その夜、社から持ち帰ったカタログを「梢子さんに渡す時用に」と紙のバッグに入れて、ふと思いついて伊野さんに電話をかけた。プルルと呼び出し音。
 ───潰れたトマトの写真。
 『木霊』を見た伊野さんが「撮りたい」と思った物を、梢子さんにも見せてあげたい。
「伊野です」
「おつかれさまです、石崎です」
「おつかれ。どうした、私用か。珍しい。今頃メシに誘っても遅いぞ。今、カップラーメン二個食ったとこだ」
 ……誰も訊いてないって。がくりと膝を床に突き、ベッドに突っ伏した。
「伊野さん、事務所にいるの?」
「いや、自宅。丸二日も事務所にこもってたからもう飽きた」
「左様ですか…」
 我が社のカタログやファッション雑誌のグラビアなどを手がけているフリーカメラマンの伊野さんは、一言で言えば豪傑。空手経験もある強い腕っぷし、酔ったところを誰も見たことがない酒豪、撮影現場でスタッフ全員を自分のペースに乗せてしまう吸引力のある人柄。
 彼もまた、人を見つめ、撮り続けている。
 美術館で撮影した写真を人に見せたいから貸してほしいと頼んだ。
「誰に?」
「空木さんっていって、ほら、あの時に展示していた絵の作者の娘さん」
「娘さん?知り合いだったのか、ミオ」
「うん、最近知り合って。……トマト潰した写真も見せてあげたいんだ」
「………」
 伊野さんは黙り込んだ。私は彼の返事を待って、ベッドに頬杖を突いた。向こうから、「んー」と曖昧な声。
「駄目?そりゃボツにしたけど私個人は良いと思ってるし、伊野さんも『気に入ってる』って言ってたから」
「いや、俺はいいんだけどよ。なんつーかこう、モデルの顔が痛々しかったじゃねーか」
 こんな時、伊野さんがよくやるしぐさが目に浮かんだ。少し俯いて、首の後ろに手をあてて上目でどこかを見て、相手から目をそらす。……痛々しい、という写真をあまり人に見せたくない気持ちも判る気がした。この豪傑は繊細さも備えているのだ。
「うん、そうなんだけど…。でもあの時伊野さんは、『木霊』と潰れたトマトは同じ物だって言ったじゃない」
「……ああ、うん」
「梢子さんがどう思うかは判らないけど、これが伊野さんのこだまだよ、って見せたくなったのよ」
「俺のこだまか」
 フッと笑ってそう言った。
「……うん、わかった。取りに来る時は連絡ください」
「ありがと」
「今度……」
「あ、はい。事務所にファックスしたんだけど、見ていただけましたか」
「………」
「ロケ現場の地図」
 ……何だ、この間は。「ああ、うん、見た」という返事の歯切れが悪かった。
「どうしたの伊野さん」
「うん?…いや」苦笑したのか、フンと鼻で笑った。「悪い、ちょっとぼーっとしたわ俺」
「あ、お疲れのところすみません…。おやすみなさい。また」
 事務所に詰めていたと言っていたのを思い出し、話をそこで切り上げて電話を切った。
 今度───
 顔に掛かった前髪を上げた手で額を押さえた。あのことかな……と思う心の静けさに、『カップラーメン二個』という言葉がするりと浮かび上がって、ふっと笑いを洩らした。




 秋の訪れを告げる雨を繰り返す。ロケの日も小雨が降っていたが、屋内での撮影。ホテルのレストランを借り切った。
「そんで昼メシは幕の内弁当かよ。レストランなのに」
「スタッフのお昼ごはんに、限られた予算でこんな高級店のランチなんて出せるわけないでしょう。第一、どこで食べるのよ」
 スタッフ全員、壁に貼り付くように一列になってお弁当を食べていた。
 ようやく伊野さんと話したのは昼の休憩の時だった。私も朝から準備に慌ただしく、撮影に入れば声をかけることはできない。店を借りられたのは四時まで。それまでに全ての作業を終えなければならない。のんびりと料理を味わっている暇はないのだ。「私だって本当は食べたかったんだからね」と言うと伊野さんは「はは」と低く笑った。
「今度食いに来るか」
「あ、ぜひ」とアシスタント君。「十年早えよ」と伊野さんが軽く返した。
「じゃあ、十年後にごちそうしてください」
「俺の収入のことじゃねえッ」
