床に仰向いて横たわるラジオ。
 その傍らにぺたんと座り込んで、まぶたを閉じた青白い顔を見ていた。椅子の背から彼のGジャンをひっぱって、胸の上に掛けた。とりあえず、他にすることがなかった。
 ………和泉さんが帰った直後───
 店の入口に立って和泉さんを見送った。外のドアが閉まった途端にそれまでの緊張の糸が切れたのか、彼は倒れた。遠山さんは彼を床に寝かせると私に「あと頼む」と出て行って、まだ戻らない。
 ───落ち着け。
 落ち着け、落ち着け、と胸の中で繰り返した。落ち着け海音。
 前にもここで彼が倒れたことがある───あの時は、私の不安が強い波動となって彼の体に影響を与えてしまったのだった。だから今ここで私が不安になってはまた………けれどこんな青ざめた顔を見ていると───

 ≪いかないで≫

 ラジオがゆっくりと目を開いて、私を見ると微笑んだ。「ちょっとくたびれちゃった」と消え入りそうな声で言う。
「…そんな顔しないでよ」
「え?」どんな顔だ。
「サナトリウムの少年を見るような顔」
「………」
 がくりと床に手を突いてうなだれた。何じゃそら、とつっこむ気力もない。
「寝不足のせいかな。制御が難しかった」
 人の心が発する波動によって心の声が聞こえてしまう。───厄介な体質だ。制御とは彼が自分の能力をコントロールして、そうした声を聞かないようにすることである。
「…だからそんな顔しなくていいよ。寝れば治るから」
「………」
 ───聞こえちゃったかな……
「聞こえてません」
「聞こえてるんじゃない!」
「聞いてないってば」彼はくすくすと笑った。「何となくそんな感じがするだけなんだよ」そう言って深く息を吐いた。
 制御が難しかった───
「…和泉さんはどうしてラジにあんな話を持って来たの?」
「僕も最初は専門医にかかることを勧めたんだけど……話の内容からして精神病の恐れがあったし、治療で治るということも説明した。心配だったから、いろいろ話を聞くうちに……どうやらちょっと違うな、と思って」
 彼は真顔で天井をまっすぐに見てふうっと溜息を吐き、目を閉じた。




「───半年前、彼女に起こった不思議な出来事、というのは?具体的に」
 ラジオの質問に、和泉さんは言い淀みながらゆっくりと話した。
 それは───にわかには信じがたい内容だった。妄想のような………
 何が引き金になるのかはわからないが、彼女は突如吐き気をもよおし、異物を吐くというのである。セロハンテープを丸めた物や、石など。無論、彼女にはそれらを食べたという自覚はない。
 だが、彼女が和泉さんに訴えた話のうち、彼は二度もその場に居合わせていたのである。
「……その瞬間を自分の目で見ていて、証拠の品が自分の手にあって、事実として認めざるを得ない。じゃあこれはなぜここにあるのか、時間を追って考えてみても、……不思議だった。その時にラジオ君を思い出して」
「え?何だろう」とラジオ。
「『今わからないことはいつかわかる』、メールの署名にいつも付けているでしょう」
「ああ、はい」
「あれって何」
「座右の銘です」
「誰の言葉?」
「僕です」
 話を聞いていないように見えた遠山さんが「ははは」と大笑いした。和泉さんは俯いて肩を震わせ、笑い声を押し殺していた。ラジオが私を振り向き、子犬みたいに、舌の先をちょっと出して笑った。私はというと……そこまでの話の深刻さに、つっこむのを忘れていた。
「うん、それで、……非現実的でも事実は事実として、まずは受け止めようと。目に見える事象がすべてではなくて、角度を変えて見れば、隠れて見えない部分が見えるんじゃないかとそう思った」
 ラジオが無言でゆっくりと頷いた。
「それで自分でいろいろと調べるうちに、超心理学に行き当たった。ラジオ君なら、作物は違っても畑は一緒で何か知ってるんじゃないかなと思って」
