書店の三階の隅にある小さなカフェで閉店まで時間を潰して、ラジオのバイトが終わるのを待った。頬杖を突いて開いた文庫本の文字を目で撫でる。
 ≪そんなふうに泣かないでよ≫
 ───どんなふうに?
 彼が振り向いた時、目が濡れたように光って見えた。きっと彼も見間違えたのだろう……「え?泣いてないよ」と言うと、彼は困ったように笑って、「うん」と頷き、「終わったら飲みに行こうか」と言ったのだった。
 シャッターを下ろした本屋のテントの下で雨を避けていると、通用口から出てきたラジオが「お待たせしました」と会釈した。小脇に抱えていた傘を開く。
 タグが付いていた。
「さっき買ったんだ。僕、傘嫌いなんだ」と苦笑する。「どうして」と訊くと、とんでもない答えが返った。
「重いから」
 どちらのお坊っちゃんですか。
 彼はあははと笑って「嘘。ほんとは差すのめんどうくさいから」と言い、私に傘を差しかけた。歩き出しながら、私が「それって、重いっていうのと同じだと思う」と言うと、彼は「ああ、そんな気もするなあ」と呑気に答えた。前を向いたまま言う。
「それで?何かあったの」
「別に何も…たまたま寄ってみたら、ラジ…オさんのバイト先だった、と」
「嘘」
「何でそんなこと嘘つかなくちゃいけないのよ」
「うん?だって、ミオさんがこっちまで来るんなら、まず六角屋へ行くと思うし、六角屋で何かあったのなら、僕に隠すと思うから」
 ───簡単に見破られてしまった。
「……遠山さんと喧嘩しちゃったの。空木秀二の『木霊』のこと訊こうと思って行ったら、追い返されちゃった」
「『木霊』?」
 今度の撮影場所に美術館を借りたことを話すと、ラジオは足を止めて「ちょっと待ってね」と肩に提げた鞄からスマホを取り出した。黙って操作している。メールを送ったらしかった。
「移動しよう」
 引き返してJRの駅へ向かう。スマホを手にしたまま歩き、駅に着いて傘を畳む頃、メールの返事が来たようで、彼はふっと笑うと腕時計を見た。
「なあに?」
「友達を誘ったんだけど、今、仙台にいるって」
と、スマホを鞄に戻す。電車を乗り継いで移動する間、ラジオが話したのは次のようなことだった。
 メールを送った相手はラジオの高校時代からの友達で、今はT美術大学の高畠教授の助手をしている。高畠教授───画家の高畠深介氏は、空木秀二と長年親しくしていた友人でもある。ラジオとその友達は高校生の時に空木の『木霊』と出逢って……現在に至る、のだそうだ。
「いきなり端折ったわね」
「『木霊』は空木秀二の作品の中でも有名な代表作だけど……話すのはとても難しい。空木秀二その人を理解しようという気持ちがなければ『木霊』を本当に理解することはできないんだ。…だから、軽い気持ちで見て欲しくない、遠山さんはそう思っているんだよ」
「………」
 恥ずかしくなって俯いた。私が見ようとしていたのは、絵だけだと判ったからだ。
「……それだけ遠山さんは≪パソコ≫を気に入ってるんだよ。遠山さんにとって空木秀二は大切な人だから、ほんの少しだけでも、判って欲しいんだ」
「…どうして、気に入ってるって思うの?」
「あのドアを開けて入って来たから」
 ラジオはくすっと笑った。
「元々あの地下のスペースは森宮さん、一階の花屋さんね、そこの先代と今のご主人が書斎に使っていたんだ。だけど奥さんと息子さんが事故で亡くなって、娘さんと二人だけになってからは物置として使っていた。遠山さんは森宮さんの家の下宿人で、喫茶店をやりたいと言った時に森宮さんが、じゃあ地下を使っていいよ、と。あのドアのノブが壊れているのはやんちゃ盛りの息子さんが壊したからで」
