疲れていたのだろう。ぐっすりと眠り、目覚まし時計が鳴る前にはすっきりと目覚めた。菜摘姉ちゃんのおにぎりと昨日食べそびれためかぶとろろをのんびりと食べた。
 服を選んで身支度を始める。鏡をじっと見つめる時間は自分を見つめる時間なのだと、あの日の東さんの手が教えてくれた。自分以上のものに装う必要はない。けれど鏡に映る自分をきれいだと思う時、顔には自信と笑みが溢れてくるのだ。
 そして私はいつものように、最後に香水を頭の上でシュッと噴く。ボトルを戻そうとしたが思い直してバッグに入れ、部屋を後にした。




 ───最近きれいになったね。
 そうですかあ、と書類の束に顔を隠した。うん、よく笑うようになった。何かいいことあったの。……そう言われても特に何もない。ただ、東さんに言われた『説得力』のために自分を振り返るようになったこと、そうして仕事に臨むようになったことで、少しずつ余裕が生まれて来ていた。それは自信に繋がってゆき、自信は笑顔の源になった。当時はそのことまで思い及んでいなかったが、『きれい』という言葉がそのまま東さんを思い出させた。
 あの後は撮影もなく編集作業に追われていたため、彼とは会っていなかった。まあ次の仕事で会うだろう、とぼんやり考えて一箇月が過ぎ、久しぶりに打ち合わせのために事務所を訪れた。
 ≪俺、クサくねえ?≫
 開口一番何を言い出すのか。玄関に立ったまま、くんくんと匂いを探して首を傾げた。東さんの事務所は自宅の一室で、ごく普通のマンションだった。入ってすぐの部屋に事務戸棚を詰め込んで並べ、そっけないテーブルと椅子があるきりの部屋。隣室を暗室として使っており、奧の部屋は後に『嵐の生活空間』と呼ばれる私室だ。詳しくは述べない。
 ≪今日、例の雑誌の香水の特集の撮影だったんだよ≫
 ああ、それで、と頷いた。母が好きだったこともあって、私も香水は既に愛用していた。テーブルにバッグを置いて、うん、それで?と続きを促すと、
 ≪匂いの種類別に衣装とメイクを変えたのを撮ったわけなんだけど、何?オリエンタル?フローラル?言われてもさっぱりわかんねえ≫
 投げ遣りに言うのがおかしくてくつくつと笑った。彼はあくまで真面目に話しているのがまたおかしかった。
 ≪いや、わかるんだよ。言葉で言われて。名前はその匂いを表すためのもんだし。でも匂いってのは頭でわかるものじゃなくて感じるものだろ≫
  うん
 私も真面目に頷いた。
 ≪だからそこにあった香水を全部嗅いでみたんだよ≫
  全部?
 ≪全部≫
 彼は顔をきゅうっとしかめた。
 ≪酔っぱらって鼻痛くなった≫
  ごくろうさまです…
 ≪何か自分に匂いついてそうで≫
 シャツの前立てを掴んで鼻を近づけ、眉をひそめる。子供みたいだ、と思った。
 ≪………≫
 妙な間が空いた。東さんは立ったまま、座れとも言わないので私も立っていた。匂いがついていたのかしら、と上目で顔を覗き込んだ。掴んだシャツに鼻を寄せて俯いたまま、黒い瞳がちらりと動いて私を見た。
 ≪…石崎のもあった。すぐわかった≫
  ………
 ≪ああこれかあと思ってシュッてやったら≫
  ………
 恥ずかしくて顔が上げられなくなった。心臓の音が聞こえてしまいそう───
 こつん、と額にあたったのが東さんの額だとわかって、目も開けていられない。静かな、細い声が言った。
 ≪……びっくりした。海音の匂いだと思ったら息が出来なくなりやんの俺≫
 一歩。
 たった一歩後ろに下がれば離れることが出来るのに───
 額から伝わる熱。微かな息も聞こえる距離。
 こんなにも近くに人がいるということ。
 私はじっと動かずに、それを───彼を感じていた。
 そっと彼の額が離れて、私は目を上げた。これまで見たことのなかった、彼の困り果てたような顔が目の前にあった。その目をじっと見つめると、彼はわずかに眉を寄せ、ゆっくりと、再び近づいた。
 躊躇いながら軽く触れた唇。離れようとしてもう一度。離せなかった額のように、もっとそばに感じていたくて。
 彼は唇を離すと両腕を私の背中に大きく回してぎゅっと抱き締めた。一瞬のことで顔を見る暇もなかった。耳元でクスと笑って囁く。
 ≪やったー≫
  …え?
 ≪いいの?俺のだと思っちゃうよ≫
 ───本当に子供みたい。
 私は思わず苦笑して、やられた、と答えた。




