三連休の最終日、日曜に買い物に出かけた。デパートで春物ファッションをチェックしつつ、バーゲンの冬物を買う。子供服の売場にも寄って太一の服を買い込んだ。すぐに大きくなって着れなくなるのはわかっているが、春夏号での仕事以来、子供服の可愛さにすっかりはまりこんでしまったのだ。小さいくせにいっぱしの大人気取りの仕立てに頬が緩む。
 地下に降りて好物のシュウマイを買い、駅への出口に向かう。出入口近くには特設売場が設けられ、女性客で賑わっていた。───もうそんな時期か。ちょっと早いけど買っておこう。ずらりと並んだチョコレートを見て回った。
 太一には動物の形のチョコレート、パパにはビター、会社の人達には公平に同じ物を選ぶとして………
 六角屋にもしょっちゅう行くのだからと遠山さんとラジオの分もカゴに入れる。値段は同じだがラッピングも中身も違う。同じでは芸がない。森宮さんにもお世話になっているから。伊野さんとも今度会うし。ひかる君の分も。そしてお楽しみは自分の分。
 東さんは笑っていたけれど。




「いくら何でも早過ぎねーか」
 チョコレートを受け取った伊野さんは横目でちろーりと私を見た。
「や、だってこの次に伊野さんと会えるのバレンタイン過ぎてからなんだもん」
「ついでかよ。まあこんなのお歳暮と変わらねーもんな」
 伊野さんの事務所である。打ち合わせを終えてチョコレートを渡した。呆れるのも無理はない。バレンタインデーは五日後だ。サンキュ、と伊野さんは包みを鞄に入れた。アシスタントのひかる君は「ありがとうございます」とニコニコ。反応としてはこちらの方が嬉しい。
「一個くらい早くてもいいじゃない、毎年いっぱい貰うんだから」
「おかげさまで」
 フフンと笑うと目尻に深い皺。若い頃からある皺で、それが笑顔に愛嬌を添える。一見オヤジのカメラマン、伊野さんはスタッフの間では結構人気があるのだ。それをモテると言うのかどうかは計りかねる。
 今日はこれで上がりだと言うと、伊野さんは「そんじゃ飲んでけよ」冷蔵庫から缶ビールを出してテーブルに置き、さきいかの袋を開けて並べた。
「話でもあるの?」
「気になりませんか、AIM」
「あ、うんうん!」
 AIMは伊野さんと仲間達が毎年開いている写真展だ。昨年暮れにラジオに会った伊野さんは、モデルを頼んで断られた。その後、モデルは見つかったのかと訊ねた。
「うん、まあな。ひとし程にはイメージにはまってくれないけどな。よくやってくれてるよ」
「イメージってどんな?」
「背中」
「は?」
「今回のテーマ、『背中』なんだよ」
「ああそれで…」
 走り去るラジオを撮ったのか。頷いて、さきいかに手を伸ばした。
「場所変えてみたり照明変えてみたり、いろいろやってはいるんだけどな?どうも納得いかねー」
「うん」
「何つーのか、ぴしっと収まりがつかねーんだ。ただもう、『これは違う』と感じる」
 ───写真家の本能だろうか。伊野さんは特に、勘で撮影するタイプである。
「ミオ、ひとしに『顔出ないから』って言ってみてくんねー?」
「何で私が!」
「俺、ひとしの連絡先知らねーもん。今度会うだろ?チョコ渡すんだろ?そん時に、俺が連絡待ってるって言ってくれれば俺から頼んでみるからさ」
 頼むこの通りと拝まれては仕方ない。「言ってみるだけだからね」と念を押した。




 そうして木曜日に六角屋を訪れた。入口に看板がない。階段を下りて外の扉を引くと鍵が掛かっていなかった。こんばんは、と店を覗くとラジオは既に来ていて、カウンターに入ってコーヒーをいれていた。遠山さんがいない。
「遠山さんは?」
「さっき出て行ったけど……そういえば戻って来ないな」
 萩焼のカップと私の分のお冷やを置いてカウンターを出る。入口から外を見遣って首を傾げながらいつもの席に着いた。私も隣に座る。
「今度私にもコーヒーいれさせてくれるって言ったのに」
「いいんじゃない?いれても」
「うん…。遠山さん来てからね」
 私は「あ、これちょっと早いけど」とバッグからチョコレートの包みを取り出した。
「何これ。チョコ?」
「殿。ほんのご挨拶代わりにございます」
「南蛮渡来の菓子は余の好物。ありがたいのう」
「ヘッヘッヘッヘッヘッ」と二人して時代劇の声色で笑っていると、若葉ちゃんが入口にそっと顔を覗かせた。
「あ、若葉ちゃんこんばんは」
「…こんばんは」
「どうしたの?入っておいでよ」
「………」
 手招きしたが、若葉ちゃんは軽く会釈だけして廊下へ戻った。彼女とのやりとりを黙って見ていたラジオがすっと立って後を追った。───これは………
 お姉さん邪魔でしたか!
