病院は待ち合わせた駅の近くにあった。受付に駆け込んだ。
「すみません、さっきかつぎ込まれた逢坂仁史の身内です。仁史君はどこですか」
 言ってることが滅茶苦茶だ。
「その廊下の先の処置室です」
 どうもと頭を下げて廊下を急いだ。土曜の午後でひと気がなく、廊下は薄暗い。扉を開け放して明かりが洩れている奧の部屋が処置室らしかった。入口で足を止めた。
 診察台の横に青年が一人立っていた。180センチはありそうな長身。頭のてっぺんが少し黒い金髪。胸にウォーホルの絵をプリントしたオレンジ色のTシャツの上に真っ赤なブルゾンをはおっている。細身のサングラスのレンズは黄色。そして……こちらを振り向いた鋭い眼差し。
 ───火みたいな人だ……
「ミオさん、来てくれたの」
 診察台に横たわるラジオが笑顔をこちらに向けて言った。左の袖をまくり上げて、点滴を受けている。それを見て───震えていた脚の力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。ほっとした途端に、涙がぽろっと出た。派手な青年が私に歩み寄って、「あんたも点滴受けたら?」と手を差し出した。
 この人が、『山崎君』だろう。
「この人がミオさん?」
 山崎君は私の腕を掴んで立ち上がらせ、ラジオにそう訊ねた。「うん」とラジオが答えると、山崎君はいきなり「あんたねえ」と言った。怒っている。当然だ、病人を放り出して逃げてしまったのだから。私は怖いのと恥ずかしいのとで身を縮めた。
「山崎」
 落ち着いた、静かな声だった。そのきっぱりとした語調に、山崎君は私の腕を掴んでいた手を放した。
「おまえも悪いよ、逢坂」
「…うん」
 山崎君は黙って廊下へ出て行った。………席を外してくれたのだ。見かけほど怖い人ではなさそうだ。「座って」と言われて、診察台の傍らの椅子に腰を下ろした。ラジオは照れたような笑みを浮かべた。
「ごめんねミオさん」
「ううん、私こそ…ごめんなさい。大変だったでしょう…」
「救急車なんて久しぶりに乗った」
「………」
「大丈夫だよ。点滴が終わったら帰れる」
 掠れて消えそうな小声で言って彼は目を閉じた。静かにしてじっとその顔を見ていると、しばらくして看護師さんがやってきて点滴の残りの量を確かめた。ラジオを見て「眠られたんですね。終わりそうになったら呼んでください」と私に言って隣の部屋へ入っていった。
 ぽとぽとと落ちる点滴薬の滴と眠るラジオの顔を交互に見ていた。
 戻ってきた山崎君が静かに私の横に立ち、背を丸めてラジオの顔を覗き込み、次いで目を私に向けた。細い目をしているが、瞳に強い意志の力を感じさせる。彼は薄く髭を伸ばした顎に手を遣って、「こいつ、手がかかるでしょう」と言った。
「別にそう思ったことはないけど」
「なるほど」と言って山崎君は微笑し、視線をラジオに戻した。
「……よろしくお願いします」
 彼は隅の机の前の椅子を引いて来て私の隣に座った。お医者さんが座る椅子だが、いいのだろうか。………いないからいいと思うことにする。そうして、私が逃げ出した後のことを聞いた。
 梢子さんの部屋を訪ねることを、ラジオは山崎君に話していた。
 山崎君は空木秀二の親友であった日本画家、高畠深介の弟子であり、山崎君の紹介で梢子さんと知り合ったラジオにしてみれば、話しておくのは当然のことだったのだろう。
 彼が梢子さんの部屋に着いて程なく、病院から電話を受けた。
 病院に駆けつけた彼がラジオから聞いた話に依れば、気を失って公園に倒れているラジオを通行人が発見し、気がついた時には救急車の中で(本人がいちばん驚いていた)、最初に考えたのが「梢子さんに『遅れる』と連絡しなければ」だった(まだ行く気だったのか)。しかし梢子さんにではなく山崎君に連絡が行ったのは───
「動揺させたくなかったんでしょうね。俺でもそうしたと思う」
「……仁史君のご家族は?」
「実家がちょっと遠いんですよ。俺ならすぐに来れたから」
 なるほど、と頷いた。点滴をちらりと見て山崎君が隣の部屋の看護師さんを呼びに立つ。ラジオが目を覚ました。
「…終わった?」
「うん」
「ああ、よく寝た」と言って彼はくすっと笑った。
 梢子さんへの連絡は、山崎君が席を外している間に済ませてくれていた。『左回りのリトル』を見せてもらうのは後日ということになり、梢子さんには後で電話しようと思いつつ、お土産のチョコレートを山崎君に渡すと彼は細い目をわずかに見開いた。
「…俺にですか」
「うん。ご迷惑おかけしました」
「迷惑かけたのは逢坂ですよ」
「うん。だから仁史君にはあげないの」
 アハハと山崎君が笑うと、受付で会計をしていたラジオが「聞こえたよミオさん」と笑いながら財布を取り出し、小声で「あっ」と言った。
「お金、盗られたんだった…。山崎、貸して」
「保険証は」
「ない」
「………」
 こちらをゆっくりと振り返ったラジオの頭に犬耳がぴょこっと生えて垂れた。