 夕刻にはいつもの通り、伊野さんのアシスタント君のバイク便がやってきた。ごくろうさまと写真を受け取り、確認をする。
「ミオさん、師匠が『暇なら寄ってくれ』って言ってました」
「…何で」
「ほら、昨日のミオさんの知り合いの人の写真も出来てるんですよ。私用だから暇な時でいいとは言ってましたけど。あの顔は早く来て欲しそうですよ」
「ははは。そっか」
 笑って了解したものの、ふと気になった。
 ───妙に押し強かったもんな。昨日。
 撮影の申し出に対してラジオはいい顔をしなかった。普段の伊野さんなら、撮りたくても撮らないと思うのだ。
 写真の出来を本人に見せて再度頼み込む───そんなところか。
 でも。
 もしあの時、ラジオが振り返らなかったら?
 走り去るだけの写真でどうやって説得するつもりだったのだろう。
 それ以前に、そうまでしてラジオを撮りたいということが疑問だ!
 一度気になりだすとぐるぐると考えてしまう。一段落着いたところで残業を切り上げて、伊野さん宅に寄ることにした。




 ≪今日友達に会ったらいきなりおまえ女が出来たろってあいつの嗅覚動物並み≫




 ドアを開けた伊野さんはスンと鼻を鳴らして「たこ焼きか」とにんまりした。
「駅前ですっごくいい匂いだったから」
「ん、そか。入れ」
 おじゃまします、と声をかけると奧からアシスタント君が赤い顔で「どうも」と手を振った。
「なあに、もう出来上がっちゃってるの?」
「伊野さんと飲むとピッチ上がるんですよ」
「ひかる、程々にしとけよ。明日は早いぞ」
 明日の早朝からロケに出かけるのだそうで、彼は今夜泊まるらしい。電気カーペットを敷いたリビングの座卓を囲んで座った。アシスタント君は私にビールを注いで、あちち、とたこ焼きを頬張った。
「…で?伊野さん。どうだったの、昨日の写真」
「ふふん」
 伊野さんは不敵に笑い、ソファの脇に置いた鞄からA4用の封筒を引っ張り出した。
「ミオ、ひとしに連絡つけてくれねー?」
「もう名前呼び捨て!?」
 ビールを噴きそうになった。ごくんと飲み込んで言うと、彼は「おまえがそう呼んでたから」と口を尖らせる。
 ───これは相当気に入っているということだ。
 ちなみに伊野さんが『あずま』と呼んでいたのは、『ひろあき』より呼びやすかっただけである。呼びやすい名前で呼ぶ。つまりあだ名だ。『ひとし』と呼ぶのは、それだけの親近感を既に抱いているということになる。昨日少し言葉を交わしただけで………。驚きを抑えて封筒を受け取った。
「来年のAIMの写真撮らせて欲しい」
「………」
 AIMは毎年春に行っているグループ展だ。初期のメンバーである東、伊野、森岡のイニシャルを取って名付けられ、東さんが居なくなった現在も続けられている。私は黙って頷きながら写真に目を落とした。
 ───風だ。
 なびく髪、膨らんで揺れるセーターの裾、わずかにぶれた脚の線が駆ける速さを物語る。
 ボールを拾って振り向きざまに投げる一連の動作。伸ばした腕。軽く曲げた膝。バネのように伸縮した全身の動き。ほんの数秒の間にこれだけの動きがあったのかと驚く。そしてその一つ一つが───
「絵になるだろ」
「……うん」
 溜息が出そうだった。
 身を屈めてボールを拾い振り向いた時の冷めた表情。体を起こし、腕を引いてボールを投げる直前の意志的な眼差し。手から離れるボールを見る目のやわらかさ。手を降ろし背筋を伸ばしてこちらを見る笑顔。表情の劇的な変化。
「フォトジェニック。奴の居る所が一枚の絵に見えるんだよ」
 アシスタント君はソファに頭を凭れてうとうとしている。
「動いてるとこはどうかなと思ったけど、予想を覆されたっつーか」伊野さんはビールを一口飲んで、「予想以上だったつーか。絵に見えるっていうのはさ、目に映ったものを『被写体』として分析する癖がついてるだろ、俺が。絵として見ようとする。無意識にでも。そうじゃねーんだよ。絵を見せられた、って感じるんだよ、ひとしの場合」
「…だ…大絶賛だね…」
「おーよ」
 なるほど昨日は伊野さんらしくなかったわけだ。
「連絡取れる?今」
「今っすか!」
 咄嗟に腕時計を見る。九時半か……電話しても大丈夫かな、とバッグに手を伸ばした。
 バッグが倒れて中身がこぼれた。手帳、スマホ、香水のボトル。
