- 恋 -

 小椋さんの家を辞したのは日が傾いた頃だった。
「僕はこれから≪睡≫へ行くけど、千鶴ちゃんはどうする?」
 ≪睡≫───また、あの絵を見るのか。『午睡』。綺麗だけれど、どこか───何かが、怖い絵。
 関谷さんは、彼女に会いに行くのかと思うと心臓が痛かった。
 ゆるゆると歩きながら「大丈夫?」と背を丸めて私の顔を覗き込んで、「さっきの話はショックだったでしょう」
「…え?」
「ごめん、千鶴ちゃんには隠してた。関谷一志と縁さんが一緒に飛び降りた事…」
 知っていました、とも言えず、黙って頷いた。
「でもね、縁さんのお父さんが彼に賞を獲らせたいだけなら、死を選ばなくても、賞を辞退すればいい、そう思ったんだ。これは千鶴ちゃんが席を外している時に言ってみたんだけど…」
 ≪……これを仕上げるまでは……せめて恩に報いるだけはしたい≫
 夢の中の言葉を思い出して、私は首を横に振った。関谷さんが足を止めた。
「それは出来なかったんだと思います。…彼は小椋さんに恩義を感じていた筈だから…」
「そうみたいだね」
 関谷さんは軽く頷いて、
「でもそこへ…縁さんの縁談が持ち上がったらしい」
「…縁談?」
 ≪あの人はあなたを商品としか見ていません。私のことも≫
「相手は財界の有力者の息子だって事だった。小椋氏は優れた人材を売り込んで、儲けを図ったんだね。そのために縁さんや関谷一志を利用しようとしていたらしい…」
 あの老婦人が涙を浮かべたらしい……「詫びるのは私どもの方です」と言ったのだという。
「だから、それを伝えに≪睡≫に行くよ」
 そしてまた歩き出す。関谷さんは意を決したように少し早足になった。慌ててついていく。
 小椋さんの家を出る時に、老婦人がスケッチブックを関谷さんに差し出して「どうぞお持ちください。関谷君の形見ですから…お兄さんに」と言ったが、彼は断った。
「それは縁さんの最後の肖像です。お母さんがお持ちになっている方が、マスターも関谷一志も嬉しいでしょう。≪睡≫には『午睡』もありますから」
 老婦人は深々と頭を下げていた。私のいない間にそんなやりとりがあったのか───ありがとうございます、という小声が震えていたのを思い出していた。




 地下鉄のシートに並んで座る。結局、私も≪睡≫に行くことにした。
 関谷さんと、離れがたかった。
 寄せている肩が熱いような気がした。緊張に目を閉じると、瞼の裏に浮かぶ光景があった。
 ───強い風が私達の髪をなぶっていた。コンクリートの冷たい床に両手を突いて座り込んでいると身体が芯まで冷えてゆく。青紫の空の低い所に太陽がある。時間は無意味だった。私達にはもう…時間は要らない。
 何も要らない。
 そう思って彼を見た。私と同じように両手を突いて俯いていた彼に呼びかけた。
 顔を上げた彼の苦痛に満ちた瞳から、涙がひとしずく、こぼれ落ちた。
 私はその頬の、涙の跡にそっと唇をつけた。塩辛い味に私も涙が溢れた。頬を伝い落ちた涙。彼は私の唇の端にとまった雫に唇を寄せてそっと吸った。
 ───いつか見た夢の続き───?
