───こうなる宿命だったのか。
 およそ二週間後、私は新幹線に乗っていた。ぱくんと欠伸を呑み込み、バッグから自宅近くのコンビニの袋を取り出す。朝から駅弁なんて食べられない。「はい」と、おにぎりの詰まった袋を真ん中に置いた。
 真ん中。
 周りから次々と手が伸びる。若者達は食欲旺盛だ。
 若者達。
 奴らは少年探偵団。───と、遠山さんは言った。
 車内の通路を通る人が皆、私達を振り返ってゆく。お気持ちはわかります。
 進行方向を向いて通路側に山崎君。白Tシャツの首に鮫の歯の革紐ペンダント、ぴったりしたフェイクレザーのパンツは脚を組むと七色に妖しく光る。いったい何キロあるのかというごついブーツが正面の空席にぶつかっている。
 その隣、真ん中の席に野宮柾君。ワッペンのたくさん付いた半袖のアーミーシャツを黒の長袖の上に着て、迷彩柄のカーゴパンツを履いている。肘掛けから出した台におにぎりを載せ、皆が取りやすいように気配り。
 窓際の席に空木梢子さん。真っ赤に染めたベリーショートの髪に黒い瞳がよく映える。東南アジア調のすとんとしたむら染めワンピース。紫色と草色の重ね着が鮮やか。膝に載せた四角い籐カゴのショルダーバッグも可愛らしい。
 梢子さんの正面に私。七十年代風の幾何学プリントシャツとヒップハングのジーンズ。若作りなのは自覚済み。
 そして私の隣で車内販売のジュースを買っているのがラジオ。この前と同じGジャン、AIMの写真と同じ白いシャツとジーンズ。いたってシンプルなスタイルだが、それでも彼が目立つことは既に何度も述べている。
 待ち合わせ場所に現れた山崎君はミラーのサングラスまで掛けていて、それを見たラジオがにっこりと言った。
「半魚人?」
 野宮君と梢子さんと山崎君。探検家と現地人と異生物の遭遇、と言われてみればそう見える。お腹を抱えて笑った。───かくて、少年探偵団改め人外魔境探検隊は、一路大阪を目指していた。
「じゃあ、梢子さんも見たことがないの?」
「モデルをする時以外は父のアトリエに入らなかったから」
「楽しみだね」
「うん」
 野宮君と梢子さんは顔を見合わせてにっこりした。おにぎりを食べ終えた山崎君は長い脚を持て余してシートに凭れ、眉を寄せて目を閉じた。ラジオは手を付けたものの食が進まないらしく、無言でもそもそと食べている。
 ───彼らは少年探偵団。それぞれに、空木秀二の魅力と謎に取り憑かれている。
 『宿命』を見に行こうと言い出したのは野宮君だった。彼は先頃、大学を卒業した。ラジオは未だ学生の身。永久に学生なんじゃないかという気がする。高畠先生はT美大教授、助手の山崎君も春休み。行くなら今しかない、と野宮君は二人を誘ったのだった。しかし。
 私まで一緒に行くことになるとは。
 守屋画廊で『宿命』の存在を知った私はその日のうちに、以前ラジオに教えてもらったコミュニティサイトのサークル掲示板と日記で次のように発言した。

 大阪のギャラリー櫂に空木秀二の『宿命』があると聞きました。
 銀座の守屋画廊で展示後わずか三時間で売れた程の傑作とか。
 昨年の「空木秀二の世界」にも出展されておらず、
 画集にも載っていません。
 転売されて行方知れずになっていたという幻の一枚です。
 ご覧になったことのある方はいらっしゃいませんか?

