入口が自動ドアの喫茶店はダメ、というのが山崎の信条で、曰く「うるさい」。
 駅前から何軒かの店を素通りした。眩しい陽射しに腕がちりちりして、喉も渇いていて、早く水が飲みたかった。ようやく入った店の窓際の席にテーブルを挟んで腰を下ろした。
 僕の向かいに山崎。180センチの細長い体を折って脚を組む。
 ウエイトレスが「いらっしゃいませ」とお冷やとメニューを置いていった。僕らはすぐさまグラスを取って水をごくごくと飲んだ。
 僕の隣に逢坂。彼は脱いだ帽子を膝に載せ、シャツの胸ポケットから新しい煙草を取り出して封を切る。
 グラスを置いた山崎が顔を上げて「…あ」と言った。何、と訊ねると彼は目で僕らの後ろの壁を示す。僕と逢坂は後ろを振り向いた。
「あ、山崎のジンクス」
 逢坂がくすっと笑う。
「ジンクス?」
「クリムトの『接吻』のある店のコーヒーは不味い」
「…そうなの?」と僕はメニューを手にした。
「紅茶も薄い」
 山崎はむっつりと言った。逢坂はくすくす笑うだけだ。僕はオレンジジュースを頼むことにしてメニューを置いた。山崎はそれも見ずに軽く手を挙げてウエイトレスを呼ぶ。
「お決まりですか」
「え…っと、オレンジジュース…」
「コーラ二つ」
 逢坂は山崎が何も言わないうちにきっぱりと「二つ」と注文した。ウエイトレスがメニューを下げて向こうに行くと、二人は僕を見て「あーあ、やっちゃった」とにやにや笑った。
「オレンジジュースも薄い」
「それを先に言えよ!」




「俺、あの絵嫌いなんだよ」
「…そうなの?」
 僕はもう一度『接吻』を振り返った。逢坂が声を落とす。
「クリムトに代表される象徴主義は空木秀二にも影響を与えてると僕は思うけど。それにあの装飾の金や紋様は日本画に通じるものがあると思うけどね」
「だから腹立つ」
「なんだ、嫉妬か」
 微笑で目を伏せた逢坂の吸う煙草の火が瞬いた。
「そんなんじゃねーよ」
 山崎はふいにこちらを向き、「野宮はあの絵どう思う」と訊ねた。僕は「うーん」とオレンジジュースにストローを差して一口飲んだ。……本当に薄かった。
「実は僕もあの金ピカは好きじゃない。でも女性がきれいだよね」
「そう、女性の顔はこちらを向いている」
 逢坂の大きな目が僕をまっすぐに捉えた。
 始まるな、と思ったが山崎が何も言わないので僕も黙って頷いた。彼は両手で『接吻』の男と同じようなしぐさをした。
「彼女の頬にキスをする男の顔は殆ど斜め後ろから見たと言っていいくらいの角度で、彼女の頭を包み込む彼の両手と合わせて、彼は彼女のいわばフレームの役割をしている。男の愛に縁取られた女性像ってところかな」
「装飾過剰な愛だろ」
 顎を上げて『接吻』に視線を投げる山崎に、逢坂はふふと笑った。
「僕もクリムトなら『ダナエ』の方が好きだな」
「『ダナエ』って?」
「スケベ」
 山崎がにやりと笑う。逢坂は「そうかなあ」と苦笑した。
 聞けば『ダナエ』はギリシャ神話に登場する娘で、黄金の雨に姿を変えて訪れたゼウスが見たのであろう彼女の、胎児のように体を丸めた、エロティックな姿態の絵だということだった。
「かわいらしさではいちばんだと僕は思うけど」
「かわいいよな。自分の部屋であれだったら」
 どんな絵か後で調べよう。




