程なくして、高瀬さんが姿を現した。昨日と変わらないラフなスタイルで、違うのは大きなバッグを肩から提げていることだった。先程電話した時に、彼は今にも大阪に帰ろうとしていたのが窺えた。
 挨拶もなく、無言の時が過ぎる。カウンター内に入ったラジオが、ようやく「お掛けください」とお冷やをカウンターに置いた。私の席の隣を一つ空けて、高瀬さんがその言葉に従った。ラジオはポットを火にかけながら、「悪いけど、今日は二人とも遠山ブレンドね」と言って微かな笑みを浮かべた。手回しのコーヒーミルではなく、背後の豆挽き機を使って手早くコーヒーを淹れる。その様子を高瀬さんは黙って見ていた。やがて三人分のコーヒーを淹れて、最初に高瀬さんの前に『遠山ブレンド』を置きながら、ラジオが口火を切った。
「単刀直入に伺います。『ミオさん』という女性に心当たりはありますか」
「………」
 彼がどう答えようと逡巡しているのが、私にも見て取れた。ラジオは「ここにいるのも『ミオさん』ですが」と伏し目がちに微笑んだ。私を振り向く高瀬さんに「石崎海音です」と頭を軽く下げた。彼は「…ああ、そうでしたか」と答えた。
「そう仰るのなら、心当たりがあると思っていいんですね?」
 ラジオの一言に彼はまた言葉を失ったようだった。ラジオはいつも遠山さんが腰掛ける折りたたみ椅子を起こして座った。
「先程、『ミオさん』にお会いしましたよ」
「………」
「いや、正確には『ミオ』という名前ではないか、と思われる女性です」
「……なぜそう思われるんですか」
「僕がこちらのミオさんに話しかけたら、ちょうど反対の横に居た彼女も振り返ったからです。……心当たりは?」
「…さあ」と高瀬さんは誰とも目を合わせないようにしていた。
「嘘が下手ですね」
 ラジオはクスと小さく笑った。
「もっとも、僕はそんなところが本来の高瀬さんだと思いますが」
 そう言われて、高瀬さんは眉をひそめた。ラジオがそれを見て「お気を悪くしたなら謝ります。ただ、どこで彼女に会ったか、ミオさんがあなたに伝えたいと」
「………」
「彼女がそこに居たから、お呼び立てしたんです」
「…どこ、ですか」高瀬さんの声が掠れた。私が答えなければならないだろう───
「高瀬さん、あなたの『記憶の地平』の前です」
 彼は深い溜息を吐き出して、うなだれた。
「彼女はここにいる彼……仁史君に向かって『高瀬さんですか』と尋ねました。まるであなたを探していたかのように……なぜ、彼女はあなたの顔も、名前も覚えていないんですか?ネームプレートを見て、『まさみ』ではなく『まさおみ』と読みました。なぜ───」
「あなたには関係のないことです」
「関係ならありますよ」とラジオが答えを引き継いだ。「彼女は僕に今にもすがりつきそうにしていました。名前も顔も思い出せず、僕と間違えるほど、彼女は必死でした」
 私は先程の思いを高瀬さんにぶつけてみた───「彼女はあなたを探してるんです。その気持ちに応えてあげることは出来ませんか」
 そしてラジオが一言、付け加えるように言った。
「彼女は失った記憶に気付いてあなたを探しているんです」
「………」
「応えて、あげられませんか」
 ラジオの声も掠れていた。高瀬さんの発する悲しみの波動は、私をも揺さぶっていた。ラジオなら痛いほど感じているだろう。私たちは彼の答えを待った。
 すると彼は、思いがけない行動を取った。
 シュガーポットの蓋を開け、左の手のひらにわずかに砂糖を取ると、右手の人差し指に砂糖を付けて、舐めた。
 ───ラジのおじいさんのおまじない───
 沈黙していた彼は天井を仰いで、小声で歌い始めた。
 すると───
 白い薔薇が一輪、天井からゆっくりと───まるでスローモーションのようにゆっくりと落ちて来た。上を見上げると、天井からふわりと突然現れた薔薇が、次々と落ちて来る……白、紅、ピンク、イエロー……色とりどりの薔薇がゆるゆると回りながら落ちて来るのだった。
 何の歌だろう。かすかな声の英語で判らない。ただ、最後に繰り返した「Some fantastic place, some fantastic place...」というフレーズだけ、聴き取れた。
 歌い終えると薔薇の雨はやんだ。床に薔薇を敷き詰めたように、六角屋は景色を変えた。
「彼女は───」と高瀬さんが天井を見上げたまま言った。
「どこかで幸せでいてくれればいい」
 そう、話を締めくくった。「でもそれじゃ彼女の気持ちは…」と言いかけた私を横目で見て「僕が悪いんです」と言って目を閉じた。そう言われてしまうと、返す言葉がなかった。ふ、と溜息とともに目を開けた高瀬さんが席を立った。
「薔薇か…こんなものが降って来るとは思わなかった」と悲しげに床に散らばった薔薇を見て、「これが僕に出来る、彼女に応えることです」
 そろそろ列車の時間なので、と彼は頭を下げ……下げたまま、しばらく動かなかった。ゆっくりと身体を起こして、彼は絵の廊下へと出て行き、店を去った。
「『Some Fantastic Place』か……」とラジオが薔薇を見つめて呟くように言った。
「ミオさん、さっきの歌はね、亡くなった恋人の為に作った歌と言われているんだ。二度と逢えない人に、どこか夢のような場所で幸せでいて欲しい、と」
「……だって……」
 私はまた涙が目の中に膨らんでいくのを感じながら、言葉を吐き出した。
「生きてるじゃない。逢おうと思えば逢えるじゃない……生きてるんだから……」
 ───東さん。
これ以上はもう、何も言えなかった。私はカウンターに額を付けて、涙をこらえた。