 そこで言葉を切ったラジオは俯いて、声を殺して笑った。肩が震えている。
「遠山さんてば、壊れ状態をキープしてるんだもん。時々修理してるんだよ、傾げ具合」
 思わず「あはは」と大声で笑って、手で口を押さえた。すみません、と周囲の乗客に軽く頭を下げた。ラジオが微笑んでゆっくりと言った。
「だから物置への階段を降りて……ドアを開けて……薄暗い廊下を歩いて、暗い店に、入ってもいいかと訊ねた。パソコには森宮さんの息子さんと同じ、冒険心と、いたずら心と、夢を見る力がある。……遠山さんは、そう思っているよ」
 吊革にぶら下がるように両手でつかまって、ゆうらりゆうらりと小さく頭を揺らしながら話す。───ラジオの発する波動が、私を揺らしていた。
「……私、好きだな。遠山さん」
「僕も」
「…ってちょっと待て。森宮さんの息子さんと同じって、私が子供ってことかい」
「着いたよ」
 ラジオがにっこりとごまかして、電車がホームに滑り込んだ。
 駅の地下街を通って、駅ビルの一つに入る。二階まで昇る長いエスカレーターに乗って、ラジオはふいに「あ、そうだ」と言った。
「僕のこと、ラジオって呼ばないでね」
「……どうして?」
「秘密だから」
「じゃ、何て呼べばいいの」
「ひとピー」
「なんっじゃそらあッ!」
 思わず叫ぶと、彼はエスカレーターのベルトに突っ伏してクククと笑った。
「嘘。そんな名前で呼ばれたら僕笑い死んじゃう」
 犬の耳まで伏せて、ふさふさの尻尾をぶんぶん振っている。ああおかしい、と顔を上げたラジオは笑い過ぎて出た涙を拭って「仁史でいいよ」と言った。
 六階に着いてフロアを半周すると、ラジオが「ここ」と画材店に入っていった。
 双月堂。都内に店舗を幾つも構える大手の画材店だ。私も撮影に使う素材を求めてよく利用する。ここにもあったんだ、などと頷きながら彼に続いた。棚と棚の間が狭い。レジに立つ男の子が「あれ?逢坂君」と言ってニコッとした。線の細い、文学青年といった雰囲気。ラジオは「こんばんは」と、彼ともう一人、三十代前半くらいに見える女性に声を掛けた。私も会釈する。
「山崎も一緒?」
「ううん。高畠先生と仙台だって。…梢子さんは?」
「休み。空に用事?」
「二人を誘いに来たんだよ。お邪魔でなければ。梢子さん休みなら野宮君だけでも」
「邪魔なんてことないけど。…そちらは?」
 文学青年は目で私のことを訊ねた。お辞儀をして名乗ると、ラジオが軽く俯き、視線をどこかに投げて───
「空木秀二のことで」
 子供のような笑みが消えた。何か含んだ、鋭い眼差しの微かな笑み。
「なるほど」と野宮君は言って、唇をきゅっと噛んだ。
「判った。通用口で待ってて。空、呼び出すから。すぐ来る」
「いいの?遅いのに」
「どっちにしろ会う約束してたから。…丸山さん、レジ閉めます」
 『蛍の光』と閉店のアナウンスが流れていた。野宮君がレジのキーを回してボタンを押すと、ガシャンガシャンと大きな音を立ててレジがペーパーを吐き出し始める。レジの上で、くるくると丸まる白い紙。ラジオに背中を押され、ふらふらと歩いてエレベーターに乗り、一階まで降りて外へ。大通りの角を曲がって通用口の脇に立つ。搬入口の屋根の下で雨を避けた。
 空木秀二のことで、と言った途端に、二人の間に緊張が走った。
 ───心臓がどきどきする……
 遠山さんは軽い気持ちで『木霊』を見て欲しくないのだとラジオが言った。
 ≪運命のいたずらってやつか≫
 ガシャン、ガシャン、と大きな音を立てて、『北天』の巨大な雪の結晶の歯車が回り始めた───くるりと輪を描いて回る白い紙のように……
