霧雨。
 音もなく吸い付いてくる無数の細かな雨粒が私の髪や頬で集まって、水になる。
 水を纏って歩く私を、緑の匂いが振り返っていった。風。夏の始まりはいつも、擦れ違いざまに鮮やかな印象を残してゆく。空から落ちて来た雨は風に舞い上がり、戸惑ってまた落ちた。頬を水が伝い流れた。
 靖国通りから折れて坂道を上ってゆく。向こうに見える緑。学生達の集まる領域はその先で、ここにはまだひとけがない。駅への近道を選んだつもりだったが、それともどこかで雨宿りでもしようかと考えた。道の先に看板はないかと見遣った時、誰かが後ろから私をスッと追い越していった。
 それは淡いオレンジの影だった。雨に際立った柑橘の香りを残して、風のように私の横をすり抜けて走ってゆく───オレンジのフーデッドコートから伸びるジーンズの細い脚。子供のように軽やかに駆けてゆくコートの背中が、向こうの緑に映えて鮮やかだった。
 まるで、ルビーグレープフルーツ。
 雨宿りのできる軒先でも…と、私はまた道の反対側を見る。目を戻すと、オレンジのコートの人の姿はなかった。曲がり角はまだ先だ。
 消えた……?まさか。
 その人が見えていた辺りまで来ると、ふいにコーヒーの香りがして足を止める。昔からここにあるらしい古い花屋の横に、見過ごしてしまいそうな地下への階段があった。そこからコーヒーの香りが立ち昇ってくる。私は周囲を見回した。看板も何も出ていない。
 その時、誰もいなかったから……私は階段を降りてみた。何があるのかちょっと見てみるだけ……と思いながら、足音を忍ばせる。悪いことをしているような気がした。
 地下にはガラスをはめ込んだ扉があった。目の高さにポストカードが収まるサイズの額が掛けてあり、黒い紙に白い絵具の達者とは言い難い文字で、こう書かれてあった───『六角屋』。
 やはり喫茶店なのだろう。それにしても何というやる気のなさ……ドアノブに手を掛けて私は思った。ノブは今にも落ちそうに首を垂れて、ドアを開けようとすると手の中でガチャガチャと音を立てた。ノブを回さなくてもドアが開くということが判ったのは、一分もそうしてからだ。
 扉の向こうは細長い廊下だった。天井に一つしかない明かりは薄暗く、右手の壁に小さな照明が三つ点って、その下にはそれぞれ小さな額が掛けられていた。どれもエッチングだ。私は一枚一枚観賞しながらゆっくりと廊下を進んだ。左手の壁のいちばん奥にある扉が開いていて、明かりが淡く洩れている。そこから少年のような幼さを残した声が聞こえていた。
「───青いんだよ?顔色が青いとはよく言うけど、もう、絵具の水色みたいな色なんだって。考えてみればおかしくて笑っちゃうんだけどさ、彼が言うには、『顔がブルーであることには実は大した意味はない。画面全体の色彩の中での効果を狙ってのブルーであって、たまたまそれがあの色だったんじゃないかと』。で、『あまりに異常と思える…本来なら怖いシーンで笑っちゃうような…ブルーを選択するという、そこに彼のこだわりがある』って言うんだ。だから『表現手法としてのホラー』。『見せ方としてはあんまり巧くない。七十年代から八十年代といえばホラーの傑作が続々と生まれていた。そこまで到達していないのは、彼が撮りたかったのはホラーじゃなかったからだと思う』ってさ。だからその監督のファンとしてはその映画が観たくて仕方ないんだけど、子供の頃に雑誌の写真で見たブルーの生首が怖くてどうしても観られないんだって。……ふふっ、ブルーの生首だって。生首のことブルーって言う?」
 入口からすぐ左手にL字型のカウンターがあり、客はこちらを向いて座るようになっている。黒いTシャツの彼はカウンター席に着いていて、そこで言葉を切って私を見た。傍らの椅子の背に掛けたオレンジのコート。
 先刻のルビーグレープフルーツだった。
