それから約十日。部屋と会社を往復するだけの日々を過ごした。めまぐるしく仕事に追われ、疲れて帰ると何をする気力もなくベッドに倒れ込むように眠る日が続いた。
 ビバ、何にもない日々……
 ベッドに仰向いて「ばばんばばんばんばん」などと歌って手を動かす。疲れきっていた。
 昼間、商品企画担当の人と一緒に、絵画展のパンフレットを貸してくれた人のアトリエを訪れた。最終的な打ち合わせを終えて、ほっと一息。パンフレットを出して礼を述べると、「どうでしたか」と訊かれた。先日彼から聞いた、どの絵からどんなイメージを抱いて製作したかという話を元に構成を練って、それが通ったことを話すと喜んでくれた。
「面白かったですよ。色使いとか新鮮で…勉強になりました。今回の撮影の参考にさせていただいて」
「そうですか、良かった」
 しかし、彼の選んだ中に空木秀二の『水からの飛翔』はなかった。
 彼は、空木秀二とは擦れ違ったのだろう。そういう時もある。そんな人もいる。『運命のいたずら』とはそういうことだ。
 残業が続いたのもあって、あれから六角屋へは行っていない。遠山さんと顔を合わせづらかった。───『木霊』を見てから。……何となくそう思う。けれどそれで私に『木霊』を理解できるのか、遠山さんと話が出来るのか、それは判らない。
 『木霊』を見るのが怖かった。
 何かが始まってしまいそうで───
 美術館では『空木秀二の世界』の展示が始まっていた。初日、六角屋やラジオのバイト先の近くを通ったが、覗いてみることはしなかった。おそらく遠山さんは美術館を訪れていて六角屋は休みであっただろうし、ラジオもいないだろう、と思った。そうして、美術館に足を向けることも出来ないまま、気がつけば撮影の日も目の前に迫っていた。
 仰向いたまま頭上に手を伸ばし、枕元を手探りする。フレグランスのボトルを手に取り、キャップを外してくんくんと匂いを嗅いだ。
 ……なつかしいにおい。手の中にしっくり収まるボトルの形。
 ボトルを頬にあてるとガラスがひんやりと気持ちよかった。そのままごろりと寝返って目を閉じた。




 美術館での撮影当日、重い荷物を抱えて出勤、会社から車で現場へと向かった。いつかのような霧雨が舞う。スタイリストの女性と一緒に車内で打ち合わせながら、窓の外を見た。屋内での撮影とはいえ、やはり気になる。
 伊野さんは既に現場に到着していた。館内を一回りしてきたところだ、と彼は言って眉根を寄せ、アシスタントの男の子にメモを渡して買い物に行かせた。
「何か要るなら私が行くのに」
「そっちの仕事があるだろうが」
 ある。挨拶をして回り、撮影の準備をし、気を配り、邪魔をしない。以上が私の仕事だ。館員やスタッフに挨拶を済ませてエントランスホールに荷物を運び込む。折り畳みの椅子を並べてモデルのメイク等に使うようセッティング。お茶を入れたポットも置いた。伊野さんが今日のコーディネートのポラを手に、館内をぐるぐる回っている。アシスタント君がスーパーの手提げ袋を手に戻って来た。
「伊野さん、トマトなんてどうするの」
「何となく」
「…塩は?」
「撮影終わったら食う」
 あ、そ。
 思わずがくんとうなだれた。伊野さんは時々よく判らない。
 撮影が始まった。エントランスホールの方から、開け放した扉の脇に立ってそれを見る。絵はよく見えない。終わってからゆっくり見ようと思った。
 伊野さんは服の色に合わせて、どの絵の前で撮るか決めてあったようだった。
 モデルにトマトを一つ持たせる。
 寒々とした色彩の絵と、秋冬の暗い色彩の服の上で、それは鮮やかだった。ふいに周りの色の全てに血が通ったように、トマトの赤は他の色ひとつひとつとバランスを取りながら、モデルの動きに合わせて動いていった。
「もっとゆっくり───そう」
 伊野さんの厳しい声に、モデルの表情が張り詰めてゆく。