 特に絵画が好きという人が集まっている訳ではないサークルだ。空木の名も美術愛好家ならば知っていても、世間一般に広く知れ渡っているわけではない。わかっていたが、念のため。それに、ラジオに伝えるというつもりもあった。体調が悪いところへ電話やメールをするのは気が引けた。私はその他にもウェブを探し回ってようやく見つけた美術愛好家の掲示板にも同様の書き込みをした。
 見事に反響はなかった。
 やっぱり、と思ったところへ───日記の記事にコメントが寄せられていた。

 ギャラリー櫂の近くを通りかかったので覗いてみましたが
 空木秀二の絵はありませんでした。
 尋ねたところ、今月下旬に行う展示に出るそうです。
 その時に見てみます。

 rhythmi

 意外だった。
 ≪rhythmi≫───和泉諒介さんという人は職業柄(システムエンジニアだったか)絵などには興味がなさそうだとこれまた勝手に思い込んでいたのだ。あるいは………ラジオのためかもしれなかった。彼は東京を訪れた折にもラジオと会って相談を持ちかけている。
 いずれにせよ、この書き込みがきっかけで、私は今こうして大阪に向かっているのである。つまり、サークル掲示板を見たラジオから野宮君達に『宿命』の存在が知らされ、卒業旅行と銘打ったこの旅に、「ミオさんの都合に合わせるから」と、さも当然のように彼らは話を進め、私は慌てて休暇を取ったという次第だ。無論、私も『宿命』を見てみたかったのだが───
「今のところ、櫂にあるのは『宿命』一枚ですか」
 野宮君が空いたおにぎりの包みを集めて袋に詰めながら言った。私は「うん。多分」と答えた。昨年の『空木秀二の世界』の展示作品を集めるにあたって、所蔵リストが再編されている。行方が知れない作品は他にもあるが、逆に言えば櫂も見つけていないということになる。山崎君がぼそりと「気に入らねーな」と溜息を吐いた。
「それで躍起になって空木の絵を集めようってのはどうよ」
「うん。憶測だけど……櫂の狙いは規模の拡大じゃないかな」
「どういうこと?」と私は訊ねた。腹立たしげに頷く山崎君とは対照的に、野宮君は淡々としている。
「美術品や骨董が売れに売れた財テクブームなんて時代があったでしょう。『宿命』を手に入れたことで空木を気に入った櫂がコレクションを思い立ったとして、空木が登山を趣味としていたことから高原リゾート地に美術館でも建てれば収入も得られる。とはいえ美術館の経営はとても困難だし莫大な費用がかかる。守屋さんと共同出資の方が絶対に楽なんだけど、櫂には顧客が居るって言ってましたね。空木の作品は今後価値が見直され人気が上がることが予想されるし、今ならまだお買い得。守屋さんを出し抜くなら今がチャンスってわけ」
「はあ」と感嘆した。櫂は守屋画廊をライバル視してるってことか。
「今回のお披露目もそれが狙いかな。空木の絵に高値が付くとわかれば手放す気になる人も出てくる」
「そういうものなの?価値があるなら持ってた方がいいんじゃないの?」
「持ってるだけなら使い道ありませんから、絵は。交渉次第で言い値で売れる」
「はあ…」
「先見の明がある、とも言えるけど」
「敵を褒めてどーすんだよ」
「いつ敵になったんだよ」
「四月からおまえは双月堂の社員だろう」
「おっと忘れてた」
 フフンと二人は笑った。
「双月堂でもそういう話はあるの?」
「いいえ。うちは画材が主力商品だし店舗数もあるから、亡くなった画家ならもっと有名な作家で古い物、印刷で出せるような…ね、それか現役の若手作家の作品を各店に回した方がよっぽど儲かるんです」
「なるほど」
 黙って話を聞いていたラジオが立ち上がって、棚に載せた鞄から帽子を出した。「昨夜は眠れなかったから、ちょっと寝るね」と座席に斜めに凭れ、帽子で顔を隠した。野宮君も立ち上がって鞄を探る。大阪のガイドブックを取って座ると「どこ見ようか」と開いた。卒業旅行であるから、見るのは『宿命』だけではない。その後は別行動の予定。打ち合わせの時には一緒に見て回ろうと話したそうだが、邪魔者三匹はさっさと消える。これは内緒の計画だ。ページをめくってはあれこれと相談するほのぼのカップルが微笑ましい。私もラジオも大阪は初めてだが、高畠先生と二度訪れているという山崎君と一緒だから大丈夫だろう。
 車窓の景色が私の背中の方から前へと流れてゆく。───近づいて来る。
 やがて『宿命』が私達の前に姿を現す。




