- 扉 -

 ───これが最後だよ
 彼はそう呟いて、カンバスの縁をゆっくりと撫でた。絵の具がその指先を染めている。
 それでもいい? と彼は訊いた。はい、と答えた。
 もう父の言いなりは嫌なんです。私は道具じゃない……
 眼の中で涙が膨らむのが解った。彼は目を逸らして俯いた。
 あの人にはお世話になった。それは確かだ
 あの人はあなたを商品としか見ていません
 ………
 私のことも
 ……これを仕上げるまでは……せめて恩に報いるだけはしたい
 彼は目線を私に向けた。その目はとても悲しげに見えた。




 まるで水の底から浮かび上がるように意識がはっきりしてきた。目を開けると涙が目尻から耳の中へとこぼれ落ちた。見覚えのある部屋だ───そうだ、ここは茜さんの部屋だ。お酒なんて飲んで酔って……何たる醜態。関谷さんにしがみついたのを思い出して顔が熱くなった。お酒は二十歳になってから、というCMの注意書きが脳裏に浮かんだ。
 何だろう、とてもリアルな夢だった……
 おそらく関谷一志───和志さんの顔をしているけど───が、『午睡』を最後の作品と決めていたのだろう、と思わせる夢だった。
 ≪転落…いえ、投身…≫
 守屋さんの言葉が耳に残っている───だからこんな夢を見たのかもしれない。
 なぜこんな夢を見るの……?
 自分が誰なのか混乱しそう。
 私は布団の上に半身を起こして、はあと深いため息を吐いた。そうしないと、現実に戻れなかった。
 布団を畳んで階下の店に降りた。関谷さんと茜さんが同時に「大丈夫?」と訊いた。はい、ご迷惑おかけしました、と答える声が掠れた。上手く喋れない。関谷さんが「送っていくよ」と立ち上がってコートを手にした。
「ありがとうございます、近々訪ねてみます」
「お許し下さいと詫びていたと伝えて下さい」
 マスターの言葉に関谷さんは「はい」と答えた。
 ───お詫び?
 空になったウイスキーのグラスの横のメモが目についた。関谷さんがそれを手に取る瞬間、文字がちらっと見えた。『目黒区』。どこの住所だろう───
 酔いのさめた頭に、浮かんだのは午睡に描かれた窓越しの桜の庭だった。
 駅までの道々、ゆっくり歩く。遠くに見える神社の鳥居。街灯の光にキラキラと吐く息が白く、鳥居の方へ漂っていく。私はまた緊張でどきどきしながら訊いてみた。
「訪ねるって、どこですか」
 マスターの「お許し下さい」が胸につかえていた。関谷さんは軽く顎を上げて───上を見たのだろう、「午睡のモデルになった人の家」と答えた。
「関谷一志の事故の時…」と、少し言いづらそうだった。『事故』と言うのは、私がそう言ったから───事実を知らないと思ってのことだろうと思った。
「一緒にいて、その人は助かったけど、後遺症が残ったらしい…」
「………」
 何だろう、この気持ちは……




 冷たい廊下を這って、奧の部屋へ向かう───あの人はきっとそこに居る。枯れ枝のように細い脚にはもう歩く力は無かった。ここはとても寒い───氷のように冷たい廊下。ドアは果てしなく遠く感じられた………




 あの奇妙な夢を思い出した。あれは───
 考えるのが怖かった。小さく、関谷さんに気づかれないように、頭を振ってその思考を追いやった。
「それで、お詫びなんですね…」
「うん」
「…モデルの方に、会うんですか…?」
「いや、亡くなったって聞いて」
 そういえば、そうだった気がする。酔いが回っててうろ覚えだけど………
「だから、『午睡』の習作があれば、見せてもらいたいなって」
「どうしてですか…?」
 暫くの沈黙。鳥居が近くに見えてきた。
「彼女の事を知りたいから、かな」
 そう言ってクスと小さく笑った。
「あの絵を見てから、僕は何を描くにも彼女を思い出して仕方なかった。それで描けなかった…千鶴ちゃんにも心配かけたけど」
 ぴたり。鳥居の前で足を止めた。私も立ち止まり鳥居のしめ縄を見上げた。お参りをするのかな…と思った。けれど関谷さんは俯いて、「今ね」とか細い声で言った。
「彼女を描きたいと思ってる」
「………」
「まだ試作の段階だけど」とため息を一つ洩らして、「『午睡』とは違う…ね、僕なりの愛する女性像」
 ───愛する女性。
 頭の後ろを殴られたような気がした。
 嫌だ、そんなの嫌───
 だけどそんな事を言える筈もなく………私は硬直したように動けなかった。それを感じ取ったらしい関谷さんが、顔を上げて私を見た。
 それはいつか見たような困惑の顔だった。
 あの時───夢の中で、窓からの月明かりに浮かんだ戸惑いと優しさを混ぜた眼差し。
「……彼女が」と私は心臓を絞られるような痛みを感じながら尋ねた。
「彼女が、好きなんですか…?」
「……うん」
 ───まるで夢の中の人を好きな私のようだ。夢に現れる関谷一志。しかし彼は和志さんの顔をしている。だからわからなくなる、この頭痛のような頭と心の痛みが一体何なのか。
 ≪ここには彼女に会いに来てる。黙ってるのは彼女と話をしてる≫
 その言葉の意味を知って、気がついた───夢の中の関谷一志と、現実の関谷さんは、同じ人だ。少なくとも私にとっては。だから夢の中の私はこの上なく幸福であり、この上なく悲しい。それが今、関谷さんを前にして、現実のものとなった。
「…関谷さん」
 思わず知らず、私は言っていた。
「私も連れてって」
 え? という形に、彼は薄く口を開いた。
「私も知りたいんです」
 その言葉を、先程の彼の「彼女のことを知りたい」と同じ意味だと受け取ったのか、彼は動けなくなったように、暫く私の顔を見つめていた。
 知りたい───それが何の事を言っているのか、自分でもよくわからなかった。
 幾度となく見続ける同じ夢。
 和志さんの顔で『午睡』を描く関谷一志。
 関谷一志の転落死と、その時一緒にいたという『彼女』。
 彼女を好きだと言った関谷さん。
 私を混乱させるには充分だった。こんがらがった思考の隙間に疑問が幾つも見えるような気がした。夢の断片を突き合わせれば一枚の絵になるかのように思える。それには疑問を解く必要があった。だが私はそこまで思い及ばなかった。ただ───ただ、見てみたかった。それさえ見れば、何かがわかる気がして───
 夢で関谷一志が描いていた、裸婦の素描を。