 顔が紅潮するのが判って目を開ける。思わず隣の関谷さんを振り向くと、彼もこちらを見て、私が赤面しているのに気づいたのか「大丈夫?」と静かな声で訊いた。はい、と頷きながら、私がくちづけた所にほくろがあることに気がついた。それが余計に恥ずかしかった。




 ≪睡≫に着いて、関谷さんと二人、『午睡』に目を向ける。胸がちくちくする。暫し動かずに彼女───縁さんを見つめる関谷さん。彼女にとられてしまうと思うと悲しかった。
 夢の中で、私が縁さんになっているから───
 私にとって、私は彼女。すると関谷さんが見ているのは私ということになる………いや、ならない。絵の中にいるのは、私じゃない。紛れもなく縁さんであり、彼の言葉通りなら、彼が好きなのは『彼女』なのだ。自分がこんなに嫉妬深いなんて知らなかった。今にも泣きたいくらい、私の頭は少し混乱していた。
 茜さんがココアを練りながら「で、スケッチは見られたの?」と尋ねた。カウンター席に並んで腰掛ける私達。関谷さんが傍らのスツールにコートを置いて「はい。…小椋さんから言伝で」と、老婦人が詫びていたことを話した。茜さんとマスターは顔を見合わせて、困惑の表情を浮かべた。───茜さんは関谷一志の死を事故死だと思っている。ミルクを鍋に注いでかき混ぜながら、茜さんは「誰にもどうしようもないのにね」と呟いた。
 ≪関谷があんな亡くなり方をして、止められなかった事を心のどこかでずっと悔やんできたんですね≫
 守屋さんの言葉が思い出された。
 止められたかもしれない───
 それは、二人が結ばれない運命だったからだけではない気がした。
 縁さんが言ったという≪彼を独りで逝かせたくなかった≫という言葉には、関谷一志が『独りで逝こうとしていた』ということが窺えた。
 縁さんを愛していた筈なのに……なぜ?彼女を独り残してゆくような───
 目の前に、静かにココアのカップが置かれた。茜さんが心配そうに私の顔を覗き込んで「大丈夫?」と尋ねた。はい、と頷きながら、今日は何度、大丈夫と訊かれただろう……と思った。胸がざわざわと疼くのに、それを頭が認めたくない、そんな感じだった。───認めたくないのは。
 ≪地面にこう、穴が空いていてそこを覗き見てる≫
 ≪ねずみの国があるかもしれないし、ジュール・ヴェルヌが書いたような地球の胎内かもしれない≫
 ≪地獄かもしれない。それは僕にしか判らない事≫
 そう、それは───和志さんにしか判らない事。つまり一志さんにしか判らないのだと。
 認めてしまえば、私は縁さんにはなれなくなってしまいそう………夢の中だけの事だけど。私は縁さんとして、かずしさんに愛されている、その夢が、目を覚ますように消えてしまいそうだった。
 気がつくと私は三人に注視されていた。ぼんやりとして、ココアにも手をつけていない。「え?」と目の前の茜さん、その横のマスター、隣の関谷さんと順番に見た。
「あんまり大丈夫じゃないみたいね」と茜さん。私は「いえ、すみません…」と知らず頭が下がった。こんな時こそお酒を飲んで、そんな愚かな考えも、全部酔ったせいにしてしまいたいと思った。




 月曜日はブルーとはよく言ったものだと、朝起きて思った。今日は夢を見なかったな……壁の『夜』に目を遣って、ちくんと傷んだ胸に関谷さんの笑顔が浮かんですぐ消えた。
 朝からため息ばかり吐いていたせいか、学校でも「大丈夫?」と訊かれてしまった。涼子が「今日、おかしいよ、千鶴」と言いながら、カップのお湯の中のティーバッグを揺らしている。ここは司書室。いつものように、放課後のお茶の時間の事だった。
「…もしかして、関谷さんの事?」
 速い直球を投げられて見逃したバッターのように、動けなかった。「図星か」と涼子はお茶の色を見てティーバッグを引き上げ、シュガーポットと一緒にカップを差し出した。受け取って「うん」とやっと言えた。
「今日、バレンタインだから?」と言われて思わず「えっ?」と訊き返してしまった。
「そうだっけ?」
「忘れてたの?なら、何を悩んでたの」
 ずっと『午睡』───縁さんと関谷さんのことで頭が一杯で、忘れていた。中川さんが大きなお菓子の缶を開けてテーブルの真ん中に置いた。アソートチョコレートだった。私と涼子がそれを一つずつつまんで口に入れる。「駅前の洋菓子屋さんで売ってるから速攻で買っといでよ」と言われた。また「えっ」と言ってしまう。「私だってほら」と中川さんはリボンを掛けた小さな包みを手にして振った。涼子がふっ、と吹いて笑った。
「野本先生にですか?」
「まあね?常連さんだから。今日来たら渡すけど来なかったら自分で食べちゃう」
「義理なんですか?」
 中川さんはふふっと笑うだけで答えなかった。
「来ないわけないじゃないですか」
「今日、返却日じゃないし」
「よーし、来る方に賭けます」と涼子が言うと中川さんは、あは、と笑って「何を賭けるのよ?」と涼子の隣に座った。