 その後は……この大量の薔薇をどうしよう、ということになって、遠山さんとも相談して店内のいたるところに薔薇を飾り、残りはラジオと分けて持ち帰った。抱えるほどもあった薔薇は今、枯れつつある。パソコンデスクや枕元に飾った薔薇。高瀬さんは「これが彼女に応えること」と言った。花を贈りたかったのだろう……せめてもの優しさの表現かもしれなかった。知らず口をついて出た「ごめんね」。私は薔薇に謝った。本当なら、彼女───もう一人の『ミオ』に贈られる筈だったのに……
 そういえばあれからラジオと連絡を取っていない。連休も終わって、また忙しいのかもしれない。私は久しぶりに、ラジオが利用しているコミュニティサイトに繋いだ。なんとなく、ラジオの部屋を訪ねる。ピンポンと入室する音と共に現れた部屋には、二人いた。ラジオと和泉さんだ。
 『rhythmi : こんばんは』
 ───和泉さんと話していたのか。どきっとした。

  海音:こんばんは
  ラジオ:今、ちょうど薔薇の話をしてました
  海音:薔薇?
  ラジオ:六角屋で降って来たやつ

 今もまざまざと目に浮かぶ。天井からゆっくり降りて来た色とりどりの薔薇。高瀬さんが見せた、もう一人の『ミオ』さんへの愛情。

  ラジオ:あれは僕の仮説、つまり彼女がいろんな物を吐いたことの仕組みを
  ラジオ:証明するんじゃないかって思う
  rhythmi:確かに、僕が思った、喉の奥で物を作って吐くより
  rhythmi:喉に何かを呼び寄せてそれを吐く方が現実的だよね
  rhythmi:それ自体非現実的だけど

 少しの間があって、和泉さんはこう続けた。

  rhythmi:三日前に実際に彼女が空間を飛び越えて僕の部屋に来た
  rhythmi:彼女が自覚なしに僕の前に何度か現れた事はラジオ君には話したけど
  rhythmi:今度は電話中に彼女が落ちそうになって
  rhythmi:咄嗟に『来い』と呼んだ
  rhythmi:すると僕の前にふわっと現れた

 人ひとりを動かすほどの力で空間が歪んだという事か───
 自分でも驚くほど冷静に受け止めていた。非現実的な事実。あの薔薇が降ったのは、この話に当てはめると、薔薇がどこかから移動して来た、という事になる。その経験があるから受け入れられるのかもしれなかった。

  ラジオ:それで、彼女にはどう話したんですか?
  rhythmi:彼女が不安を感じると空間が歪む事、それを理解していれば
  rhythmi:もう落ちない、と強く言い聞かせたよ
  ラジオ:なるほど
  rhythmi:これまでの経緯から考えても、自覚さえすれば
  rhythmi:症状は治っていたからね
  ラジオ:和泉さん
  rhythmi:はい
  ラジオ:彼女の側には居てあげられないんですか

 ───沈黙。私もラジオも、彼の言葉を待った。

  rhythmi:いずれは東京に戻りたいと思ってる
  rhythmi:でもその前に、片付けたい事があってね
  rhythmi:今の職を失うかもしれない
  ラジオ:どうして?
  rhythmi:それは秘密。笑
  ラジオ:海音さん生きてる?
  rhythmi:海音さん大丈夫?