 翌日の朝、私はクロゼットからサマーウールの黒いワンピースを出した。クリーニング屋のカバーと紙テープを外し、皺や虫喰いがないかを見る。シャワーを浴び、身支度をして、先日のメールをプリントアウトした。法要の始まる時刻を確かめ、袱紗に包んだ数珠と一緒に、その紙もハンドバッグに入れて出かけた。
 寺の中の広い控えの間で、メールの差出人───苑子ちゃんは、私を見つけると「ミオさん」と笑顔で近づいてきた。座卓を挟んで、お母さんの正面に座る。
「お久しぶりです」
「お変わりない?」
「はい」
「そう…。来てくれてありがとう」
 苑子ちゃんがお茶をいれた湯呑みを私の前に置く。「ミオさんとこの会社の通販、私まだやってるよ」と言われ、「ははは、ありがと」と笑った。
 本堂で法要が始まった。苑子ちゃんの兄、祐朗さんの三回忌。いちばん後ろの隅に座る。苑子ちゃんが「前へ」と言ったが遠慮した。いるのは私を除いて皆、親類だ。お経の一部を印刷した紙が配られた。ふりがなが振ってあった。
 読経の間の焼香。私は最後。
 読経が終わって説教。手元の紙を見ながらぼんやりと聞いていた。判らない漢字の羅列。文字を辿って、意味を掴もうとする。───周りの皆が立ち上がって、私は顔を上げた。
 線香の煙が立ちこめる。墓石に水を掛け、手を合わせた。皆が本堂へ戻る時、お母さんが「ミオさん」と私を呼んで隣に並んだ。
「今日は本当にありがとうね。……でも、もういいのよ。ミオさんは若いんだし、いつまでも祐朗にしばられていないで、いいひと見つけて幸せになって」
 そう言って、お母さんは先に本堂へと戻って行った。足が動かなかった。
 残った苑子ちゃんに「…や、いいひと見つからないだけなんだけどなー」と笑いかける。声が震えた。
「……ごめん。苑子ちゃん、先に戻ってて」
 一人になりたかった。
 墓石は濡れて冷たい色をしていた。その前にしゃがみ込んで俯くと、

