その後、共鳴らしき出来事は起こらなかったが、ラジオのくれた薬(グラニュ糖)を一包、財布に入れて持ち歩いていた。
 ───誰かの心の声が聞こえてしまうのは何て怖いことだろう。
 一日二日のうちは電車に乗るたびに不安になった。そうして人混みから離れるとほっと胸を撫で下ろす。三日目には、おまじないが効いているのかもしれないと思えてきた。
 聴覚を制御し、あの時に同じ声を聞いたラジオのおまじないだからこそ効くのだ。彼のお医者さんごっこの意図がわかって、なあんだ、と笑えた。鰯の頭も信心から。私の不安を取り除くために彼は薬を処方したのである。
 木曜日に六角屋に寄って、その後共鳴は起きていないとラジオに言おうと思ったが、行きづらくて真っ直ぐ帰宅した。私がいると、若葉ちゃんが彼と話せないだろう。メールで済まそうと思った。ゆっくりお風呂に浸かりのんびりとテレビを見て過ごし、深夜になってからインターネットに接続した。歌番組で見た女性歌手の新曲が気に入った。公式サイトで他の曲を試聴などしてから、ラジオに教えられた例のコミュニティサイトにも久しぶりに繋いでみた。いるかな、とラジオの部屋を訪ねたが、留守だった。
 ラジオ宛に『おまじない効いてるよ。サンキュ』とスマホからメッセージを送った。程なく『良かった。またあったらちゃんと話してください』と返事が届いた。
 ラジオから誘われたサークルに入会申請しておいたのが承認されていた。カフェに誰も居なかったので、フリートークの掲示板をしばらく読んでいた。
 気づくと三十分ほど経っており、カフェに誰かがいるのが判った。カフェに入室する際に書き込む掲示板に、ラジオとrhythmiさんが「インします」と書き込んでいた。カフェに居るのは二人だと、外から判る。
 rhythmi氏との会話なら私にはついていけそうもない。『おやすみ』と送ろうとした時、スマホがポンと鳴ってメッセが届いた。
 『チャットのお誘いです。サークルカフェにいます。 ラジオ』
 躊躇したが、思い切ってインしてみた。

  海音: こんばんは
  rhythmi: こんばんは
  ラジオ:こんばんは

 二人はテーブルを挟んで椅子に腰掛けている。私はラジオの隣の椅子をクリックした。アバターが椅子に座った。

  ラジオ: 六角屋で会った和泉さんを覚えていますか>海音
  ラジオ: 彼です
  ラジオ: お正月はtomohさんも居たから紹介出来なかったけど
  rhythmi: 正月はどうも>海音

 和泉さんだったのか───キーボードの上で両手が浮いた。『正月』の言葉が突き刺さる。耳を押さえてこちらを見ていた鋭い目を思い出した。『rhythmi: あの時はお邪魔してすみませんでした』と続いて、チャットのことだと気がついた。ようやく『こちらこそ』と答えた。

  海音: 何の話をしてたの?
  rhythmi: 例の話です
  海音: 彼女の具合はどうですか(具合って変な言い方ですが)
  海音: 無理に答えなくてもいいです>和泉さん
  ラジオ: 海音さんが具合と言うのは僕が彼女を精神病患者と捉えているからです
  rhythmi: うん
  ラジオ: 気を悪くしないでください
  rhythmi: ご心配をおかけしたようですね>海音
  ラジオ: 超常現象に気を取られてしまいがちですが
  ラジオ: 原因である病状への適切な処置があれば治ると思っています
  rhythmi: 僕は彼女の体質と捉えていたけど、最近の彼女の様子では病と思う
  海音: ラジオが診てあげられないの?
  ラジオ: 治療にあたっては精神科に限らず、患者と医師の信頼関係が必要なんだ
  ラジオ: 和泉さんが咄嗟の判断で行った暗示と説得が功を奏しているのは
  ラジオ: 彼女がそれだけ和泉さんを信頼しているから
  rhythmi: 暗示のつもりはなかったんですが…
  ラジオ: 薬物治療を加えれば更に効果が期待できるけれど
  ラジオ: 彼女が人に知られることを恐れているため逆効果になる可能性もある
  ラジオ: つもりもなく咄嗟に暗示をかけるんだからすごいですよw
  rhythmi: ラジオ君に言われると恐縮です。素人なのに(汗)
  ラジオ: 今のところ、彼女にとって和泉さん以上の名医はいないってこと
  rhythmi: うわああああ
  ラジオ: どうしました
  海音: 大丈夫ですか?
  rhythmi: いや、恥ずかしくて倒れそう

