東さん、最近顔色悪いよ
 ≪…ちょっと疲れたまってるかな。…大丈夫だよ。仕事片付いたらまとめて休み取って、…部屋探しに行こうな。菜摘姉ちゃんの近くがいいか≫

 ≪ミオさん、兄が───≫

 ───あと半年と宣告された。
 入退院を繰り返す。仕事が出来ない自分の代わりにと紹介されたのが伊野さんだった。
 苦痛を和らげ、わずかに延命するだけ。病状の進行と苛酷な治療で痩せ細り、髪は抜け落ちてしまった。それでも───
 東さんは微笑んでいた。ぶっきらぼうな口調は相変わらずだったけれど。少し力が抜けて、それでも、私や伊野さんが訪ねれば冗談を交わす。
 誰も、先の話はしなかった。
 彼が倒れてまもなく、お母さんから婚約を解消してはと言われた。東さんにその意志があったかどうかは今でもわからない。
 明日がないことを知っていて、彼はこの上なくひとりぼっちだった。
 それは誰にも埋めようのない距離だった。明日がその日かもしれない。私はただ、せめて今日、昨日と変わりなくそばにいることしか出来なかった。痛む体をさすり、手を取ってその日一日のことを話す。冗談を言って笑う。そうして触れていなければ、目の前の彼はとても遠くに見えた。一人では起き上がることも出来なくなった頃のある日、いつものように彼の手をさすって話をしていた。昼の太陽と木々の緑の輝きは、病院の窓ガラス一枚を隔てて、別の世界にあった。
 枯れ枝のような乾いた腕。ぽきりと折れてしまいそうな指。
 窓の外の青空には雲が立ち上り、夏は生命力に満ち溢れて───遠くで、光り輝いていた。
 眩しくて目を伏せた。じわり、涙が溢れるのをどうやって隠そう、と下を向いた。

 ≪海音。おいで≫

 私の両手に挟まれた彼の手がぴくりと動いた。私は背中を丸めて枕に顳かみを寄せ、額を東さんの頬につけた。彼の顔がわずかにこちらを向いて、耳元で優しい声がした。
 ≪きれいでいろよ。俺が居なくなったからって、またひとりで生きなくちゃって、意地張るなよ≫

 ≪それはほんとのおまえじゃないんだから≫




 伊野さん宅を辞してすぐ、ラジオにメールを送った。写真を預かっていること。部屋に戻ると返信が届いていて、私の都合の良い時に六角屋へ取りに行くとのことだった。日曜日ではどうかとレス。OKの返事。
 ───直接話せばいいのに。
 ラジオがあれ以来、六角屋に寄っていないというのが気掛かりだった。
 ≪ラジは『北天』に取り憑かれてここに通ってるんだ≫
 遠山さんが冗談めかして言ったことだが、事実、絵画を深く愛するラジオは『北天』を見るために六角屋に通っているのだ。
 ≪あの絵にはいろいろと謎が多いんだ≫
 いつのまにか───
 あの絵を巡る人々に、私は引き寄せられている。
 それが私にとって最大の謎だ。