 スマホを拾う。伊野さんが手を伸ばして手帳とボトルを拾った。片手で持ったボトルの蓋を親指で上げてくんと匂いを嗅ぐ。納得したように頷いてそれらを座卓に置き、立ち上がって隣室へ入っていった。彼は毛布を抱えて戻り、寝入ったアシスタント君に掛けてやった。呼び出し音を聞きながら訊ねた。
「AIMのこと説明すればいいのよね」
「うん」
 はい、とラジオの声がした。
 緊張した。あれから───この前もゆっくり話せていない。昨日はどうも、と切り出した。
「今、伊野さんと一緒に居るんだけど、昨日の話のことで電話したの。ちゃんと説明出来なかったから……今いいかな」
「…うん」
 顔が見えないと不安になる。笑顔を絶やさない彼だから余計にだ。私は慎重に言葉を選びながら、AIMという写真展のこと、仕事とは別の、写真家個人としての制作であること、伊野さんがラジオを一目見て気に入っていることを話した。
「ふふっ、うーん…。何でだろう」
 ああ、照れて笑っているな───と、少しほっとした。
「伊野さんに代わってもらえる?」と言われてスマホを渡した。
「こんばんは。……うん。………」
 伊野さんは時々「うん」と相槌を打ってラジオの話を聞いていたが、やがて「そうですか…」と溜息を吐いた。
「すみませんでした。…いえ、こちらこそ失礼なことをして。…ん、その時はゆっくり。…はい。では」
「…何だって?」
 伊野さんはスマホを寄越しながら苦笑した。
「……あいつ、結構苦労してるかもな」
「え?」
「昨日撮ってた写真も破棄してくれって」
「………」
「まあな、勝手に撮られた写真を他人が持ってるのは気色悪いよな。使うつもりは端からねーけど…。ミオ、それひとしに渡してやって」
と、ラジオの写真を顎で差して、ネガフィルムの袋を座卓に置いた。
「…苦労って?」
「目立つんだから煙たがられたりすることもあるだろ。立ってるだけであれだ。苦労っつーか、悩む」
「そっか……」
 考えてもみなかった。
「人懐こい子なの。私の知る限りではみんなに好かれてるけど……そうだよね、そういうこともあるよね」
「うん。話聞くと真面目に考えてくれてたな、てのわかる。AIMも見に行くって……あー、惜しいな。興味あるんなら撮らせて欲しい」
 伊野さんは目尻をぽりぽり掻いて笑った。
「おまえから見てどう、ひとし」
「そうだなあ…」
 伊野さんが言ったような『絵になる』というのは私も以前から感じていた。ファニーフェイス、華奢な体、特徴だけ挙げれば何の変哲もない。でも───
 私は一枚の写真を手に取った。
 こちらに飛んで来る赤いボールの影の向こうで、すっと姿勢良く爪先立ったラジオ。ふわりと揺れる髪。やわらかな微笑。瞳の輝き。彼は地面から軽く浮かんでいるかのようだ。
 まるで、『北天』のようなショット。
 少年のような声で話し、手を動かして表現し、きらきらした目でまっすぐに見つめ、にっこりと笑う。───その時に、彼は『絵になる』のだ。
「ミオ…」
「何?」
 伊野さんは手にした香水のボトルの文字を指で撫で、私の前にコトンと置いた。
「……そろそろ東を安心させてやれよ」
「………」
 ───枕元から取って私の真似をして頭の上に霧を吹いていた東さん。すうっと軽い匂いが好きだと言った。同じ匂いの二人。それだけで嬉しかった。
「……伊野さんも……みんなと同じこと言うのね……」
 今はもう辛くはない。あの頃の幸せな気持ちを、あの頃のままに思い出すことが出来る。だから笑った。───声が少し震えた。
「自分でもね、時々笑っちゃうの。私今でも東さんのこと好きなのよ。全然気持ち変わらないの。今でも…そばにいる気がしてるのよ」
 目の前が滲んで何も見えなくなった。おかしくて笑っているのに。顔を伏せて、指で震える唇を隠した。
「……思い出すと幸せなの。それだけで充分なの……」

 ≪むっつりうさこは強がり意地っぱり≫

 ≪海音がうさぎになったらおいで。抱いてあげる≫

「……そうか。悪かった。もう言わない」
 ぽつりと伊野さんの声。

 ≪そんなふうに泣かないでよ≫

 ───ラジ。
 涙を拭いて目を遣った写真。
 再び背を向けようとする横顔は、無表情だ。
 右頬のほくろ。薄く開いた唇。軽く眉を寄せ、どこか遠くを見る瞳は淋しげにさえ見えた。

 ≪ごめんなさい≫

 ………謝ることなかったのに。
 秋の夜道でふいに私を抱き締めた。
 ラジオはずっと、私の胸に響いていた東さんの声を聞いていたのだ。