「勝ったら今日、千鶴がチョコ買って関谷さんに渡しに行くってのどうですか」
「乗った。来なかったら、片岡さんが野本先生にこのチョコを渡す」
「何で私が!」
 二人は楽しそうに笑った。人の気も知らないで……がくりと頭を垂れた。頭の上で中川さんの声がした。
「私もね、迷ってるのよ」
 ゆっくりと顔を上げると、中川さんの照れたような、困ったような笑みがそこにあった。
 もしかして───本当に、野本先生が好きなんじゃないか。
 コンコン、と音がした。図書室のカウンターの方から───と見ると、噂をすれば影。やっぱり、野本先生がカウンターをコンコンと叩いていた手を挙げてひらひらと振った。返却日ではない本を持って来ていた。
 中川さんは、チョコの包みを置いたままで先生の方に向かった。「あ、チョコ…」と呼び止めたが行ってしまった。野本先生とのやりとりが聞こえた。
「この前頼んだ本、入りましたか」
「お取り置きしてありますよ」
「ありがとうございます」
 沈黙の間が空いた。野本先生は『お取り置き』の本を手にしてパラパラとページを繰った。中川さんは黙ってそれを見ていた。私と涼子は顔を近づけてカウンターの方を覗き込む。「ん、ありがとう」と言うと野本先生は本を抱えて図書室を出て行った。中川さんが戻ってきた。チョコを一つつまんで口に入れ、黙ったまま椅子に腰を下ろした。
「来たら渡すんじゃなかったんですか?」と涼子。
「……」中川さんは黙って頷くだけだった。
「…私、これ渡して来る!」
 思わずチョコの包みを掴んで、私は慌てて野本先生の後を追って司書室を飛び出した。
 中川さんも迷ってる───困った笑顔が綺麗だった。伝えなくちゃ、先生に……
「野本先生ー!」
「はいほい?」
 先生が呑気な声で振り返った。片手で本を担ぎ、もう片方の手は白衣のポケットだ。両手がふさがっているのを見て、どうしよう、と思った。とにかく渡してしまえ。
「これ」
「ふん?」
 私が差し出した包みを見て、先生は「悪いけど、生徒からは貰えない規則だから」と言った。
「中川さんからです」
「……マジ?」
「マジです」
 野本先生は眼鏡の奥の目を丸くして暫し包みを見つめていた。ふいに「ふっ」と笑いを洩らして俯いた。首を傾げてその顔を覗いてみると───ふにゃり、という感じで目尻を下げ、口元は笑いを堪えてひきつっていた。照れているのだと判るのに数秒かかった。
「ありがとう、いただくよ」
と私の手から包みを取り上げ、また「ふっ」と笑うと、くるりと背を向けた。何だろう?と思って一歩前に出て、また顔を覗き込んだ。野本先生は顔を赤くして、必死に照れ笑いを堪えていたのだった。
「…そのリアクション、まんま中川さんに伝えますからね」
「ああ、それはやめて。…ありがとうって言っておいて」
 じゃあね、と先生は踵を返し、すたすたと急ぎ足で去っていった。私も廊下を早足で引き返した。早く中川さんにこのことを伝えたかった。




 結局、賭けは涼子の勝ちだった。負けでも中川さんのチョコを野本先生に渡す事になっていたのに、私は関谷さんにチョコを贈らなければならなくなった。半ば強制的に駅前の洋菓子店に連れて行かれ、生チョコを買って、関谷さんの居る書店に向かう。私が逃げないように涼子もついてきた。
 何て言って渡せば良いのだろう。
 ずっと隠してきた気持ちを───言える筈がない。
「だいたい、関谷さんには『職場』なんだから、人前で渡せないよ…」
 そう、ごねてみた。
「今日、この後の予定を訊いてみて、待ったら?」と涼子は涼しい顔だ。私は「駄目だよ」と駅からの坂道の途中で足を止めた。人混みの波が私達二人を避けて通り過ぎてゆく。私は坂の下の向こうにある書店の中で、エプロン姿で働く関谷さんの姿を思い浮かべた。───きっと迷惑だ。だって……
「……関谷さんには、好きな人がいるから」
「…嘘。…え?本当に?」
 驚く涼子に私は頷いた。涼子はすぐそこのコーヒーショップを指差して「ちょっと詳しく聞かせてくれる?」と尋ねた。うん、という言葉が声にならなかった。頷くだけで、揺すられた目から涙が出そうだった。
 そうして、私は涼子に初めて『午睡』と関谷さんの関係を話した。
 『同じ名前の夭折の画家、関谷一志』の遺作。それを見た関谷さんが毎週『午睡』を見に≪睡≫に通っている事、絵を描けなくなった関谷さんが次の作品のモデルに縁さんを描きたいと言った事、彼女を好きだと言った事。
 涼子は頬杖を突いて「うーん」と少し考え込んで、「でもさ」と口を開いた。
「その人は亡くなってるんでしょう?好きになってもどうしようもないじゃない。生きている千鶴の方が強い想いを持ってる筈だよ?その事に気付かないような人じゃないと思うけど、関谷さんって」
 強い想い───
 それは繰り返し見る夢。私に何か訴えるように、縁さんが私に見せ続けている。自分が関谷一志を愛していた事、彼もその想いに応えてくれた事。『午睡』に込められた、二人の想い。