 ───ははは。
 頬杖を突いて画面の文字を見た。ラジオはからかっているのではなく本心から『名医』と言っているのだが(だからなのかもしれないが)、恥ずかしがる和泉さんは普通のシャイな男性だ。だが………
 六角屋で初めて会った時の穏やかな顔の奧に見え隠れする冷徹さと激しさ。そして湯島で出会った時の険しさ。───怖い、その印象を拭うことが出来ない。

  ラジオ: 先程の話の続きですが
  ラジオ: 海音さんにいてもらいたいのですが構いませんか>rhythmi
  rhythmi: その方が良いのですか
  ラジオ: はい
  rhythmi: 構いません
  ラジオ: ありがとうございます

 何だろう。どきどきする───

 ≪いて、ミオさん≫

 ラジオはまた───倒れた時の青ざめた顔を思い出した。

  ラジオ: この前、僕が話した事について、でしたね
  rhythmi: 前に「無理な力で物をひっぱれば空間も無理に形を変える」と
  ラジオ: はい。言いました
  rhythmi: それを見た

 呆然とした。『ラジオ: そうですか』───ラジオは冷静だ。
 和泉さんはその時のことを話した。目の前で空間が歪み、そこへ彼女が落ちそうになった───と。

  ラジオ: 正月に彼女が「自分を自分と思わずに髪を切った」ことについて
  ラジオ: 和泉さんには離人症状を説明しましたが
  ラジオ: 自分の行動や感情に現実感がなくなること>海音
  ラジオ: (自分のことと思えないわけです)
  ラジオ: 今回と前回つまり昨年の春の「いろいろ吐いた」ケースでは
  ラジオ: 彼女はそれを現実と認識している
  ラジオ: 不安、恐怖、強迫を現実と実感しているからこそ
  ラジオ: 空間を曲げる程の強い力を発揮しているのかもしれません

 発言が止まった。沈黙。ややあって、一行増えた。

  ラジオ: 正月の離人症状を彼女に何と言って理解させましたか
  rhythmi: 君に電話をした後、彼女の部屋へ行って、同じことが起きたので
  rhythmi: 彼女が自分と思っていない人(離れた方)と
  ラジオ: 正確にお願いします
  rhythmi: 現実感を失っている彼女の両方ともが彼女であると
  rhythmi: 正確に?えーっとね…
  rhythmi: いつもぼーっとして怖がりですぐ泣く君も君
  rhythmi: いや、僕は君が本物の君だと思っている…だったかな
  rhythmi: だから自分を切り離してしまわないでと言った

 ───君が本物の君………
 あの時に聞こえたのはこれだったんだ………

  rhythmi: ああ、何を言っているのでしょう>自分
  ラジオ: ところで正月に彼女の部屋へ行ったということは東京の方ですよね
  ラジオ: 和泉さん可愛いw
  rhythmi: そうです<東京
  rhythmi: 誤解しないで(汗)
  ラジオ: 今回のことはどこで?
  rhythmi: 彼女の部屋です
  ラジオ: 今、大阪ですよね
  rhythmi: うん
  ラジオ: 東京に来てたなら電話くれればいいのに。いつ来てたの?
  rhythmi: 出張だったから。土曜まで
  ラジオ: 彼女からチョコ貰った?
  rhythmi: 肉まん貰った

 何じゃそら。

  ラジオ: 海音さんからチョコ貰いました(勝利宣言)
  海音: 何の勝利ですか>殿
  rhythmi: いいな。肉まんだけでチョコ一個も貰えなかった(負け)
  ラジオ: あ、良かった生きてた>海音
  rhythmi: 殿って何ですか>海音
  海音: 殿、あれはほんのご挨拶代わりと申し上げたでせう
  rhythmi: ほんのご挨拶代わりに肉まんを貰った私は一体(しかも代官)
  ラジオ: 代官w
  海音: 代官w

 ───結構話しやすい人なんだ。
 以前会った時の用件を考えれば、なかなか打ち解けた顔を見せなくて当然なのだ。認識を改めよう。
 和泉さんは『今日はありがとう。またいろいろと教えてください』と退室していった。私は、ほっと肩の力を抜いた。それを潮に私達は『また六角屋で』と話を終えた。