 やがて───辺りがしんとしていった。
 シャッターを切る音だけが、鋭く響く。
「次」
 ファインダーを覗いていた顔を上げて三脚を抱え、場所を移動する。いつも穏やかな雰囲気で撮影する伊野さんが言葉少なになっていた。モデルが着替えに展示室を出て、私もそちらに着いた。エントランスホールで、私は雨足が強くなってきたことに気がついた。
 館内はしじまに支配されていた。
 モデルの衣装を変え、場所を移動するのを繰り返して、私達はだんだんと展示室の奥へと進んでいった。そうしていちばん奥の壁面に掛けられた『木霊』の前での撮影となった。
 ───あれが……
 私は息を呑んだ。
 大きい。六畳分はありそうだった。暗い赤と黒い影。
 黒い闇に沈んだ入り江。空も海も赤く燃えていた。遠く近く、何枚も宙に浮かぶ透き通る板のような物はガラスだろうか。その上に、黒い木の影や人影が立っていた。
 そして、その影の間を埋め尽くしているのは───
 人だった。
 透き通った群衆が、身を寄せ、もつれ合いながら立っている。顔はないが、体を折り曲げたり歪めたりした姿勢は苦しそうに見えた。
 深いグリーンのワンピースを着たモデルがその前に立つ。伊野さんが彼女からトマトを取り上げて訊ねた。
「君はこの絵をどう思う」
「……怖いです」
「そうか。すぐ終わる」
 そう言ってカメラに向かった。しばらく撮った後、アシスタント君と展示室を出て行ったかと思うと、二人で大きなビニールシートを担いで戻って来た。
 『木霊』の前の床にシートを敷き詰める。その上にモデルを立たせた。何をするのだろうと見ていると、しゃがみ込んだ伊野さんはシートの隅にトマトを置き、その上に手を載せて……押し潰した。
 拾い上げたトマトから汁が滴り落ちる。伊野さんはそれを持ってモデルに近づき、「持って」と渡した。気持ち悪い、という顔で彼女は半分潰れたトマトを受け取った。
「これは後ろの絵と同じだ」
 そう言われて彼女は戸惑っていた。伊野さんは構わず撮り始めた。彼女は動けないまま、つらそうな顔をして目を伏せた。
「はい、おつかれさんでした!」
 伊野さんが大きな声で言って、それまでの緊張が解けたスタッフは一斉に溜息を吐いた。カーゴパンツのポケットに入れていた塩を取り出した伊野さんは、モデルの彼女からトマトを取り上げて塩を振り、その場で食べた。余程緊張していたのだろう、彼女は「やあだ」と笑った。私は膝の力が抜けて床にへたりこんだ。
「ミオ、どうした」
 伊野さんはトマトの汁で濡れた手をTシャツの裾になすりつけて拭うと、私の前にしゃがんで顔を覗き込んだ。
「あはは…腰抜けちったい」
「なんっじゃそら」
と伊野さんは口を尖らせて私を上目で睨んだ。片づけをアシスタント君に任せて、自分は呑気なものである。人をさんざん緊張させておいて。
「あのトマトは…このためだったの?」
 私は伊野さんの濡れたTシャツの裾を軽く引っ張った。彼は「まあね」と頷いた。
「伊野さん、突拍子もなくて怖いよ」
「俺が怖いのかよ」
「………」
 違うな、と思った。怖かったのは『木霊』だ。
「まあ、びびらせようと思ってやったからいいんだけど」
「ひどいよー」手を床に突いてうなだれた。
「はは、立てるか」
 よいしょ、と腕を引っ張られた。立ち上がっても手を離さずに伊野さんが真顔で言った。
「…何だミオ、本気で震えてるのか」
 震えるのに本気とそうでないのとがあるのか。
「もう大丈夫だよ」と両手をぷらぷらと振ってみせた。伊野さんは「ん」と頷いて手を離した。眼鏡を外し、レンズをTシャツの裾で拭う。
「さっきトマトで濡れた手を拭いたでしょう」
「そうだっけ?」
 眼鏡を目の前にかざし、窓の方を向く。「あ、種がついてる」と言ってそれを指でこそげ落とした。伊野さんは眼鏡をかけて振り向くと、仕事用の口調になった。