 店内の明かりはカウンターの中だけ点され、そこには肩までの長髪を後ろで括った背の高い男性が一人いた。白いワイシャツに黒のエプロン。カウンター近くの丸テーブルと椅子がぼんやり浮かんで見える他にはフロアは真っ暗で、どこまでも続く深い洞窟のように見えていた。
 それは異様な光景───でもあった。
 客席から見る舞台。あるいはスクリーンに浮かぶブルーの生首。
 長髪の男性に「いらっしゃい」と言われて、私はようやく「お休みですか」と掠れた声を発した。
「いいえ」
「あの…、いいですか」
 私は真っ暗なフロア───テーブル席があると思しき闇───を指差した。長髪の男性が黙って壁に手を伸ばす。天井のライトが二つ点って、Tシャツの彼の後ろの席が明るくなった。店内全体を明るくする気はないらしい。壁際の席。私はそこへ行って椅子を引き、壁に背を向けて腰掛けてジャケットを脱いだ。
 そうして、思いがけなく店内が狭いということが判った。壁の腰板の色は歳月を経て深く濃く、上半分の白い漆喰の壁面にぽつんぽつんと小さな絵が掛けられている。外の廊下と同様、絵の上にはスポットとなる小さなライトが備えられていた。そして、入口のドアやカウンターの正面にあたる壁は腰板の上が真っ黒に塗り潰されている。それでどこまでも続く闇のように見えていたのだ。
 Tシャツの彼が立ち上がってカウンター脇の収納庫の扉を開ける。ハンガーとタオルを手にして私に近づくと「ジャケット、濡れているでしょう。皺になりますよ」と言ってニコッと笑った。テーブルにタオルを置いて手を差し出す彼に礼を言ってジャケットを渡すと、彼はそれをハンガーに掛けて歩き、私の斜め後ろの壁に向かったかと思うと、そこにあった絵を外した。絵を掛けていたフックにハンガーを吊す。
「何てことするんだ」
「だって遠山さんには上着を掛けるなんて発想がないから、掛ける所がないんだもの」
 二人が笑い合って言うのを、俯いて聞いていた。目の前のタオルは粗品らしく、青い文字で『森宮生花店』とプリントされていた。私は一階の花屋のガラス戸にも剥げかかった金文字でそう書かれていたのを思い出した。タオルの上に手を置いて「これは?」と訊ねると、彼は「髪」と短く答えて自分の髪の毛先をつまんで引っ張った。濡れた髪を拭けということなのだろう。
「ご注文はお決まりですか」
 モカ、と私が言うと彼は「はい」と答えてカウンター席に戻った。別にそれを伝えるわけでもない。カウンター内の男性…遠山さんにも聞こえたのは判っているが、露骨な商売っ気のなさに半ば呆れた。
 遠山さんは豆挽き機の横の棚から小さなコーヒーミルを取ってカウンターに置いた。彼の手の中でそれは玩具のように、とても小さく見えた。ひとり分を計った豆を入れると、Tシャツの彼がコリコリと挽いた。カウンターに左腕を載せて横向きに凭れ、右手でハンドルを回す。コリコリという音が、静かに、流れるように聞こえてくる。彼が小声で言った。
「気持ちのいい音だな」
 私は髪を拭きながらそれを聞いて、まるで静けさを聞くようだと思った。
「しじまの音は気持ちがいいね」
 同じことを思ったのか───彼はそう言ってふふっと笑った。そして沈黙。
 静けさの中で息をひそめる。じっとしているのもつらいので、私はバッグからノートパソコンを取り出した。文庫本もあったが、読むには明かりが足りない。電源を入れるとハードディスクが起動するカリカリという音がやけに大きく聞こえた。心地よい静けさを破られてか、彼は「はい」と立ち上がってミルを遠山さんに返すと、くるりと身を返してこちらを向いた。暗いフロアを、テーブルを避けながら歩いて「暗いでしょう」と壁の照明を次々と点けていった。店内の様子が見て取れる程には明るくなった。
 無秩序に並べられた丸テーブルは五つ。各々、椅子が三脚ずつ。
 そして、奥の黒い壁の中央に、ぽつりと点が浮かび上がった。あれは何だろう───私は仕事にかかるのも忘れてそれを見た。
「遠山さん」