 だし巻玉子をふきそうになった。この師匠にしてこの弟子あり。手で口を押さえ、笑いを堪えて玉子を飲み込んだ。
 伊野さんが横目で私を見ていた。「何?」と訊くと「ん」と頷いて箸を動かす。
「…この前の写真、取りに来ねーから持って来たぞ」
「あ、ほんと?ありがと、残業続いてて寄れなかったの」
「そうか。帰りに渡す」
「うん」
 撮影は順調に進み、時間通り無事に終了した。美術館での写真のファイルを差し出しながら、伊野さんは「この後、暇なら寄ってかねーか」と盃を傾けるしぐさをした。
「まだ明るいよ伊野さん」
「事務所で飲む」
「事務所に誘うな」
「こういう店にミオを誘ってもなー」とニヤニヤ笑いで言われ、「誘ったじゃない、さっき」と思わず口を尖らせてしまった。
「カップラーメンとチャーハンの素にも飽きたからな…。今度、本当に食いに来よう」
「…うん。ごめん、せっかくだけど今日は寄る所あるの」
「そうか。おつかれさん」
 伊野さんが右の拳を差し出す。「おう」と拳をぶつけた。




 考えてみれば、私はラジオの連絡先を知らないのだった。
 社に寄って用事を済ませ、彼の働く書店を覗いたのは七時少し前だった。三階へ行くと、彼はレジに立っていて、私に気づくと軽く手を振った。私は六角屋の方を指差し、コーヒーを飲むしぐさをして「六角屋にいるよ」という意味の合図を送った。彼が頷いたのを見て、そのまま下へ降りた。……いつ店を閉めるか判らない、それが六角屋。早く行くのに越したことはない。
 ところが森宮さんの花屋の脇に、もう六角屋の看板はなかった。階段を降りて壊れたドアノブを握って引く。鍵が掛かっていた。
「……早すぎるッ」
 白い絵の具で『六角屋』と書いた黒い紙を収めた額に、頭を付けてうなだれた。
 どうしよう。ラジオに「六角屋にいる」と言ってしまったのに。閉店まで本屋の通用口で待つとか……と考えて、先日の女子高生を思い出して脱力した。
 結局、私は森宮さんのお宅を訪ねることにした。遠山さんがいるかもしれないし、と店のガラス戸を開けて「ごめんください」と呼びかけた。
 居間の戸を開けるなり「何だ、パソコか」。エプロン姿の遠山さんが菜箸を握って立っていた。一段高い居間から長身の遠山さんに見下ろされて「何だ」と言われる始末。私は肩を落として「そりゃないよ」と呟いた。
「遠山さんこそなあに、そのお菜箸。私がお客さんだったらどうするの」
「置いて『いらっしゃい』って言う」
 置いてから出ませんか。
 聞けば若葉ちゃんが外出しており、遠山さんが夕飯を作っているとのことだった。煮物をしている、おしょうゆのいい匂い。
「あれはなかなか外に出たがらない子でね。たまにはね。若い娘が家にいてばかりでもね」
と、森宮さんはニコニコした。そういうことなら仕方ない。だがこの前のこともあり、書店でラジオを待つのはどうかと思われた。
「ふうん、仁史と約束してるのか」
「そうですか、逢坂君がね。じゃあ、上がって待ってらしたら」
 ───妙なことになってしまった。
 森宮さんは座布団を出して私に「どうぞどうぞ」としきりに勧め、遠山さんも奧からメモボードを持って来た。何だろう、と見ると、遠山さんがサインペンで大きく『←パソコ』と書いた。
「こうして外に置いておけば、仁史も来るだろ」
「やめてよ恥ずかしい!」
「誰もおまえのことだって判りゃしねーよ」と、遠山さんはメモボードを店の外の軒の下にぶら下げた。
 森宮さんに「夕飯も一緒にね」と言われて、支度を手伝うことにした。遠山さんと二人、台所に立った。有り合わせの材料でおかずを増やす。「結構上手いんだな、パソコ」と感心された。かく言う遠山さんも、慣れた手つきだ。
「おふくろさんが上手いんだろ」
「うん。料理上手な人だったよ」
「だった?」
「私が二十歳の時に両親とも亡くなったの。事故で」
「───そっか…」
 その声がしんみりして聞こえたので、「遠山さんこそ上手いじゃない」と肉じゃがの鍋を覗いて言った。「ああ、俺は独り暮らしが長かったから」と照れくさそうに頷く。
