巨大な螺旋───
 くるくるとめまぐるしく回転し、無限に続くかのような、螺旋階段。
 周囲にひしめく建造物は皆、時計の歯車のように噛み合って並び、あるいは外れて崩壊を始めている。暗闇に沈んだ街から赤々と燃える空に向かって、歪み、回りながら伸びる階段は画面中央の天頂で消失し、黒い鳥の群がオレンジの月の弓から放たれた矢のごとく降りて来ようとしている。
 その階段を、少女が駆け昇ってゆく。
 それが、幻想画家空木秀二の最後の───未完成の作品、『左回りのリトル』だった。




「うわ…」
と言ったきり絶句した。
 まず、その大きさ。十二畳程の部屋の壁一面を覆う。真っ白な天井や他の面の壁から浮かび上がる赤。………そして、巨大な螺旋が見る者を圧倒する。
「どう?ミオさん」
 少年のような、甘さを混ぜた掠れ声。
 絵から目をそらさずに、頷いて「うん…」と答えた。
 ここは、空木秀二の一人娘、梢子さんの部屋だ。父の形見となった絵は、娘を見守るように部屋の一部になっている。───私達は、絵の中の世界に立っている。
 絵に向かって右から、空木梢子さん。澄んだ瞳と赤く染めた短い髪が印象的。彼女自身も絵を手がけるが仕事にするつもりはなく、画材店の双月堂に勤めている。
 隣に野宮柾君。父を亡くして一人で暮らす梢子さんの心の支えである存在。つまり恋人。双月堂でアルバイトをする学生だ。
 その斜め後ろにいるのは山崎隆之君。髪を染め派手な服を着ているが、日本画家高畠深介の愛弟子であり、将来を嘱望される才能の持ち主。
 山崎君から少し離れて立つのはこの私、石崎海音である。
 絵画に関してはまったくの素人、無知である私がこうしてここにいるのは───  私の隣に立つ、先程の声の主。
 逢坂仁史君。
 空木秀二と縁のある喫茶店『六角屋』で出会った青年だ。山崎君とは高校時代からの親友とあって、絵画を愛し、造詣も深い。そんな彼の紹介で梢子さんと知り合い、私は未完成の『左回りのリトル』を見せてもらえることになった。
 ───で。
 どう?と訊かれた以上は………やはり何か答えなければならないだろう。
 でも何を?絵に詳しい人達ばかりの中で!
 結局、最初に感じたままを言うことにした。
「……絵の中に入り込んだみたいな感じがする、自分が」
「ああ、わかります」
と野宮君が頷いた。
「僕も初めて見た時は『呑み込まれる』という印象を受けた」
「逆に言うとこう、目の前に」
 隣で両の手のひらを自分に向け、ぐーっと顔に近づける動作。山崎君が「また始まった」と小声でぼそりと言うのを聞き逃さなかった。
「迫ってくるように空間が広がる、それは螺旋の効果に他ならないんだけど、一つにはこの一点透視で描かれた螺旋が鑑賞者の足元から始まっていることで、」
「あーもう聞いたよそれ」
 山崎君は投げ遣りに言って顎を上げた。
「僕はミオさんに話しているんだよ山崎」
 そう言って、彼は滔々と語り始めた。
 ───よく喋ってよく歌うから、ラジオ。
 彼は時に、≪ラジオ≫と名乗る。
「……そうして僕らはあの少女と共に階段を駆ける、そのことを体感するんだ。それはこの大きな画面でなければ体験できない」
 螺旋の視覚的効果から始まって、描かれたモチーフが与える印象と『時間』というテーマに触れ、最後に彼はそう言ってニコニコと絵を見つめ、ほうっと溜息を吐いて呟いた。
「また見れて良かったなあ……」
 野宮君が梢子さんと(終わったかな?と言うような)顔を見合わせ、「お茶いれますね」とキッチンへ向かった。山崎君が私に近づいて背を丸め耳元でぼそっと「すみません、うるさくてゆっくり観賞できなかったでしょう」と言った。
「ううん?面白かったし、私にもわかりやすく話してくれたから」
 ………それに、不思議と耳を傾けたくなる声。
 先程『少年のような』と言ったが、彼の年齢からするとその声はやや高いが掠れて静かに響く。そのくせどこか湿り気を帯びた甘さを持っており、掠れてもがさがさという耳障りな感じはまったくない。そして彼の口調にはその時々に見合った心地よいリズムがある。
 ───ラジオのように。
 玄関から部屋まで続く細長い廊下にあるキッチンで、梢子さんが冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出し、野宮君が紙コップを用意していた。部屋に残った私達は、フローリングの床に直に座り込んだ。………何も無い部屋。大きなクロゼットを備えているせいか、家具といえば隅のベッドとフロアライト一つきり。絵を製作するためにスペースを広く取っているのかなと思うと、ふっと笑みがこぼれた。
「まーくん、これ」
「うん」
「まーくん!?」
 梢子さんと野宮君の会話に山崎君が驚いて叫び、ラジオがフッとふいて俯いた。
「空ちゃんに変な名前で呼ばせるな」
「どういう意味だ山崎」
「一瞬、誰のことかわからなかった」とラジオは俯いたまま肩を揺らした。
 私は紙コップを差し出す野宮君に「いいじゃない、ねえ。何て呼んだって」と言って受け取った。彼は照れくさそうに笑った。
 初めて会った時に『文学青年』の印象を受けた通り、≪まーくん≫はドイツ文学を専攻しているとか。細い顎の線ときりりとした眉と、わずかに目尻の上がったつり目。シャープで繊細な雰囲気を備えている。