 遠山さんは、きっと「仁史が来た」と彼女を呼びに行ったのだろう。気を利かせて戻って来ないのだと気が付いた。うわあ、と思って意味もなく両手で口を押さえ、息を殺した。なるべく私の気配がしないように。すると、廊下で話す小声が聞こえてくる。
「逢坂さん、木曜にしか来られないから」
「…うん」
 聞いちゃいけない───両手で耳を塞いだ。
 言わザル聞かザルか私は。
 まもなく戻ったラジオは青いリボンを掛けた箱を手にしていた。溜息混じりにそれを置くと、彼は椅子に腰を下ろしてカウンターに突っ伏した。
「殿。いかがなされました」
「………」
「…やっぱり邪魔だった?…ごめんね…」
「ううん」と彼は顔だけ上げて、組んだ両手の上に顎を載せた。「ねえ、ラジ…」私はほんの思いつきを口にした。
「もしかして……別れた彼女のことまだ好きだったり……する?」
「…え」
と彼は振り向き、くすっと笑ってカウンターに頬を寄せて「うん」と言った。
「…嫌いになるわけないじゃない…」
 目を伏せてぽつりと。かすかな吐息混じりで。
 その気持ちがわかるから───
 私はカウンターに顔を伏せた。
「泣かないでよ」
「泣いてないよ」
「泣きそうだもの」
 そうかもしれない。顔を上げていたくなかった。厚い木のカウンターの温みと一緒に、ラジオの穏やかな声が耳に伝わった。
「前にミオさんが言ったじゃない。今は笑えちゃうんだ」
「うん…」
 ───似た者同士。
 私達は顔を伏せたまま、暫く黙って木の温みを分け合っていた。やがて頭の上から「何やってんのおまえら」と遠山さんの声がして、私達は顔を上げた。遠山さんは私達の顔を見るなり笑い出した。
「二人揃ってデコに跡がついてる」
「え?」
 ラジオと顔を見合わせた。彼の額に丸く赤い跡がついている。私も同じらしい。「ははは」と互いに指差して笑った。似た者同士。




 伊野さんが興奮気味に電話を寄越したのはその夜遅くのことだった。ラジオには「伊野さんが、もう一度話がしたいから連絡欲しいって」とだけ言っておいた。それで連絡するもしないもラジオの自由だと思った。伊野さんの熱意も本人が伝えるべきことである。ラジオには先入観を与えない方が良いと思ったのだ。
「ひとしがOKした。明後日撮影するからおまえも来い」
「ええっ!」
 驚いたすぐ後で、ラジオが「嫌じゃないから困る」と言っていたのを思い出した。伊野さんの写真も気に入っていたし、踏ん切りさえつけば良かったのだろう。
「何て言って説得したの」
「背中を撮りたいって言った」
「………だけ?」
「人を撮りたいって言った」
「うん」
「条件つきでOKした。そのくらい、どうってことないし」
「条件って?」
「AIMでの展示以外には発表しないことと、モデルが自分だと明かさないこと」
「…それじゃ案内ハガキの写真はどうするの」
「うおッ!忘れてた!」
 受話器の向こうで暫く「うおおー」と呻く声。大方リビングの床を転がっているのだろう。
「…さすが編集デスク。着眼点が違う」
「どうせ仁史君を撮ることしか考えてなかったんでしょ」
「そうだよ…。やべーよ」
「まあ、一応訊いてみたら。当日にでも」
「うん」という声を聞きながら思った。───伊野さんらしくないな。印刷物のことをすっかり忘れるなんて。そんなに煮詰まっていたのか───。電話を切ってすぐにラジオにメールを送った。土曜日の撮影に同行して良いかと訊ねる。翌朝には返事が来ていた。スタジオの最寄り駅で待ち合わせることになった。