「広い畑ですよ」
「うん、でもマニアだと思ったから」
「ふっ」とラジオがふいた。「何のマニアですか…」呆然として訊ねたのは私だ。
「いや、博識だなと思ってたから。心理学をやるのでも一分野に留まらないだろうな、と」
 和泉さんという人は真面目そうに見えて結構とぼけている。とぼけながら………鋭く観察して分析する冷静さと、発想の大胆さが同居する。淡々と語りながら、その思考は激しくうねりを巻いている。話しぶりから、そんな人だろうと推察した。
「……でも僕は、何もない所に物は生まれないと思うんですよ」
 和泉さんの話───彼が見たという不思議な現象と彼自身の解釈を聞き終えて、ラジオが両の手のひらをカウンターの上に載せ、物の形を示すように動かした。
「物がそこに在ると認めるためには極端な話、その物質が分子レベルでも『それである』と証明されなくてはならない。その時の彼女の切迫した無意識がそれぞれの『物』のイメージを呼び起こしたとしても、実際に物を生み出すにはその材料が必要で、それがない限りは『物』が生み出されたということを認められない」
「どうして?」
 私は思わず口を挟んだ。和泉さんの顔が落胆で曇り、信じてもらえないのか、と言いたげに見えた。
「だって和泉さんは実際にそれらの物に触って確かめてるじゃない。ある物をないなんて、おかしいよ」
「うん。だからね、……違う方法で」
 微笑むラジオの目が、一瞬鋭い光を放った。
「昨夜のメールに『彼女一人しかいない部屋で、ひとりでに窓が開いた』とあったけど……窓の構造や重さから、強風で開いたとは考えられない。そうでしたね?」
「うん。ドアみたいに外開きになる窓。ビルの五階だし、書類を大量に取り扱う部署だから滅多に開けない。前日にも窓が開いて、複数の人が見ている前で窓に鍵をかけている。仮に夜中に誰かが鍵を開けたとしても」と彼は苦笑して続けた。「取っ手を回さないと開かない窓なんだ」
 背筋がぞくっとした。これではまるで………さっきのポルターガイストじゃないか。
 それでラジオはいきなりあんな話をしたのか。すると………
「そのことを入れて半年前の現象を再考すると、一つの仮説が浮上する。彼女の無意識から物を動かす力が発せられた。……その能力があるとして、物を、ここから」
 人差し指でカウンターをトンと叩いた。その手をすーっと横に動かして、離れた所をまたトンと叩く。
「ここまで動かす。この二つの点の間の空間を無視して移動が行われたら」
 ───テレポーテーション。
 本やテレビで見た絵空事のような言葉が頭に浮かんだ。
 そんなことが起こり得るんだろうか。その思いを見抜いて、ラジオはくすっと笑った。
「物がそこに在ると認められるのは空間があるからだよ。無理な力で物をひっぱれば、それに合わせて空間だって無理に形を変える……」




 私も少し疲れた。二人の話は不思議に見える現象に対して『何が起こったか』に終始し、『なぜ起きたのか』には触れなかった。それでいいのだろう。それは私が聞いて良いことではない。ラジオも聞かされていないらしかった。
「誰だって一介の学生に過ぎない僕に話すより、専門家に話した方が良いと思うよね。でも……医師に診せたとしても妄想と診断されるか、逆に彼女の能力が認められても研究対象にされる。最悪の場合は病院をたらい回し。和泉さんはそれが嫌なんだよ」
「…うん。わかる」
 大事なひと、なんだろう。はにかんだ苦笑いを思い出した。
「心的要因の認められる異常と考えるなら、医師の診断は必要なんだ。だけど彼女のケースは特殊で、……迷うのも無理ないよね。僕だってきっと迷う……」
 ラジオの深い溜息につられて、私も溜息を吐いた。