 自分が恥ずかしかった。涼子の一言で、自分の気持ちに改めて気付かされたのだ。
「……私ね、夢を見るんだ」
「夢?」
「夢にかずしさんが出てくるの。私をモデルに『午睡』を描いているの。でも顔は本屋の和志さんで……その人が、亡くなった一志さんなのか、生きている和志さんなのか、判らないの。自分が好きなのはどっちのかずしさんなのか、判らない…」
「……」涼子は小さく頷いた。
「もう何度も同じ夢ばかり見るの」
「それってさあ…」
 涼子がカフェラテを軽くかき混ぜながら言った。
「二人とも、亡くなった人に縛られてるって事じゃん」
「……」
「今、生きている二人の気持ちが一番大事だと思うな。今はさ、二人とも亡くなった人を想ってるかもしれないけど、千鶴は『どっちが好きか判らない』んだよね?という事は、本屋の関谷さんも好きって事でしょう。その気持ちを大事にしてごらんよ。亡くなった人に縛られているのが解ける筈だよ」
 そう言うと涼子は私の目を見つめて微笑んだ。
「中川さんのチョコを野本先生に渡しに走っていくような千鶴の事、関谷さんも好きだと思うな」
「えっ?」
「んー、好きになる、と思う、かな?」と涼子はふふっと笑った。
「人の為には走れるのに、自分の事となると足踏みするんだよな、千鶴は。さっきの勇気で今度は関谷さんにチョコを渡す。できるよ、きっと」
 自分の事となると足踏み。
 私は、良い友達を持ってる……そう思うと胸がじんとした。涼子が私の胸にもやもやとしていた雲を晴らしたような気持ち。
 初めて会った時、私が手を怪我したと思って手を取った関谷さん。
 次に画廊で会った時に、自分の作品に値を付けなかった関谷さん。
 それから本屋で私の泣きそうな顔を見て、お茶に誘ってくれた関谷さん。
 私の涙を拭ったマフラーを首にぐるぐると巻いてくれた関谷さん。
 電車の中から、笑顔で手を振る関谷さん。
 私にやつあたりをしてすぐ、ごめんと俯いた関谷さん。
 高い所が怖いと言ったら、私の前を歩いて階段を降りた関谷さん。
 二学期の成績が上がった話に嬉しそうだったという関谷さん。
 指先にインクを付けて、描いてるんだと喜んだ私に、笑っていた関谷さん。
 大丈夫、と何度も訊いた関谷さん。
 ───関谷和志という、生きている人。
 やっぱり、好きだ。
 関谷一志と面影が重なる───けれど、夢の中でさえ、顔は関谷和志という人のものだった。
 涼子の言葉で、私は一度にいろんな場面を思い出した。涼子は黙って私が何か言うのを待っているようだった。本当に、友達って有難い。
「……チョコ、渡すよ」
「うん」
 涼子はニコッと笑った。
 それからコーヒーショップを出て、関谷さんのいる本屋に向かう。涼子は「私が居なくても大丈夫よね?」と言って、予備校に行くからと駅で別れた。遅刻させてしまった。涼子の存在が、有難くて、頼もしくて、私は今なら勇気を出せると思った。
 本屋に入って三階へ。関谷さんがレジカウンターの向こうに居るのが見えた。さて、どうやって渡そう……仕事が終わるのを待っていたら、いつになるか判らない。かと言って、他の人達の前でチョコを渡す訳にもいかなかった。どうしようどうしよう、と本棚の間をぐるりと回っていたら、いつ私に気づいたのか、関谷さんの方から「千鶴ちゃん?」と近寄ってきた。予定外の展開に一瞬、頭が真っ白になった。
「何か探してるの?」
「は、いえ…」と自分の頭がだんだん下がっていくのが判った。頭上でクスと関谷さんが笑った吐息が聞こえた。
 さっきの勇気。
 チョコを受け取った野本先生を思い出した。子供みたいな照れ笑い。
 関谷さんも笑顔で受け取ってくれるだろうか───
 ドキドキと早鐘を打つ心臓が口から飛び出しそうだった。
「ちょっと…渡したい物があって…ここじゃちょっと…」
「ああ」と関谷さんはそれがチョコだと判ったようで、後ろを振り向きレジカウンターの方を見た。「ここでも大丈夫だよ、僕の事は気にしないで」
「……」
 そうだ、今日がバレンタインデーなんて忘れていたのは私くらいで、関谷さんはもう、チョコを貰っているに違いない……と思った。職場なら義理チョコだろうけど、きっとたくさん貰っているのだろう。
 そんな、他の人と一緒にしないで───
 私は鞄からチョコの包みを取り出した。次の言葉と一緒に口から飛び出した心臓が爆発したかと思った。
「義理じゃありません」
 もう、関谷さんの顔を見る余裕なんてなかった。目をぎゅっと瞑って包みを差し出した。手が震える───
 私の手から包みが離れたのが判って、薄く目を開けた。関谷さんは、困惑の表情を浮かべていた。
 ……そんな顔しないで───
 小さくかすれた声が洩れてしまった。
「好きです」
 その後の事は、もう混乱していて曖昧だ。私は「あ」と口を手で押さえて、「すみません!」と頭を下げると、脱兎のごとく、逃げ出したのだった。

-Next- -Back-