 レジの音が耳から離れない。
「………ツッ」
 一瞬、ラジオがどこか痛そうに顔をしかめた。
 何だろう、この不安、動悸───予感だ。
 怖い。
 通用口から野宮君が出て来た。
「さっき連絡したから。もうじきここに来る」
 それきり、二人は黙り込んでしまった。緊張感がますます高まっていく。彼らの波動を、痛いほど感じていた。
「…来た」
 私達(あるいは野宮君)を見つけた彼女は、微笑んで私達に近づいてきた。赤く染めたベリーショートの髪と、シンプルなデニムのワンピース。目の前に立った彼女の肌は透き通るように白く、頬にうっすらとそばかすが浮いている。赤い傘を畳んで私達の前に立つと、真っ黒の瞳が私を覗き込んだ。
 ───可愛い。
「可愛い」
 そう言ったのは彼女の方だった。華奢な手を私の肩に寄せて耳元の髪を掬う。思わず体がびくっとして、ふらりと一歩後ずさった。ラジオの手が私の両肩をつかんで支えた。私は、自分がずっと震えていたことに、この時やっと気づいた。
「ごめんなさい」
 彼女は手をひっこめて……言った。
「うさぎみたいだったから」
「うさぎ?」
 私の疑問を、野宮君が代わりに口にした。
「うん。うさぎの耳。可愛い」
 そう言って彼女は野宮君を見上げた。野宮君が真顔で私を振り返る。
「うさぎの、耳」
 後ろからラジオも背を丸めて私の顔を横から覗き込む。私は何が何だか判らず、困り果てて「何のこと?」と訊ねた。
「ミオさんにうさぎの耳が生えてるんだって」
「ええっ?」
 思わず両手で耳を隠した。……手のひらに触れているのは、普通の耳だ。
 ───どうして……
 ラジオは後ろから肩をつかんでいた左手を前に回して私を抱き寄せ、「この辺?」と右手で耳の辺りの髪をつまんで真面目な顔を近づけた。
「……何すんのよこのひとピー!」
 肘打ちを喰らわせると「イテェ」と離れ、ラジオはみぞおちを押さえて地面に転がった。
「こんな凶暴なうさぎなんて聞いたことがないよ。そ、それにひとピーって…あはは」
「ひとピーって呼べって自分が言ったんじゃないの」
「ひとピー……ははははは」
 野宮君もビルの植え込みに倒れるようにして笑った。「腹筋イテッ……」
 頭から湯気を出して(これも私がそう感じているだけのことである)笑う二人を、彼女はきょとんとして代わる代わる見ていた。
 いつのまに───先刻までの緊張感が消えていた。彼女が現れただけで、辺りの波動が変わったのだ。
「野宮君、そんなに笑っちゃ失礼だよ」と彼の肩を叩く彼女をじっと見つめた。
「逢坂さんも。びっくりさせちゃだめだよ」
「うん。そうなんだけど。つい」
 ラジオはようやく起き上がって、地面に座り込んだまま苦笑した。……何が、つい、だ。
「ごめんね。ミオさんが震えてたから、つい」
 そう言われると怒れない。私は「もういいよ」とうなだれた。…殴ったし。大きく溜息を一つ吐いて、気持ちを切り替える。前髪を掻き上げながら顔を上げた。話を伺う者として、先に名乗った。彼女はにっこりとして、軽い会釈とともに言った。
「空木梢子です」
 思わず目を見張った。空木……
 ラジオと野宮君が立ち上がって顔を見合わせる。
「どっち行く?」
「西口」
 傘を開いて先に立って歩き出す野宮君の横に、梢子さんがスッと並んだ。ラジオが小声で「行こう」と私を促す。呆然と頷いてついていった。
 ≪パソコも空木秀二に出逢ってしまったってことだよ≫
 ───遠山さんの言った意味がやっと判った……
 空木秀二の絵と出逢うことは、空木秀二その人と出逢うことだったのだ。