 一週間が過ぎた。暖かな日が数日続いた後の急な冷え込み。けれど春は確かに近づいている。空気は湿り気を帯び、雨は草木を目覚めさせる。木曜日、午後に降り出した雨はまもなく雪になった。
 定時に仕事を終える頃には、窓から見下ろす屋根に真っ白な雪が積もり、濡れた道路が描く黒い線と人々の差す傘の色も降り続く雪に掠れてしまう。
 それでも六角屋へと足を向けたのは───雪のせいかもしれない。
 こんな天気だからか、六角屋の入口に看板が出ていなかった。階段の下がやけに暗く見えた。絵の廊下に明かりが点いていない───こんなことは初めてだ。ドアのはめ込みガラスに額を付けて覗くと、廊下の先にわずかに明かりがあるのが見えた。店には明かりが点いているらしい。壊れたドアノブを掴んでゆっくり引くと、ドアは静かに開いた。
「まっくら……。遠山さん、いるの?……ラジ?」
 絵の掛けられていない左の壁を伝って廊下を進む。開け放された奧のドアに手を伸ばして触れる。やっと着いた、そんな気がした。そして私は戸口から店内を見て息を呑んだ。
 巨大な雪の結晶───中央の赤い星。回転する星の弧。
 その周囲に広がる闇。
 私は一歩踏み出して、足元に何もないような気がして転びそうになった。
「きゃ、」
 目の前を黒いものが動いた───ふわっと流れた柑橘の香り。
「何やってるの」
 くすっと笑う声。前にのめった私を受け止めた手を離して、ラジオは「ちょっと待ってね」と闇の中を動いた。パチンとスイッチの音。廊下とカウンターの中に明かりが点って、私は目を瞬いた。
「ラジこそ、何やってたのよ」
「『北天』を見てたんだよ」
 彼は微笑でコーヒーの用意を始めた。葡萄のカップ。私はコートを脱いで席に着いた。前に見たのとは違うオフホワイトの手編みのセーター。これもお母さんの作だろう。ざっくりとした編み目に手の温みを感じる。彼の身に着ける物のどれもが優しいことにあらためて気づく。おじいさんのお守り、彼女のライトフレグランス。
「壁の明かりを左右から一つずつ点けて照らすとどうなるかと思って」
 振り返って見ると彼の言う通り、左右の壁に掛けた絵の上に備えた小さなライトの向きを変え、『北天』の中央に細い光が当たるようになっている。今はカウンターの明かりで絵の周囲も見て取れるが、『北天』の上から光を当てた時とは違い、絵の真ん中だけが強調され、後は何も見えなかった。
 壁も床も天井も見えず、それが長方形の絵であることもわからなくなる程───何もない深い闇に溶け込む。
「戸口から見るとね、光源のライトも見えないから」
「あ、なるほど…」
 私は頷いた。廊下の明かりも消していたからなおさらだ。
「ほんとに、伸び縮みする空間なのね、ここ」
「うん。でもそれに足を取られて転ぶなんて」
 ラジオはドリッパーにお湯を注いでくすくすと笑った。コーヒーの泡もふくふくと笑っているみたいだ。
「遠山さんは?」
「用があるって出かけて今日は休み」
「…やりたい放題ね、ラジ」
「うん。なぜか鍵まで持ってる」
 ───ギッ、と外のドアが開く音。「遠山さんかな」と私達は戸口に注目した。
 見知らぬ男性が姿を現した。私とかわらない年頃に見える。髪とコートの肩を雪で濡らして、戸口に立って暗い店内を見回した。ラジオが静かな声で「いらっしゃいませ」と言った。
「…お休みですか」
「いえ、どうぞ」
 パチンと明かりを一つ点ける。私の時と同じだ───私は壁際のテーブル席に着くその人を呆然と見た。
 ラジオはカウンターにお冷やと私のコーヒーを置いて出てきた。収納庫からタオルを出して「お使いください」とその人の席に置く。その人は髪を拭きながら『北天』を眺めていた。
「ご注文は」
「ブラジル」
「はい」
 カウンターに戻ったラジオは小さいコーヒーミルを取って、すました顔で豆を挽き始めた。いいのかしら、経営上問題があるんじゃないか………目が合うと、彼はにっこり笑って人差指を唇の前に立てた。内緒かい。
 コリコリコリと豆を挽く音が止むのを待っていたかのように、その人はふいにこちらに話しかけてきた。
「こちらに空木秀二の絵があると聞いて来たんですが」
「ええ」ラジオは手を休めずに返事をした。「そちらの壁の絵です」
「あなたはオーナーじゃありませんよね」
「オーナーは外出中です」
「いつ戻られますか」
「明日ならおります」
「明日か…。困ったな」
 沈黙。ふくふくふく、とコーヒーの泡のかすかな音がはっきりと聞こえた。
「何かご用だったんですか?」
「この絵を譲っていただきたい」
 泡のしぼんだドリッパーを持つラジオの手がぴくりと動きを止めた。コーヒーの雫が落ちるぽつんという音も響きそうな静寂───彼はじっと動かずにその人を見つめた。ラジオが………動揺している。気がつくと私は「あの」と口走っていた。
「この絵は空木さんがこの店のそこの壁の為に描いたものなんです」
 その人は冷ややかな目を私に向けた。
「そ……それに……、遠山さんは、親しかった空木さんの絵だから大事にしてるんです。譲るなんて」
「そうですか」
 彼は立ち上がった。
「あなた方は随分とこの絵が気に入ってらっしゃるようですね」
 クスと笑って言う声が冷たい───
「こんな絵はない方が良いのに」
 ───何て言った?
「オーナーがいらっしゃる時に出直します」と彼は早足で出ていった。外のドアがパタンと閉まる音がした瞬間、彼の言った意味が理解出来た。
「に……二度と来るなあッ!」
 カウンターをバンと叩くと葡萄のカップがかちゃんと鳴った。
「ラジ、塩取って塩!」
「…え?」
 見るとラジオは呆然としている。
「塩撒くんだから!何でラジは怒らないの?あ…あの人はただ交渉に来ただけで、『北天』を気に入ってるわけじゃないのよ?こんな絵って……バカにされたのよ?」
「ああ…はい」
 ぼうっとした顔で塩のポットを差し出す。私はそれを掴むと廊下に飛び出した。「あ、あ、待ってミオさん」追いかけて来た彼が私の肩を掴んだ。
「今撒くと雪が溶けて危ない」
「何すっとぼけてんのよ!」
 こんな絵って───涙がぼろっと落ちた。ラジオは壁に凭れて「僕が怒る暇もないんだもの」と苦笑した。