 そして日曜日、謎の一つはあっけなく解けた。
 ラジオは水色のダッフルコートを着て六角屋に現れた。首にはクリームイエローのマフラー。明るくやわらかな配色にほっとした。彼は店内を見回して「うわ、久しぶり」とにっこりした。
 コートとマフラーを椅子の背に掛ける彼に、「忙しかったの?」と訊いてみた。するとあっさり「うん」と答えた。
「実習始まって、今は病院の方に何かと…」
「…まだ具合悪いの?」
「え?」
 彼は目を丸くして聞き返し、「ああ」と笑った。
「病棟実習。僕が悪いんじゃないよ」
「あ…そう…」
 ラジオは私が納得したのを見て取って、頷くと隣の椅子に腰を下ろした。
 ───なあんだ。妙に気を回していたのは私だけだった。
 遠山さんはドリッパーに熱いお湯を注ぎながら、くつくつ笑った。
「やっぱ医者に向いてないんだって」
「…みんなそう言うんだもの」
とラジオは両手で頬杖を突き、溜息混じりに遠山さんを見る。遠山さんは私に向かって、
「パソコ、このツラで医者。どう?」
「あー…。ちょっと頼りなさそう…」
「顔は関係ないでしょ」ラジオはむうっとむくれたかと思うと、また溜息を吐いて「でも」と視線を落とした。
「……正直言うとわからない……。ふっ、ここまで来て何言ってるんだろう」
 コトンと置かれた萩焼のカップを手にして湯気をふうっと吹く。彼はコーヒーを一口啜って「ミオさん、写真は?」と訊いた。バッグから取り出して渡す。封筒からネガを引き抜いて彼は微笑した。それを戻し、写真をカウンターに並べた。遠山さんも向こうから肘を突いて覗き込む。二人は一枚一枚、ゆっくりと見た。
「ほんと言うとね、すごく迷ったんだ。すぐに断れなかったのは、僕はあのトマトを潰した写真が好きだったから。自分はどんなふうに写るんだろう。……伊野さんに撮ってもらうというのは魅力的だけど、でも……」
「でも?」
「………」
 彼は何かを言いかけて薄く開いた唇を、きゅっと結んだ。苦労してるかもな───伊野さんの言葉が思い出される。
「…嫌ならいいのよ、本当に」
「嫌じゃないから困っちゃう」
 くすっと笑って一枚を取った。最初の、背を向けて走る写真だ。
「この写真も好きだし。僕がこうして病院に戻って行く、僕がずっとやりたいと思っていたことはそっちにある」
 言いながら、写真の彼の頭の上を指差す。指先を見つめる目にやわらかい光を湛えている。
「だから…、断った」
「うん。そっか…」
 頼りなさそうなんて言って悪かったな、と思った。童顔は生まれつきだし。何より───ラジオにはこれからのことなのだ。彼は写真をしまいながら「伊野さんにありがとうって伝えて」と言った。




 ≪この世でいちばんきれいなものは光と影だと思うから≫




 病床にあって撮影出来ない東さんが最後にAIMに出展したのは、日々に撮り続けていたモノクロのスナップだった。
 緊張感漂うスタジオの風景。撮影が終わって和やかな笑顔のスタッフ。厳しい面持ちでカメラを手にした伊野さん。二人の師匠であった写真家のくつろぐ姿。実家の玄関のドアを開いた苑子ちゃん。近所の人達と談笑するお母さん。仕事で出逢った人々、仲間達。───照れ笑いでりんごの皮を剥く私。ソファに凭れて眠そうな私。膝を抱えてテレビドラマに涙ぐむ私。キッチンに立って料理する私。
 私のことはモノクロでしか撮ってくれないのね、と拗ねた時の言葉だ。仕事やAIMでの女性達の写真がきれいだったから、ちょっと言ってみただけだった。
 その後はもう、気恥ずかしくて絶句して、けれど彼は真面目にそう答えただけで、───笑うしかなかった。
 幸せで、幸せで、───
 東さんはその手の中に収まる小さなカメラで、周囲の人々を光と影で包み込んでいたのだ。
 この世でいちばんきれいなもので。
 だから、思い出すたびに優しい。




 ≪おいで≫




 ≪ずっと一緒に居るのに形式なんて関係ないだろ≫

 恥ずかしいよと笑う私に、東さんは薄笑いで目を細め、さくさくとりんごを噛んで黙っていた。私はナイフを持つ手を止めて、うん、と答えた。
 ───どんなかたちでも。
 また、りんごの皮を剥き始める。東さんは腕を伸ばしてカメラを手に取った。
 一瞬の光の中に綴った永遠の約束。
 私は今も、あの眩しい眼差しと手に抱かれているのだ。





2001.6.12/2021.12.18
Thanks....飯村真朱さん アシスタント君に“江上ひかる”の名前を頂戴しました