 二人に同時に訊かれて、「はい、大丈夫」と答えた。和泉さんには話を逸らすのに呼ばれたのかな、と思った。でも何を言えばいいのだろう。

  ラジオ:海音さんには薔薇の目撃者として居てもらったけど
  ラジオ:空間移動のタネがわかったよね
  海音:うん
  ラジオ:つまりあの時の薔薇を集めるのに
  ラジオ:どこかのバラ園や花屋の薔薇がごっそり消えたって事だね
  海音:やっぱり?
  ラジオ:うん

 つまり高瀬さんには、空間を曲げる能力があるという事だ───
 それを和泉さんの前で言って良いものか悩んで、また黙る事にした。

  ラジオ:和泉さん
  ラジオ:このように、不思議と思える事も、理解できる
  ラジオ:彼女に必要なのはそういう理解者じゃないかな
  rhythmi:…うん
  rhythmi:でもそれは根本的な解決にはならない
  海音:どうして?
  rhythmi:彼女の不安を取り除く事が出来るのは、
  rhythmi:トモのように、ずっと彼女の側に居られる人だよ
  ラジオ:和泉さんは違うんですか?
  rhythmi:うん

 そんな筈はない……。和泉さんと初めて六角屋で会った時に感じたのは、確かに彼女への愛情だった。それを否定する理由を考えてみたがわからなかった。今は大阪にいるから?───それだけではない含みを私は感じ取った。

  rhythmi:また何かあったら相談するかもしれない
  rhythmi:その時はよろしくお願いします
  rhythmi:じゃあ、これで

 そう言って和泉さんは退室してしまった。
 まるで高瀬さんのようだ………
 二人とも、『彼女』への想いを否定する。
 回線越しにも伝わるほど、『彼女』を想っているのに───ラジオならきっと感じているだろう。和泉さんの本心を。聞いてみたいと思った時、ラジオは「僕もこれで。ミオさん、おやすみなさい」と話を締めくくってアバターの手を振った。成り行き上、私も「またね」と手を振って退室した。
 ───この時のラジオの思いは、後に知る事になる。だがこの時は、私は自分の胸の痛みだけで一杯だった。




 そして、薔薇は枯れた。それを捨てる時、またチクリと胸が痛んだ。
 誰かに聞いて欲しい……この痛みを。私一人で抱えるには重い出来事だった。知らず吐いたため息を、伊野さんは聞き逃さなかった。
 クリスマス特集号の発送も終わって、遅れた完成打ち上げの後の帰り道だった。いつもなら車の伊野さんも、今夜は電車で帰る。あれだけ飲んでケロリとしていると思っていたら、ボソッと小声で言われた。
「何かあったか」
「え?」
「最近、暗いぞおまえ」
 出来るだけ普通にしていたつもりだったが、伊野さんにはお見通しらしかった。ラジオみたいだな、と思って苦笑いした。
「伊野さん、もし誰か好きな人がいてさ…」
「え?」
「それでも離れなきゃいけないって思うのって、どんな時?」
「ふむ」と言う伊野さんを横目で見ると、視線を外された。いつもの癖で右手で首の後ろを撫でて「そうだな」と言う。あ、酔ってないな…とぼんやり思った。
「俺と居ると相手が不幸になると思った時」
「………」
「仁史と何かあったのか」
「え?」驚いて訊き返した。
「仁史君とは何もないよ?」
 そう言いながら、思い出していた。
 ≪僕が、一番大切な人の前から姿を消さなきゃいけなくなったら───≫
「じゃあ他の奴か?」
「え?いないいない、そんな人」
 手を小さく振って答えた。おかしくもないけど笑う。それを見てか、伊野さんは「そうか」と言ってフ、と笑った。
「何かあったら言えよ」
「うん。…ありがと」
 ちょうど駅に着いて、「お疲れ様でした」とお辞儀し合う。
「またな」
「おう」
 拳と拳をごつん、とぶつけて、笑っているのに、涙が出そうになった。気づかれないよう、すぐに背を向けて改札を抜けた。