 私達はお茶を囲んで床に円になって座っていた。野宮君の隣の山崎君は、紺と黄と緑と白と、それぞれに線の幅の違うストライプのシャツ。「そのシャツ、遠近感が狂う」と梢子さんに言われ、細い目を更に細めた。それは『破天荒』と評されるという彼の作品のように、彼によく似合っていた。
 彼らがまた空木秀二の作品について熱く語り始め、梢子さんは黙って頷きながら、熱心にそれを聞いていた。無口でおとなしい。話し手の顔をまっすぐに見つめる目がきらきらしている。───父親の空木秀二も、こんな輝きの瞳をしていたのだろうか。
「あ、写真」
 唐突に梢子さんが言って、皆の視線が一斉に私に集まった。私は「そうそう」と紙バッグから、伊野さんから借りた写真のファイルとカタログを出して彼女に渡した。
 私が勤める会社の通信販売のカタログだ。『空木秀二の世界』の会期中の美術館で商品イメージ写真の撮影を行ったので、それを梢子さんに見てもらうために持参した。ファイルの方は、カタログに使用されなかった写真が収められている。
 ラジオがお土産のクッキーの缶の封を剥がす。梢子さんが開いたファイルを野宮君が横から覗き込み、山崎君はカタログのページをぱらぱらと繰った。
「いいなあ、この靴下」
「どこ見てるの」ラジオのくすくす笑い。私は「あ、付箋貼っておいたの」と手を伸ばしてカタログのページの端をつついた。山崎君はファイルの写真と見比べて、「ああこれか」と頷いた。
 ≪わたしを探しにゆく。≫
 見出しのコピーが恥ずかしかった。……黙ってればわからないか。
「上手いな」
 山崎君が言った。写真のモデルが手にしたトマトを指差す。
「さっき逢坂が言っていた螺旋による遠近ね、あれと同じ。このトマトが」
「トマトが?」
「焦点を手前のモデルに合わせるでしょう。そうするとこの通路の奧がぼやける。奥行きがあるように見えるのは、遠くがぼやけているからじゃないんですよ。手前にあるはっきりした色の物、この場合モデルの服やトマト、壁の絵、それらのバランスで遠近感を出しているんです。そしてトマトがさっきの話で言う螺旋の起点、ここからこうたどっていくと、ね? 奧へ行く道になるってわけ」
「なあるほどー」深く溜息を吐いた。
「絵画的な撮り方をする人だね」とラジオが微笑んだ。私は「絵と写真と、どう違うの?」と素朴な疑問を口にした。
「つまり山崎が言ったのは、本来三次元空間をそのまま捉える写真において、透視法を用いて平面に立体空間を再現する絵のように、この人は自分で空間を作っちゃったってことなんだ。目を引く物を、距離感を得られるように配置して、このコピーで言う『迷宮』を演出している」
 コピーと聞いて口の端がひきつった。さり気なく話題を変える。カメラマンの伊野さんがトマトを使うことを現場で思いついたことやトマトを潰したことを話すと、二人は強い関心を示した。ファイルをめくった野宮君がクッキーの缶を退けてファイルを真ん中に置いた。
 皆沈黙して写真を注視した。
 潰れたトマトを手にした女性。
 うつろな眼差しでどこかを見ている。彼女とは別の魂が彼女に添うように、ほつれた髪は頬にかかり、トマトの滴は指先を伝い落ちようとして光っていた。───その背後に燃える赤い空。
 『木霊』。
 空間を隙間もなく埋め尽くす群衆は輪郭だけの透き通った姿をしている。空に浮かぶガラス板に乗った人や木───魂の間を、腕や体を絡め、重なり合って地上から空までを覆う、こだまという名の精霊。
 空木秀二の代表作だ。この『木霊』を見て、伊野さんはトマトを押し潰した。そうして彼は「これは後ろの絵と同じだ」と言ったのだ。
「同じ、か」山崎君が呟いた。
「面白い人だな。こう言ったら失礼かもしれないけど、通販のカタログでこういう写真を撮る人なんていないだろう」
「うん。現場の雰囲気で、撮っておきたくなった、って言ってた。いつもと撮り方も違って……」
「こだまだね」
 ラジオがふっと微笑んだ。
「何が?……」ラジ、と言いかけて口をつぐむ。≪ラジオ≫という名は、彼が自ら名乗った人の前でしか呼ばないと約束している。ラジオという名に込められた、彼の秘密。
「こだまは音の反響だから」
「前にも言ってた。『寂しさや孤独は反響する、だけどこだまは呼応でもあって、そうして近づいてゆく魂の姿でもある』って」
「よく覚えてるね」
 梢子さんに言われてラジオは苦笑した。
「うん。だからこの写真を撮った人は、空木秀二に近づいたんだ」
 ≪パソコも空木秀二に出逢ってしまったってことだよ≫
 六角屋のマスター、遠山さんにそう言われたのを思い出した。───伊野さんもまた、空木秀二と出逢った。そして彼は潰れたトマトで自分の魂を表現したのだ。
 山崎君からカタログを受け取ったラジオは、カタログの後ろの方のページをゆっくりとめくった。「何て人?」
「伊野信吾さん。名前載ってないよ、通販のカタログだもの」
「他の写真も見てみたいな」
「コンビニで売ってる雑誌に載ってるよ」
「へえ、見てみようかな。何て雑誌ですか」と山崎君。ティーン向けの女性ファッション誌とマタニティ雑誌の名を挙げると、二人は「恥ずかしくて買えない…」と遠くを見た。




 西日が眩しい。ラジオが「明日は晴れだね」と目を細めた。
 野宮君は(当然)梢子さんの部屋に残り、彼と山崎君と三人、地下鉄の駅へ向かってゆるゆる歩く。日の当たらなかった道路の端には昨夜の台風が残していった落ち葉と水たまりが黒い線になって続いている。
 絵の世界から現実に戻ってきた。………そんな感じがした。