「えーと、出来次第ご連絡します。明日の夕方までには出来ると思う」
「よろしくお願いします」
 二人で深々とお辞儀。拳をぶつけあって、片づけの済んだアシスタント君に「行くぞ」と声をかけた。丸めたビニールシートを担いで「お先」と出て行った。
 ───後には私と、『木霊』が残った。
 これが……空木秀二。
 彼に見えていた『何か』とはこれなのか───炎のような空と、それを映す鏡のような海。そして透明な姿をした人々が、木霊だ。それなら……
 ≪ここにもここにもここにも≫
 そう言ったラジオの、パントマイムのようなしぐさ。するとあの宙に浮かんだ木々や人の影は、私達である。あの空はなぜ赤いのか。そして空を映す海は何を意味するのか。
 伊野さんはトマトを潰してみせた。
 なぜそうしたのか聞きそびれた。私はゆっくりとフロアを引き返しながら、絵を一点一点観賞した。絵に添えられたプレートにはタイトルと製作年と所有者の名前が記されている。美術館所蔵の物もあれば個人蔵の物もあった。多くは守屋一氏の所蔵する物で……どこかで聞いた名だと思った。
 私は一枚の絵の前で足を止めた。
 『空と歩く』
 横長の薄青い絵だった。雲が薄くかかる青空を歩く人影。フロックコートのようなシルエットが宮澤賢治を連想させた。彼はどのくらい歩き続けていたのか、遠くを鳥の群が飛び、画面の右端から今にも出て行ってしまいそうに見えた。その足元から彼の後ろへと、水の上を歩いているかのように細波が立っていた。
 ───さびしそう。
 どこまでも遠くまで、ひとりぼっちで歩いてゆく。……そんな印象を受けた。
 もう一度プレートを見る。それが空木秀二の若い頃の作品だと知って、私は奥の『木霊』に目を遣った。あの赤い空は───
「ミオさん」
 エントランスホールへの扉から、スタイリストさんが私を呼んだ。
「そろそろ戻らないと」
「はい、すみません」
 展示室を出て、急いで荷物をまとめる。事務室へ挨拶に行っている間に、彼女が衣装と私のバッグを車に運んでおいてくれたらしかった。受付に積んであった画集を一冊、慌ただしく買って、二人で折り畳み椅子を抱えて車に戻る。
 振り返ることもできなかった。




 その夜、六角屋に寄った。看板は出ていなかったが、階段下の扉に鍵が掛かっていなかったので、そのまま入っていった。案の定、遠山さんがひとりきり、椅子をテーブルに逆さに載せて掃除をしていた。私を見つけるとモップを壁に立てかけた。
 何も言えない。私は入口の扉の所で立ち尽くしていた。遠山さんはカウンター内に入って手を洗い、黙ってお冷やのグラスをカウンターに置いた。そうして、ポットを火にかけ、棚からコーヒーミルと葡萄模様のカップを手に取り、……顎で、座れと促した。
 私はいつもの椅子を引いて腰を下ろした。遠山さんが豆を挽く。───静けさがこだまする空間が生まれる瞬間。
「……空木秀二の絵を見て来たよ」
「うん」
「難しくて……私にはよく判らなくて……だから間違ってるかもしれないけど」
「うん」
「………」
 こだま、と言いかけて唇が震えるのが判って、私は手で口を押さえて隠した。口を押さえたら、目から押さえきれなかった涙がぽろりと落ちた。涙は次から次と溢れて出て、どうしようもなくなってカウンターに顔を伏せた。
 空木秀二はひとりぼっちで歩き続けて、『木霊』を描いた。人の姿を。人の心の姿を。
 あの空の赤は、胸を押し潰す悲しみの色だ───
 悲しくてたまらなかった。ポットの蓋が小さくカタカタ鳴る音に隠れて泣いた。息を止めて声を殺す。空木秀二は、かなしいひとだ。
 私の傍らにカップを置く微かな音がして、頭の後ろにあたたかいものが載った。
 大きな手のひらが、私の頭をゆっくりゆっくり撫でていた。
 そうして、私が泣き止むまで、遠山さんは私の頭を撫で続けていた。