「この三ヶ月くらい、チャットでじっくりと話をしてきて、結局は『彼女を守ることだけ考えましょう』ってそれしか言えなかった。実際僕には他に出来ることはないし」
「うん。……でも、だからラジを信用して話してくれたんだと思う」
「……そうかな」とラジオは目を開け、照れて笑った。よいしょ、と起き上がる。
「ミオさんがいてくれて助かった」
「え?何もしてないよ。女性の意見なんて一言も出せなかったし」
 ───口を挟める話題じゃなかったし。
「制御が難しかったから。前に『ミオさんとは波長が合う』って言ったじゃない。ミオさんに合わせるだけで、僕本来の波長を保てるの」
「それで『いて』って言ったの?」
「半分くらいは。……ここに入って来た時からまずいなーとは思ってたんだ。やっぱり疲れてるのかな。実家に帰ろうかなあ」
と彼は目をぎゅっと細めた苦笑で頭を軽く振った。
「…大丈夫?また点滴打ってもらったら?」
「やーだ」
 子供みたいに言ってくすっと笑った。だいぶ良くなったようだが、まだ顔色が悪い。実家が遠いと山崎君から聞いていたのでどこと訊ねると、思っていたより近かった。私の部屋と方向も一緒だ。森宮さん宅の居間で私達を待っていたらしい遠山さんに帰ることを告げて、駅に向かって歩く頃には辺りは薄暗くなっていた。
 歩きながら、ラジオはふうと息を吐くと伊達眼鏡を掛けた。時々そうして大きく息をする。……大丈夫かな、とそのたびに横目で見た。
 乗り換えの駅は人でごった返していたが、空いた電車がホームに入って、すぐに座ることが出来た。混んでいたら一本見送るつもりだった。ラジオはまた静かに深呼吸して「ごめんなさい、ちょっと寝るね」と頭を垂れて目を閉じた。
 膝に載せたバッグから手帳を取り出し、明日からの仕事の予定を確認する。そんな必要はなかったが、他にすることもなかった。なさけない。
 目の前に立っている乗客の膝が、私の膝にごつごつとぶつかった。夕方のラッシュとはいえ、どうもおかしい。さっきから膝をぐりぐりと押し付けられているような気がする。さりげなく膝の上のバッグで相手の膝をぐいと押し返した。すると相手は明らかに膝を曲げて、私の揃えた膝の間に───
 やだ!───
 その瞬間、隣に座るラジオがぱっと顔を上げた。驚いてそちらを見ると、彼は眉を寄せて男を睨み付けていた。目に映る車内の照明が彼の童顔に鋭い眼光のような迫力を添え、私はラジがこんな顔をするなんてと驚いた。男は顔をそらして膝を離した。
 ───聞こえたな。これは。明らかに。
 せっかく寝ていたのに起こしてしまった。スカートの裾を膝の上までひっぱってバッグで押さえ、再び俯いた彼の顔を覗き込んだ。
 ぎゅっと目を閉じ、唇を結んで、………彼は寝ていたのではなかったのだと気がついた。
 今の私のせいもあるだろう。それにこの混雑………ここにいる人のすべてから発せられている波動。その周波に合わせないよう制御しきれない体調。
 どうしよう───
 どうしたらいいんだろう、と暫く考えていた。これまでのことを振り返りながら。
 そうしてある考えに至って、私はそっと彼の左手を取って、両手で挟み込むようにした。
 骨張ってごつごつした手。指先が固い。
 六角屋で彼がたまに「疲れた」と言って、甘えて寄り掛かってくるのを思い出したのだ。あれは先刻言っていた、私の波長に合わせることで自分の波長を取り戻す、そのためだったのだろう。その考えを読み取ってか、彼は下を向いたまま弱々しく微笑むと、頭を私の肩に預けた。
 ───乗客の皆様、お見苦しい点、ご容赦ください。こいつ病人ですから。
 ラジオはそれも聞き取ったのか、くすっと笑って「次で降りるんでしょう」と言った。
「僕なら大丈夫だよ。次で空くから」
「ラジの降りる駅で起こしてあげるから寝てて。…お姉さんの言うこと聞きなさい」
 彼はふっと笑って暫し黙っていたが、素直に「はい」と答えた。