涙のわけを、ラジオも遠山さんも訊かなかった。ラジオは感じ取っているかもしれないと思ったが、心の耳を塞いでいてくれていたようだった。
東さんの声がする───
≪きれいでいろよ。俺が居なくなったからって、またひとりで生きなくちゃって、意地張るなよ≫
≪それはほんとのおまえじゃないんだから≫
本当の私。
それは泣き虫で、寂しがりで……
こんなにも、脆い。
あの人も同じだった───いつのまに、身を寄せ合い抱き合って。
壊れそうな心を互いに委ねて。
うさぎ同士。
あれは一夜の過ち。その事実が、悲しかった。
「…ごめん、大丈夫だから…」
やっとおさまった涙。頬を拭うと、「いいんだよ」と優しい掠れ声。
「本当なら医者としてね、こんな風に言えるようになりたかった。だけど山崎に無理だって言われてね、それなら…」
ラジオが目を細めると、瞳の中の光が瞬いた。
「せめてそばにいる人たちを守れるようになりたいって思うんだ」
彼の優しい波動が私を揺らしていた。
そばにいる人たちを……せめてもの愛情と優しさで包み込む。
「うん…。ラジなら、出来るよきっと…」
「ありがとう」
この上ない優しい笑顔だった。
「やだな、優しくされると…」また涙が溢れそうになる。「パソコ」と遠山さんも微笑んで、私の頭をぐりぐりと撫でた。「まだ泣くとシャンプーの刑だぞ」と笑いながら。すっかり髪がボサボサになってしまった。
「僕らがいるよ」
「…うん」
ありがとう、という声が掠れた。
翌日、思い立って美容院に行った。背中に届く長い髪を梳いてくれた東さんの手。そして和泉さんの手───東さんを忘れたくなくて長くしていた髪を、切ることにした。
「どのくらいに切りますか?」
「んー…」少し、迷った。「肩に届くくらい…?いえ、もっと短く…顎くらいまで」
「思いきり行きますね」
と美容師さんが笑った。私も笑って「バッサリやっちゃってください」と言った。
シャキシャキという、鋏の軽快な音。髪が切られてゆく。あっけなく短くなった。
「前髪はどうします?」
「このままで」とワンレングスのボブにしてもらった。
形を整えながら細かく鋏を入れる。こうして、人の手に委ねて変わるのは、結構いい気分転換だなと思った。
≪きれいでいろよ≫
東さんはそう言った。意地を張るなと。
今、私は美容師さんの手によって、新しく、きれいになろうとしている。ひとりで生きるなら形振り構えよ、とも言っていた東さん。
───これからもひとりなのだから。
無論、ラジオの言った『僕らがいるよ』を忘れてはいない。菜摘姉ちゃんもいる。ただ……恋はしないだけ。
ちくりと胸が痛む。
和泉さんには、彼女……恋人じゃなくても、好きな人がいるのだから。
そうして月曜、出勤すると部内がざわついた。
「どうしたのミオ!」
「可愛い」
などと、口々に言って寄ってくる。「気分転換?」と笑って答えると編集長が「リフレッシュしたところで春号、頑張って行こう」。皆「おー!」と盛り上がった。
一人を除いて。
「どうしたんだおまえ」
「何が?」
「髪」
伊野さんは開口一番、どうしたと訊ねて真顔でまじまじと私を見た。
今日は伊野さんの事務所で打ち合わせ。彼はお茶を淹れる手を止めて私の返事を待っていた。
「あ、これ?ただの気分転換よ。特技の貞子が出来なくなったけどねー」
あは、と笑って伊野さんの反応を見た。
伊野さんはまた首の後ろに手のひらを当てて……目を逸らして「あれか?」と訊いた。
「この前言ってたやつ」
「何?」
「もし好きな人がいて、離れなくちゃいけない時ってどんな時って訊いたろ」
「ああ、うん…。訊いたけど、それとは関係ないよ?離れるような人も、そもそもくっついた人もいないし」