 新大阪駅で乗り換えてたどり着いたのは、ビルの立ち並ぶビジネス街。旅行で訪れるには味気ない風景だが、原色だの賑やかだの、勝手に抱いていた『大阪』のイメージを払拭するしゃれた雰囲気。守屋さんに教えてもらった住所を頼りに歩いた。
 歩道に立て看板が出ていた。『ギャラリー櫂』。
 皆が足を止めた。ウインドウのガラス越しに、絵の並ぶ壁が見える。その中で一枚の青い絵が目を引いた。あれだ、とすぐにわかった───皆がその絵を見ている。野宮君がドアを開いた。誰も何も言わないまま中に入り、その絵に吸い寄せられるように、他の絵には目もくれずに進む。梢子さんが絵の正面に立った。やや後ろから、絵と彼女を囲むように彼らは立ち、私は端に並んだ。
 青白い裸体───
 その骨格は男性のものだ。と言うのは………後ろ姿であり、頭部が描かれていない。両腕を横に大きく広げ、両脚は真っ直ぐ伸ばし、そこだけ血に濡れたように赤い足の裏を見せている。
 水に飛び込む背中。
 激しく上がった水飛沫が彼の頭を隠している。肩に腕にかかって飛び散る飛沫は、まるで翼を広げているようだ。
 森岡さんのバンジージャンプの写真みたいだ………ふとそう思った。
 大きく揺れて波立つ水面は空を映して、彼は空に飛び込んでいるかに見える。
 どこまでも深い───濃紺の夜空に。
 黒い雲が薄くかかるその隙間に覗く星々。
 長い沈黙を経て、最初に声を発したのは野宮君だった。
「『水からの飛翔』と対になるんだな…」
「うん」と山崎君がプレートを指差した。『空木秀二/宿命 2018年』とあった。「同じ年だ」
「……梢子さん」
 掠れた声に、皆がラジオを振り返った。『宿命』を見つめていた彼はゆっくりと彼女に目を向けた。そうして………悲しげに目を伏せ、頭を垂れた。
「……ごめんなさい。ひどいことを言った……」
 何のことかわからなかった。梢子さんは「ううん」と首を横に振り、何か言おうとした。その時、奧から出てきた人が私達に気づいて「いらっしゃいませ」と覚えのある声で言った。
 出た。大阪商人。
 高瀬真臣。彼は私達を覚えていたらしく「おや」と言ってくすっと笑った。私は「もうかりまっか」と言いたいのをぐっと堪えた。
「わざわざここまでお見えになるとは、余程お好きなんですね」
 彼は私達に歩み寄り、『宿命』に目を遣った。
「空木秀二は神秘的な画家ですね。これは彼の作品の中でも数少ない、男性を描いたものですが……それらは皆、主題から見ても自身を描いている。亡くなる前年に描いた作品が『宿命』とはまるで……」
 ふいに彼は真顔になった。
「彼は未来を予見していたようじゃありませんか」
 ───何?
 空気がピンと張り詰めたのがわかった。私はその緊張を打ち破られずにはいられなかった───無意識に一歩前に出て、右手を振り上げた。パン、と乾いた音に、堪えていた言葉を吐き出した。
「……無神経な人ね!」
 頬を打たれた高瀬氏は驚きの表情で私を見た。───自分が何を言ったかわかっていないのか。そうかもしれない、彼はそこにいる梢子さんが空木秀二の娘だと知らず、ただ空木が神秘的な人だと言いたかっただけなのかもしれない。でも───
 私はいたたまれずに外へ飛び出した。「ミオさん」と山崎君が追ってきた。振り返るとウインドウの向こうに、野宮君が梢子さんの肩を抱いてドアに向かって来るのが見えた。ラジオは───
 『宿命』の前で高瀬氏と向き合っていた。
 やがてラジオは俯き加減に早足で歩いて出て来た。とにかく櫂から離れたかった。十メートル程歩いて交差点で立ち止まる。山崎君は溜息を一つ吐いて「どうする?」と皆を見回した。誰も何も言わない。彼はあっさりと言った。
「じゃ、ここで解散にしよう」
「…ああ、そうだね…」
 ラジオがふっと笑った。………そうか、そういう予定だった。少なくともこの二人との打ち合わせでは。
「先に宿に入って休んでいてもいいしね」と私。男性三人は「ここから自由行動ってことで」と目と目を合わせて頷き合った。高瀬氏の言葉に傷ついた梢子さんには休息が必要だ。野宮君と二人でゆっくり話をするのが良いだろう。二人を残して駅の方へと歩き出した。
 うなだれた梢子さんを見ていたら、腑が煮えくり返るような気持ちも萎えてしまった。あとはただ、嫌な気分だけが残る。三人とも無言で歩いた。駅に着いてようやくラジオが「どこへ行く?」と訊ねた。
「あ、俺、こっちの友達と会うことにしてるから」
「えっ!山崎君が案内してくれるんじゃないの?」
「俺、そんなこと言った?」
「…言ってない」
「うん。それに逢坂も人と会うって言ったから、そんじゃ俺もそうしようかと思って約束しちゃった」
「まだ時間あるよ」とラジオが言うと、「俺にはない」と非情な答え。「宿の場所わかるよな?わかんない時は俺の携帯に電話くれりゃいいから。じゃ、」と慌ただしく切符を買って、彼はさっさと改札の向こうへ行ってしまった。
 ───もしやこれは。
 ラジオが溜息混じりに苦笑した。
「何か気を遣ってくれたみたいだね」
「…私が怒ったから?」
「ううん。友達と約束してるなら、最初からそのつもりでしょう」
「最初からそのつもりで気を遣うのか。山崎君…。それは誤解だあ…」
「うん」
「アテにしてたのにー…」
「困ったね…」
 呆然と改札口を見ていた。私達は大阪のことなど、まさしく右も左もわからないのである。