 当日、午前十時少し前。約束の時間より早く着いたのに、ラジオはもう駅前に立っていた。見慣れた水色のダッフルコートではなく………見覚えのある黒のハーフコートを指差して笑ってしまった。
「それ!それうちの!」
「うん。似合う?」
「とてもよくお似合いです、お客様」
「言うと思った」
 本当によく似合っていた。水色は彼の真っ黒な瞳を引き立てるが、黒は───
 彼はくすっと目を細めた。黒に際立っていた目の輝きがすうっと見えなくなった。
「実家でね、近所の人がミオさんの会社のカタログを持って来たらしいんだ。母が電話で『便利ねえ』って」
「ははは…毎度どうも」
 スタジオまで歩く道々にハガキのことを話した。ラジオは「うーん」と考え込んでしまった。伊野さんとはスタジオの一階の喫茶店で待ち合わせている。窓際に伊野さんが座っていた。ガラス越しに手を振る。今日はアシスタント君がいない。撮影スタッフはなし、というのも説得の材料だったという。
「お待たせしました」とお辞儀してラジオは椅子を引いた。緊張しているようだ。
「先日は失礼をしました」
「いや、こちらこそ。勝手に撮ってすみませんでした」
「いえ」
「そんな固くならないで」
「はい」
 こっちまで固くなってしまう。
「ご活躍を拝見しまして…」
 ラジオは鞄を探った。恥ずかしそうに取り出したのは───
「…バイト先で買ったら、みんなに『おめでとう』って言われて…」
「うわははは!」
 伊野さんが横の椅子に倒れて笑った。彼の写真が載っているマタニティ誌だった。




 一服してスタジオに入る頃には、ラジオも少し打ち解けたようだった。
 ───気のせいかな。
 物怖じしない、人懐こい性格なのだと思っていた。それとも一度は拒んだ撮影だからか。写真に撮られるのは恥ずかしいという人は結構いる。落ち着いた様子だが、今日はまだいつもの屈託のない笑顔を見せていない。
 スタジオはがらんとしていた。伊野さんはカメラを壁際ぎりぎりに固定した。壁に背中を付けてファインダーを覗く。照明を広い空間に向ける。向こうには白い幕を垂らした壁がただあるばかりだ。
「僕はどうすればいいんですか」
「ちょっとそこ立ってみて」
 ラジオはライトに照らされた空間の真ん中に立ち、周囲を見回した。伊野さんはカメラ越しにそれを見ている。「暑い」と戻ってグレーのセーターを脱ぐ。白い綿のシャツに縦落ちしたジーンズ。伊野さんに「どうでしょう」と訊ねた。
「この前話した通り、撮りたいのは『君』だから。君の思う通りに動いていい」
「伊野さんったら」
 思わず口を挟んだ。
「いきなりそんなこと言われても、仁史君はプロのモデルじゃないんだから」
 ───いつもならば。
 我が社の冊子の撮影の場合、商品イメージの表現というテーマがある。撮りたいのは『商品』なのだから、商品のどこを見せたいのかを伝え、それに合わせてモデルは動き、表情を変え、カメラマンは撮影するのだ。
「俺はそんなもん撮りたいと思ってないよ。俺が撮りたいのは仁史」
「わかりました」の答えにまた驚いてラジオを振り向く。彼の顔から微笑が消えていた。
 見せるのは『自分』だ。
 彼は壁に手を突いて、スニーカーと靴下を脱いだ。素足になってスニーカーを揃えて右手に持ち、壁を背にしてすっと立った。
「始めてください」
 ラジオの声に、伊野さんがシャッターボタンに人差し指を置いた。