 六角屋を出ると森宮さんの店も明かりを落とし、ガラス戸の向こうのカーテンが閉まっていた。ラジオは「冷たくて気持ちいい」と夜空を見上げ、雪を顔に受けて微笑んでいた。
「今日も傘ないの?」
「うん。朝降ってなかったから」
「しょうがないなあ」と傘を開く。彼は空に向かって口を開けると、落ちてきた雪をぱくんと食べた。ふふと笑ってこちらを向き、私の手から傘を取り上げる。駅に向かって緩やかな坂を滑らないようにゆっくりと歩き出した。
「あの人、何者なのかしら」
「雰囲気からして美術商。空木の絵の注文を受けて探してたってところかな」
「それにしちゃ若くない?」
「うん。だから社員なんでしょう」
「そっか…」
 出直してくると言っていた。いやだなと思いながら近道の公園の階段を上った。
「それにしたって偉そうよね。思い出すだに腹が立つ」
「ははは。かなりのお得意さんの注文なのかな。……大丈夫だよ。遠山さんは『北天』を手放したりしないよ」
「うん…」
 六角屋。
 空木秀二が名付けたという喫茶店。六角は雪の結晶であり、『北天』は六角屋の象徴なのだ。
 心地よい静けさ。かすかな音のこだま。美術への憧憬。行き交う人々。夜を描いた『北天』に込められた空木秀二の眼差しと心は未だ謎に満ちて───六角屋という空間を形作っている。
 明かり一つ変えただけで。見る者の心一つで伸縮し姿を変える。私達の目はミクロとマクロを行き来する。それは『北天』が他のどこの壁にあっても出来ない体験だ。
「見て」
 ラジオは広場の真ん中で足を止め、傘を持つ手を下ろした。空を見上げる。
 私も顎を挙げて空を見た。黒い夜空から降ってくる雪は外灯の光を受けてきらきらと舞い、鼻先や頬に触れるとすうっと溶けた。
「雪が目に入った」
「そりゃラジは目おっきいから」
「ふふ」
 空木秀二もこうして雪を見たのだろうか。
 空は雲に覆われて、星は見えない。
 雪は結晶を連ねて壊れながら落ち、地上に届く頃にはその美しい形をとどめていない。
 けれど空木の目だったならば───
 見えないものを見ていた彼の目ならば。
 あるいは───

 ≪君は空木と同じ目をしている≫

 黒いコートのラジオは私を振り向くと目を伏せて笑った。