「だって『ユーディット』なんて怖いじゃない」
「アフロヘアが?」
 僕が言うとちょうどコーラを吸った逢坂が噴きそうになり、口を手で押さえて背中を丸めた。彼はようやくコーラを飲み込むと「アフロ」とだけ言ってテーブルに突っ伏して肩を震わせた。山崎も「アフロか」と声を殺して笑っていた。
 その絵は僕も知っていた。旧約聖書に描かれる、アッシリアの将軍を誘惑して首を切り落とした女性の絵だ。
「男をダメにする女だよな」
「骨抜き?」
「アフロには誘惑されないだろう」
 僕らはまた声もなく笑った。というか、大声で笑うわけにはいかなかった。
「まあ、好みじゃないと」
「ダナエはかわいいのに?」
「かわいいじゃない、寝顔。……それにね、首に巻いた衣で画面を分断することによって顔を際立たせているからユーディットは怖いんだ。画面の三分の二を半裸の体がしめているにもかかわらず、目はどうしても顔に行く。そして画面の下の隅に描かれた、彼女の持つ男の首にようやく気付くんだ。その時の背筋の寒さ。あの顎を上げて鑑賞者を見る視線と艶かしい表情が、それを予感させる」
「ダメにされると知りながら落ちる男の愚かさよ」
「べんべーん」
 節を回して山崎は言い、それに合わせて逢坂が三味線を引く真似をした。
「ダナエにしろユーディットにしろ、クリムトのエロティシズムは鑑賞者にショックを与える。大胆でファンタスティック。彼女達の輪郭は背景の中に封じ込められて、二次元的な装飾が女性達の美と性と本質を象徴し際立たせているんだけど、そう、正直言って僕にはそれが窮屈にも見える」
「だから嫌いなんだよ」と山崎。「圧迫感のあるくどい装飾。ヴィトゲンシュタインの娘の肖像は違うけどな。あの背景の模様が嫌い」
「それこそもう好みの問題でしかないじゃない」
 逢坂は肩を揺らして笑っていた。僕は「へえ、そんなの描いてたんだ」と……また後ろの絵を振り返った。




「さっきダナエをかわいらしいと言ったけど、それは鑑賞者がゼウスの視点に立つからだよ。画面いっぱいに描かれて、楕円形に体を丸めた彼女の足の先は画面からはみ出してる。そんなのどうでもよくなっちゃうよね、寝顔かわいいし魅力的だし」
「ああ、逢坂は寝顔が好きなんだな根本的に」
「違うよ…。好きだけど」彼は照れくさそうにくすっと笑った。「楕円形のシルエットに収められているのに、『ダナエ』には圧迫感がないから好きなんだ」
「ああ、なるほどね」と僕。
「そしてゼウスの視点に立つことで、カンバスと鑑賞者の間に空間が生まれる。絵と鑑賞者が共有する空間の一部なんだ」
と逢坂は両手の指で四角い枠を作って、そこに『ダナエ』があるかのように表した。頬杖を突いた山崎が逢坂に顔を寄せる。
「そしておまえはダナエしか目に入んねー、と」
「そういうことになるね」
「ああほら、ゼウスって好き者だし」
「…野宮君…」
 フォローしたつもりだったのに、逢坂は笑顔のまま動かなくなった。




「…つまり愛情の対象として魅力的ってことか」
「そう。そうなると『接吻』は愛情の対象としての女性像であると同時に」
 逢坂は僕に向かって真顔で頷き、壁の絵を振り向いた。つられて僕も後ろを見る。
「彼の愛情の凝縮された空間でもある」
「うん」
 抱き合う二人は画面の高い位置に居り、彼女の纏う黄金のショールの房飾りは足の下にまで垂れ下がっている。よく見れば、花を敷き詰めた地面は彼女の足元から切り立っていて、崖の際とも思えるし、あるいはベッドの端なのかもしれなかった。(どちらでも良いのだろうが)
 彼らの顔と手足、つまり肌の部分だけが写実的で、それ以外は平面的な装飾だ。髪でさえ単純化されている。彼らの肌は黄金の衣服に縁取られ、ともすると画面の中に埋もれそうに小さく描かれている。
 しかし目を閉じた彼女の穏やかな表情の美しさが際立つ。
 愛と幸福を象徴する黄金はそのまま彼女の輝きだ。
 二人にそう話すと、山崎は「…まあな」と認めてくれた。逢坂は『接吻』を見つめて微笑む。
「野宮君、彼もまた金の衣を纏ってる。顔は見えないけれど」
「…うん」
 そうして僕が彼女の頬にくちづける彼の横顔の輪郭線を目でなぞっていると、ぼそりと山崎の声。
「でも服の趣味悪いよ」
「おまえも派手だって絶対!」




 空が帰る時間に合わせて彼女の部屋を訪れた。もう通い慣れた駅からの道。途中、打ち水を遣った所から涼しい空気が流れている。ひやりと額を冷やされて、僕は彼女の手のひらを思った。考え込む時に額に手をあてる癖。控えめな笑顔。時に僕を見透かす眼差し。どれもが僕の中で動かし難いものになっていた。はっきりとした輪郭に縁取られて。
 ドアを開けた空は僕が何も言わなくても「うん」と言った。僕が来たことに対しての「うん」。口数の少ない彼女らしいいつもの挨拶。「うん」のたった一言で、僕を肯定し僕を受け入れてくれる。
 僕は靴を脱ぐより先に彼女の頬に触れた。
 もう、彼女は戸惑わない。
 当たり前のように微笑み、目を閉じる。
 それが僕に自信と安らぎの光の衣を与えてくれるのだ。僕もまたこのくちづけが彼女に眩いヴェールをかぶせるようにと願って唇を寄せる。





2001.6.4