、付き合うの大変でしょ」
「いえ、親切にしてもらってます」
「なんだか他人行儀ね。付き合ってるんでしょ?」
 ラジオの「いいえ、違います」と私の「違う違う!」が重なった。
「やっぱりみんな誤解するんだね」と、二人で顔を見合わせた。この場合、みんなとは山崎君や高畠先生、伊野さんの事である。
 だが確かに、今一番親しい男友達は、やはりラジオなのだ。お茶菓子をつまみながら、彼の横顔を見た。
 髪に隠れそうな、耳たぶ近くの小さなほくろ。長い睫毛。大きな目。
 どれも強い印象を受ける。
 菜摘姉ちゃんが「なんだ、残念」と言ってぷっと吹いた。
「こんな素敵な子が親戚になるかと思ったのに」
「これからかもしれないよ?」とパパが追い打ちをかける。
「いえ、そんな。ミオさんは僕にはもったいないひとです」
「いいよー、思ってもない事言わなくても」と私。
「判った、言わない」
と頷くラジオに姉ちゃんとパパは大笑いした。




 それからラジオは太一と遊んでいた。居間から続く隣の部屋で、この前サンタさんに貰ったというプラレールの新幹線を走らせ、車内アナウンスの真似をしてみせたりして太一をはしゃがせていた。
 夕飯の支度を手伝いながら、菜摘姉ちゃんと小声で話した。
「良い人じゃないの。何で付き合ってないの?」
「んー。お互い、自分に似てるって思うからかな。異性として意識しないって言うか」
「…東さんの事、彼は知ってるの?」
「うん、知ってる」
「だから遠慮してるのかしら」
 いや、彼は出会った頃に言っていたのだ、私に女性としての魅力を感じない、と。それはちょっと自虐的で言えなかった。胸の内で笑う。
「今日連れて来たのが伊野さんでも、同じ事を言うでしょ?」
「そうねえ…」
 私は春菊の葉を摘みながら、
「心配しなくても大丈夫よ。私だっていつまでも東さんに縛られてる訳じゃないもの。東さんだってそんなの望んでないと思うし」
 細い溜息が出てしまった。菜摘姉ちゃんが「ごめん」とだけ言った。
「ううん…。私ももうすぐ三十だし、姉ちゃんが心配するのわかるよ。ごめんね」
 春菊を摘み終えて、手を止めた。
 私はいつから、こんなに嘘が上手くなったのだろう。
 東さんだってそんなの望んでない───言葉が上滑りした。
 ≪俺が居なくなったからって、またひとりで生きなくちゃって、意地張るなよ≫
 ≪それはほんとのおまえじゃないんだから≫
 そして和泉さんの事には触れずにいる。気になるひとが居る───そう、言ってしまおうかと思った。けれど言ってしまうと菜摘姉ちゃんは期待するだろう。
 すき焼きの支度が整った。ラジオは夕飯の支度の前に帰ろうとしたが、太一が引き止めた。たくさん遊んでもらって、彼を気に入ったらしい。「じゃあ、ごはんを食べたら帰るよ」と言っても、白いセーターの袖口を掴んで離さなかった。姉ちゃんに「お兄ちゃんが困るでしょ、言う事聞きなさい」と言われてしぶしぶと袖を離した。
 食卓を囲んでも太一は何かとラジオに構った。「シュンギクあげる」「焼き豆腐あげる」。「太一、好き嫌いしないで食べなさい」と言われて、嫌いだったのかと可笑しかった。
 夕飯の後には菜のはなでカラオケにしようと誘ったが、ラジオは「いえ、これで」と断った。玄関先で見送る時、「ごちそうさまでした。楽しかったです。今日はありがとうございました」と笑顔を見せ、またしゃがんで太一と目を合わせて「また遊ぼうね」と頭を撫でた。
「ではこれで失礼します。ミオさん、また六角屋でね」
 そうしてラジオが帰った後は、毎年恒例のカラオケだったが、なんだかしんみりとしてしまった。プラレールの新幹線を離さない太一が元気を失くしてしまったのだ。太一の好きなアニメの歌を歌っても、マイクを置いて話しかけても、黙り込んでいた。
「太一、仁史兄ちゃんはご用があるから帰ったんだよ」と姉ちゃんが言うと、「うん」とやっと納得した。
 ラジオの周りはいつもあたたかい。優しい空気を纏って、人をほっとさせる。
 幼い太一にもそれが判るのだろう。
 この人の側には安らぎがあると───
 私は不思議な気持ちになっていた。
 姉ちゃんには『異性として意識しない』と言ったが、ラジオには幾度かドキッとさせられていた事に気がついたのだ。
 もしも姉ちゃんの言うように、ラジオと付き合ったら……?
 優しい瞳。屈託ない笑顔。心を語るように歌う。時には頼れる一面も。
 私は安心して暮らしていけるだろう───
 そして、誰かの代わりに流す涙。
 その優しさに惹かれるような気がした。
 何だろう、この気持ちは。
 和泉さんを思うと胸が痛むのに、ラジオはその痛みを和らげてくれる。
 ≪近づき過ぎると駄目みたい≫
 私は───?
 波長が合うからだろうか、とても近く感じるのに。気づけば一年半、何かあれば一緒に居た。今一番親しい男友達。
 自分の気持ちが判らなくなってきた。
 気になる人───それは和泉さんだけではなく、ラジオもそうだと……気づいてしまった。
 何、これ。この感覚。
「───ミオ?」
 はっと気づくと、菜摘姉ちゃんが「どうしたの、ぼーっとして」と心配そうにこちらを見ていた。「ああ…次、何歌おうかなって」とリモコンを取ろうとして、太一もぼーっとしているのを見た。
「太一、眠い?」
「眠そうね。今日はこれで終わりにしようか」
「そうだね」
 カラオケセットを片付けて、菜のはなの灯りを落とした。