「うちもとうとう親父が逝ったけどな、今年の始め。正月早々倒れてそのまんま」
「……そう……」
 じゃがいもに火が通ったのを竹串で確かめて火を消した。ぐつぐつという鍋の音が消えて、しんとなった。遠山さんがぽつりと言う。
「自分も歳をとると解るのな。人が死ぬっていうことが」
「……うん。受けとめられるようになるね……」
「若葉は幼かったから、なかなかそれが出来ませんでしたよ」
 居間からの穏やかな声に、私達は振り返った。
「高校に上がるまで、笑うことも出来なかった。花は枯れるから嫌いだと言ってね。友達を作ろうともしないで、家にいても花があって、───生きているものがやがて死んでいくのを見るのがつらかったんでしょうねえ、居場所がなかったんでしょうねえ。何にも、誰も、好きになるものかって顔をしてました」
「そう…だったんですか……」
 声が震えた。遠山さんがふっと小さく笑って私の頭の上に手を置いた。
「そんな顔すんな。今は元気でやってんだから」
 うん、と頷いて肉じゃがを器に盛った。店の戸がガラッと開く音がして、外からの風と、ラジオの「こんばんは」という明るい声に、部屋の空気がすうっと変わっていった。




 皆で食卓を囲む。この成り行きにラジオも戸惑いながら、嬉しそうに「いただきます」とお辞儀をした。にっこりと微笑んで皆を見回して言う。
「一家団欒、って感じだね」
「家族構成は?」
と遠山さんに訊かれて、ラジオが手のひらを上に向けて、一人一人を示した。
「波平さん、マスオさん、サザエさん」
「誰がサザエさんだー!」
「仁史はタラちゃんだろう」
「はいですー」
「こんな息子やだー!」
 遠山さんが膝を打ってアハハと笑った。ラジオがくすくす笑い、森宮さんがニコニコ顔で私達を見ていた。私も笑う。……明るく、賑やかな食卓。若葉ちゃんがいたらもっと楽しいだろう。
 それぞれに、大切な家族を失った。
 ───それはいつか誰もが迎える悲しみ。
 けれど人はこうして温かく輪を作る。
 そうして悲しみはいつか消え、優しい思い出だけが残る。




 傘を開く。私の手から、ラジオがひょいと傘を取り上げた。相変わらず傘を持たない主義らしい。森宮さん宅を後にして、坂道を登りながら「土砂降りの時はどうするの」と訊ねると、「差すよ、傘」とあっさり答えた。
「このくらいの雨なら気にしないけど」
 初めて会った時と同じオレンジ色のフーデッドコートは雨を弾いて、丸い雨粒が留まったり流れ落ちたりしていた。斜めに差し掛けられる傘。
 梢子さんに会って『左回りのリトル』を見に行くことになったと話し、一緒に来てくれないかと頼んだ。彼は「ああ、また見せてもらえるの」とにっこりした。
「梢子さんのお休みの日が…」
 公園の外灯の下で足を止め、手帳を取り出した。ラジオが手帳の印を見て、「今度の土曜なら僕も空いてるよ」と頷いた。
「じゃ、そこにしようか。梢子さんには私から電話しておくから…。あ、ラジも携帯の番号かメールアドレスのどっちか教えて。連絡できないんだもの」
 互いにスマホを取り出して番号を登録する。「それで今日は来たの」と苦笑する彼に、「通用口で待つところだったよ」と言うと大笑いされた。
 ………この前の女の子はどうしただろう。しかしそれは私が訊いて良いことではない。
 ラジオは困ったように眉を下げて「ふふっ」と笑った。それを見て………彼が手紙を受け取った時に「困っちゃったな」と言ったのを思い出した。
 ≪近づき過ぎると駄目みたい≫
 ───訊かない方がいいだろう。携帯をバッグにしまって、彼に「行こう」と促した。
 JRの駅に着くとラジオは傘を畳んで「はい」と私に寄越し、「土曜日に」と微笑んで、駅前通りの下り坂を地下鉄の駅の方へ駆け出した。
 舗道に連なる街灯と、通りを行き交う車のヘッドライト、通り沿いの店の明かり───様々な光を反射しながら、雨がきらきらと落ちてくる。
 暗い夜空の下で、雨に濡れて駆けてゆくラジオのコートのオレンジ色が、光を集めたように鮮やかだった。