半分は嘘かもしれなかったが、私には本当の事だった。
「仁史とも何もないのか?」
「伊野さん、誤解してない?」
山崎君が無用な気を利かせる事を思い出しながら、
「仁史君とは付き合ってる訳じゃないよ?」
「何の問題もないんだな?」
「もちろん」
「…そうか」
静かにそう言ってお茶を啜る伊野さん。心配かけたのだろう、少し話した方がいいのか───でもどう話せばいいのかわからない。高瀬真臣、彼が降らした薔薇は、彼の愛の象徴だと思った。
≪彼女はどこかで幸せでいてくれればいい≫
そんな───静かで深い湖のような愛情。
「それより」と私は仕事の話を切り出した。「今度の新作の撮影の日取りと…」
打ち合わせは滞りなく済んだ。「じゃ、社に戻るね」と席を立つ。一緒に立ち上がった伊野さんがドアを開けて、「お疲れ」と拳を握った。「おう」と私も拳をぶつける。
開けたドアに手を掛ける伊野さん。また出られないっての。「何?」と顔を上げると、彼は真顔で「俺じゃダメか」と言った。
「…え?」
「東からおまえを頼まれたけど、俺じゃダメか」
どういう意味……?
「俺じゃおまえを支えられねーか?保護者として心配してるんじゃねーぞ」
「……」
「何も問題ないんなら…」
ゆっくり、伊野さんの顔が近づいた。私は思わず、手にしていた茶封筒で顔を庇った。彼はフッと苦笑して「ダメか」と小声で言った。かがめた身を起こして、伊野さんが「ん、お疲れ」とドアを少し開いた。私は顔半分を茶封筒に隠したまま、「失礼します」と事務所を転がり出た。
───何やってるんだろうな、私……
駅への道をとぼとぼ歩いた。社には電話で早退すると連絡した。「大丈夫?」と心配されたが、「家で休みます」と言ってごまかした。
まさか伊野さんが───
電車に乗った。空いた電車のシートに腰掛け、また茶封筒で顔を隠した。
慣れない駅で降りる。私が向かっていたのは、お寺だった。
東さんの眠る墓がある。
お寺に着くと住職さんに声をかけて、水桶を借り、線香を買う。花くらい持って来れば良かった……
≪もういいのよ。いつまでも祐朗にしばられていないで、いいひと見つけて幸せになって≫
≪そろそろ東を安心させてやれよ≫
東さん。
私がひとりじゃ心配ですか。
ずっとあなたを想っていてはいけませんか。
───他の誰かなんて……
北風が切ったばかりの髪を揺らす。私は合わせていた手を下ろして、呆然と立ち尽くした。
眼鏡を掛けた細い人影が脳裏に浮かんだ。
ずっと東さんを想っていたいのに───
心は変わるものなのですか。
墓石に刻まれた文字が滲んで見えた。私は身じろぎも出来ずに、ただ、涙を堪えた。
東さん。東さん。
東さん。
辛く悲しい時、神様のように呼んでしまう名前。
忘れるのが怖かった。東さんはもういない。だからせめて、忘れずにいようとそう思っていた。───なのに……
心が変わってゆく。『東に頼まれた』と側にいる伊野さんも。医師を目指していたラジオが違う道を選んだ事も。和泉さんと一夜を過ごした事も。髪を切った私も。みんな、変わってゆく。
今もそう、隣に誰かいるような気配を感じるのは───それを望んでいるからだ。
ごめんなさい。あの人に会いたい……
両手で顔を覆った。
冷たい風になぶられて、涙が温かかった。
≪もし海音がうさぎになったら、おいで≫
約束通り、ここへ来ました。
だけどこんな気持ちになる日が来るなんて、思っていなかった。
足の力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。覆った顔を上げられない。東さんに見られたら……彼は何て言うだろう。
私を軽蔑しますか…?
返事がないから、私は声もなく泣き続けていた。