 とりあえず近くの書店でガイドブックを手に入れて、ハンバーガーショップで軽い昼食。食い倒れの街まで来て普段と変わらない食事も味気ない。私は本のページを読むでもなく繰りながら、先刻の疑問を口にした。
「梢子さんに……ひどいことって、何を言ったの?」
「………」
 ラジオはつまんだフライドポテトを口に入れようとしていたのを止め、伏し目がちに答えた。
「初めて『左回りのリトル』を見せてもらった時に、螺旋が与える効果として鑑賞者に予感させるのは『絶望』だと言ったんだ」
 ───絶望。
 空木が亡くなる直前まで描いていたという事実上最後の作品。それが………
「でも話したよね。螺旋階段を駆ける少女をいくつも描くことで繰り返しを暗示していること」
と彼は両手でボールを持つように球を形作って、指先を軽く重ねた。
「繰り返しは果てない試みであって、絶望と希望は抱き合わさっている。僕はあの絵に、空木秀二の優しさと梢子さんへの愛情を感じていた」
「うん」
「でも」
 彼は組んだ両手に額を寄せて目を閉じた。
「僕は『宿命』には絶望しか感じられない」
「………」
「『水からの飛翔』と対になるなら、あれは墜ちている」
 墜落───

 ≪彼は未来を予見していたようじゃありませんか≫

「ラジは…あの人の言う通りだと思うの?」
「そうじゃない」
 両手に額を付けたまま、彼は首を横に振ってもう一度言った。
「そうじゃない……」
 ゆっくりとまぶたを開いたラジオの目は潤んで、店内の明かりをいくつも映して瞬いていた。空木秀二によく似た目。彼は力なく再び目を閉じた。長い睫毛からかすかな光がこぼれ落ちたように見えたのは私の気のせいかもしれない。