 ≪もし海音が───≫

 頬に掛かる髪がうさぎの耳だった。
 膝に顔をつけた。早く戻らないと苑子ちゃんが心配する。……判っているけど。
 石畳を踏む足音に顔を上げるか上げまいか迷った時、「何やってんだミオ」と、いつもの調子で声を掛けられた。───伊野さん。
「今日だったのか」
「えっ、知らないで来たの?」
 思わず顔を上げると、伊野さんはきちんと礼服を着ていた。「いや、大体今日辺りかなーとは思ってたけど。来週だからな、命日」と水桶を置いた。私は苦笑した。
「勘で来るぐらいだったら、ちゃんと法要にも出てよ」
「法事なんて身内だけでするもんだろ」
「私だって他人だもの」
「婚約してたんだから身内も同然じゃねーか」
 私は溜息を吐いて立ち上がった。伊野さんが花を供え、線香に火を点けた。
「……もう来なくていいって言われちゃった」
「そりゃおまえに貰い手がないのを東のせいにされちゃかなわねーからだろ」
「ひどいなあ、もう」
 ふふと笑った。
「文字通りの行かず後家」
「死語だよ伊野さん」
 おまえたち相変わらず───
 お墓の下で東さんは笑っているかもしれない。……そうだといいと思う。
 漂う煙を目で追って空を見上げた。薄い雲のかかる澄んだ青空。

 ≪───いかないで≫

「伊野さんこそ再婚しないの?」
「んー。いい。面倒くさい。懲りた」

 約束は果たされなかった。それでも───

 ≪もし海音がうさぎになったら、おいで≫

 ならないよ。もう。

「東さん、伊野さんはカップラーメンばっかり食べてるんだよ」
「そんなこと墓に手ェ合わせて言うな」
「どうか伊野さんにいいひとが現れるように何とかして」
「あ、あー。そういうこと言うんなら俺だってな。ミオは仕事でも生意気だし色気ねえし、おまえに後を頼まれたけどな、婆さんになるまで面倒見れねえぞ。何とかしてくれ」

 ≪海音≫

「いいの」
「何が」
 手を合わせたまま、伊野さんが振り向いた。

 ≪おいで≫

 ───どこにもいかない。

「……ううん。何でもない」

 苑子ちゃんがこちらに向かって「伊野さん!来てくださったんですか」と手を振った。
 梢子さんと同じ年頃。東さんは歳の離れた妹をとても可愛がっていた。今でも、彼とは学生時代からの友人の伊野さんにも私にも、可愛い妹。
「これからどっかメシ食いに行くんじゃないのか」
「うん、席を用意してくれてるらしいけど……」
 ≪……もういいのよ≫
 お母さんの声が小さく固くなって、胸の底に沈んでコトンと音を立てた。
 水桶を拾い上げて、伊野さんが苑子ちゃんに歩み寄り、何事か話した。二人は頷き合って私を振り向き、苑子ちゃんが「ミオさん、またメールするね!」と手を振って駐車場の方へと歩き出した。……伊野さんが上手く断ってくれたらしかった。ゆっくりと戻ってきた。
「もういいぞ」
「何が」
「誰も見てねーから」とそっぽを向いた。
 ………目がじーんとした。けれど、それだけだった。
 時間の流れに洗い流されて、とても優しく思い出される。東さんのくれたものは、すべてがあたたかく優しかった。───だから。
「……ほんとに大丈夫なの。時間が経ったなあ、って思う」
「そうか」と伊野さんは微笑んだ。私も微笑で頷いた。
 ………だから今は、笑える。
「またな」
 墓石の角に拳を軽くぶつけた。
 仕事仲間でもあった二人がいつもやっていた挨拶。
 駐車場に向かって、石畳の上を並んで歩き出す。伊野さんが「どうする」とポケットから煙草を取り出した。
「この前のとこにでも食いに行くか」
「えっ、この格好で?」
「正装だろ」
「伊野さんのおごり?」
「アホ。割り勘に決まってんだろあんな店」
「ふふ、うん」と頷いて───「あっ!」
「何だ」
「昨日、とんでもない出費があったんだ…。伊野さん、お金貸して」