 彼が言って、突然奥の壁際の明かりが点された。
 黒い闇から浮かび上がった色彩。
 壁は一面の濃紺だった。
 中央に赤い点がある。点を中心に、いくつも描かれた白い弧が、まるで回転しているように見え、星の運行を捉えた天体写真を思わせた。目を凝らすと、濃紺に塗り潰されたように見えた部分にも、濃淡で何か描かれている。赤い点を中心に、まるで六角形のガラスを置いたよう……そこから空全体へ走るガラスの枝の影……雪の結晶だ。
 彼は絵全体を捉えようと壁から離れて入口の前に立ち、じっと絵を見つめていた。巨大な結晶に目を奪われていると、コーヒーが運ばれた。遠山さんは何も言わずカップをパソコンの横に置いてカウンターに戻った。それを目で追うと、カウンターの上には一客のカップがあった。……Tシャツの彼は、客だったのである。
 豆を挽いたりするからアルバイトの学生かと思っていた。それにしては怠惰だとも思ったが、いずれにせよ、客商売とは思えないあしらいに気分を害した。早く飲んでしまってさっさと出よう。砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、味もよく判らないまま口にした。
「雨足が強くなった。…帰れない」
 そう言って、Tシャツの彼はカウンター席に戻った。その言葉に私は上目でドアをちらりと見た。目を伏せて耳を澄ます。
 パソコンの微かなブーンという音が耳鳴りに変わるような静寂───雨音も聞こえない。
 地下の店。廊下と地上への階段。雨音は届きようもなかった。私はパソコンを起動した手前、思いついたほんの数行の短い文章を書いて保存し、電源を切った。残りのコーヒーを急いで飲み干す。まだ少し熱かった。ごちそうさまでした、と壁に掛けたジャケットをハンガーごと取ってレジに向かう。遠山さんは私を見て、次にカウンター席の彼を見た。Tシャツの彼は何も言わず立ち上がって収納庫の扉を開け、何か探しながら言った。
「傘、ある?」
「あると思う?」
「ないと思うけど一応訊いてみた。僕はいいんだけどね」
「俺も屋根の下から出ないし。…あ、上行って取ってくるわ。ここ頼む、ラジオ」
「うん」
 遠山さんがカウンターを出て、ラジオと呼ばれた彼は私に「ちょっと待ってくださいね」と言ってニコッとした。手にはビニール袋を持っている。
「パソコン」
「…え?」
「外、すごい雨だから。念のために入れていった方がいいですよ。ゴミ袋だけど」
 ラジオが大きなゴミ袋を広げ、私はバッグからパソコンを出してそれに入れた。彼はふっと笑ってカウンターに入るとレジを叩いた。
 ……やっぱり、バイトの人だろうか。
「何で客にこんなことやらせるかなあ」
 私の疑問に答えるように彼は言ってくすくす笑う。
「払わないで逃げちゃおっか」
 私を見るラジオの大きな丸い目は、真っ黒の瞳と青く澄んだ白目のコントラストが強い、とても印象的な目だった。声と同じく、あどけない少年のような顔が、思いがけない高さにあった。絶句する私に彼は肩を震わせクククと笑うと、視線を奥の壁の絵に投げて言った。
「ダメ。あんな大きな眼が見てる」
 ───眼?
 遠山さんがワイシャツの肩を濡らして戻って来た。「ほんとだ、土砂降り」とラジオに言う。私が会計を済ませたのを見て、「はい」と黒い傘を差し出した。
「すみません。お借りします」
「いえ」
 一礼して店を出た。廊下を戻って扉を開けると、ザアーッという雨音の激しさに驚いた。階段を雨水がじわじわと流れ落ちて来る。本当だ、と思って……私は店の方を振り返った。
 遠山さんも私と同様、この扉を開けるまで、雨音が聞こえなかったのだと気づいたのだ。
 けれど彼は傘を取りに出て行き、ラジオという人はビニール袋を用意した。
 呆れるほど商売っ気のない店だな、と私は階段を上って傘を開いた。
 彼らは終始、私を客だと思っていなかったのである。