陸橋の上から線路を見下ろしていた。背後を誰かが声高に話しながら通り過ぎてゆく。
「一本吸ってみる?絶対うまいって。二、三本やるよ」
 その声に、僕は小さく笑った。振り向くと高校生くらいだろうか、あんな大きな声で煙草の味の話をするのだから、まだ吸い始めたばかりなんだろう。この頃では高校生が制服姿のまま煙草を吸って歩いている。僕はこっそり吸ったものだけど。背を丸めて欄干に凭れ、再び線路を見下ろすと、足の下を列車が駅のホームに滑り込んだ。




「あれ…、煙草なんて吸うの」
 話し疲れた頃、山崎がジャケットの内ポケットから取り出した煙草をテーブルに置いたのを見て訊ねた。彼はただ「フン」と、返事とも溜息ともつかない音をもらした。
「一本貰っていい?」
「おまえには似合わないからやめとけ」
「何、その基準」
 僕は彼の言葉を無視して一本引き抜いた。チラと周囲を窺い、くわえた煙草の先にライターの火をあてた。煙草の先は黒く煤けただけだった。山崎は「バーカ、吸いながら点けるんだよ」と鼻で笑った。言われた通りにすると、目の前にぽうっと赤い光を灯したように火が点いた。
 きれいだな、とぼんやり見つめた。
「どう」
 山崎がテーブルに身を乗り出して顔を寄せる。僕は指で挟んだ煙草の火を見つめ、薄く煙を吐いて首を傾げた。
「よくわかんない」
「うん」
 彼も火を点けてそう言った。わからないけれど吸っている。「この前見つかって親父とまた喧嘩して」とくつくつ笑い、小声で続けた。
「ざまあみろと思った」
 深く吸い込むと軽い眩暈がして目を閉じた。俺はやりたいようにやる  彼の声は耳にではなく頭の後ろの方で響いた。




 夜中、受験勉強に疲れると僕は大抵、両親が寝静まったのを確かめて庭に出た。サンダルを突っかけた爪先を露が濡らす。風呂場の壁と塀の隙間には子供の頃に使っていた椅子が一脚あって、僕はそこで桜の木と向かい合って座った。部屋で吸うと煙草嫌いの母が匂いをかぎつけるので、煙草を吸いたくなった時はいつもそこで吸った。足を投げ出し、頭を塀に凭れる。立ち昇る細い煙の向こうから、仁史、と呼ぶ声がする。その声があんまり優しかったものだから、僕は照れくさくなってふっと笑った。
   そんなに自分をいじめるものじゃあないよ。
「違うよ」と僕は答えた。けれど、ひんやりした空気、静かに露の降りる気配と虫の音、頭上の星の瞬きと夜の闇、それらはとても優しく心地よく、僕は今にも椅子を蹴って立ち上がり、桜の幹にすがりついてしまいそうになった。そんな青い世界の中で、煙草の火だけがぽつりと赤い。
 僕は小さく首を横に振って、もう一度「違うんだよ」と言った。




 山崎が父親の反対を無視してT美術大学に入学した年、十九の僕はこの陸橋を自転車で越えて予備校に通っていた。その時、僕は息を弾ませ強くペダルを踏んで斜面を登り、今僕が立っている辺りで飽かず足元を往く列車とそのレールを眺めていた十四の僕の記憶を走り抜けた。陸橋のてっぺんで胸の底から深く呼吸する時、いつも思う  僕は行く。
 十四の僕に背を向けて僕は行く。
 そうして今、僕は同じ場所に立って煙草をくわえ、火を点ける。
 吸い込まれるような思いで線路を見つめていた十四の僕と、それを越えて行こうと必死にペダルを漕いでいた十九の僕とを、ひっそりと笑う。
 顔を上げると少し離れて私鉄のホームが見える。僕は欄干を軽く撫でて、もと来た方へと歩き出した。ひと月に一度は実家に顔を見せるようにしているが、この冬は慌ただしく帰れなかった。そろそろ庭の桜の蕾もほころんでいるだろう。彼はいつものようにおかえりと迎え、僕の顔を見て何か言うかもしれない。仁史、と、あの優しい声で。
 上着のポケットを探ってMDを再生する。ここに来るまでに聴いていた歌の続きが耳に流れ込んできた。

   それは3月のせい、きっと満月のせい
 それは3月の、3月のせい
 それは3月のせい、そして体温は不安定
 それは満月の、満月のせい………

 あの晩夏の夜、まだ高校生だった僕にわかったことは、煙草が全身に広がってゆくのが感じられるほど疲れていたこと、そしてそんな僕に優しい世界に泣きたくなるほど唇が淋しかったことだった。





2001.8.31









鈴木祥子「3月のせい」 作詞:只野菜摘・鈴木祥子 作曲:鈴木祥子