 そしてそのすぐ後の土曜日。彼女の生まれ育った家は閑静な住宅街にあった。メモの住所と苗字を頼りに家を探す関谷さんの斜め後ろをついて歩いた。大きなガレージのシャッターの横に重たげな門。表札の『小椋』で「ここかな」と関谷さんが呟いた。
 ピンポンとチャイムを鳴らす。程なくして落ち着いた女性の声で「はい」とインタホン越しに出た。
「すみません、お電話差し上げた関谷と申します」
「…ああ、はい。今、開けますので」
 小さなプツっという音も聞こえる静けさ。門の向こうに人の来る気配がして、ギッと音を立てて門が開いた。銀髪の老婦人がそこにいて、無言で頷くように───お辞儀をしたらしかった。私たちは深く頭を下げた。「どうぞ」とゆっくり、老婦人が玄関の方へと向かうのについていった。
 立派なお庭……丹精されて、今は梅がほのかに香っていた。
 老婦人が居間の扉を開けて「こちらへ」と言うと、関谷さんは「いえ、ゆかりさんにお線香を先に…よろしいですか」と、また小さく頭を下げた。老婦人は無言で扉を閉めると、くるりと背を向け、廊下を奥へと歩き出した。その後に続く。角を曲がると廊下の奥がやけに明るかった。長い廊下───これは夢なのかと目を瞬いた。また別の扉の前で立ち止まり、「こちらが仏間になります」と老婦人が小声で言った。
 扉を開けるとそこは小さな和室で、立派な仏壇があった。花を供えられ、位牌が置かれている。遺影はなかった。顔を見たかった───そう思った。
 お線香をあげて手を合わせる。斜め後ろから、老婦人がこちらを見ている視線を感じていた。私たちが合わせた手を下ろし、頭を上げると、「もうよろしいですか」と老婦人。語気には静かな迫力があった。怒っているかのよう……それを感じたのだろう、関谷さんが「関谷一志のお兄さんが、『お許し下さい』と言っていました」と述べた。老婦人は少し黙っていたが、軽く目を伏せて「もう昔のことですから」とだけ言った。
 そして元の居間に通され、まず紅茶が出された。白い陶器のティーカップ。青い花と果実の模様。マイセンだっけ、と触れるのを躊躇った。立派な家、立派な庭、立派なカップ。緊張でどきどきした。
「縁の遺品のスケッチブックでしたね、お待ちください」と老婦人は居間を出ていった。
 ───『えにし』と書いて『ゆかり』。きれいな名前だ。
 嫉妬してしまいそう……
 関谷さんもカップに触れもせず、膝の上に拳を握った手を置いて、窓から庭を見たり、大きな食器棚やアンティークドールのコレクションなど、部屋の中をゆっくり見回していた。
 やがてスケッチブックを抱えて戻った老婦人が、私たちの向かいに腰掛けた。黙ったまま、スケッチブックを差し出す。関谷さんが「失礼します」と受け取って表紙を見ると、ふう、と小さなため息を吐いた。
 はらり、と表紙をめくる。
 これが縁さんだろう───最初の一枚は彼女の横顔だった。
 鉛筆で形作られた光と影の中で、彼女の横顔は寂しげに見えた。
 1枚ずつ、ページをめくる。
 老婦人は黙ってお茶を飲んでいた。私たちは紅茶に手もつけず、並んでスケッチブックの絵を丹念に見た。最後の1枚にたどり着いて、私は息を呑んだ。
 縁さんは全裸で椅子にもたれ、目を閉じて微睡んでいる───
 これが『午睡』の習作……
 それが夢で見たのとそっくりだったので、私はまた頭を殴られたような衝撃を受けた。いいや、見覚えがあるのは、『午睡』を既に見ているからだ───と、ようやく気づいた。
 関谷さんはその絵に目を奪われている。
 ≪彼女が好きなんですか≫
 ≪……うん≫
 私は嫉妬に駆られ、その絵を見ているのが辛くなった。目を逸らすと、冷めた紅茶が見えた。震える手を伸ばしてカップを取る。一口、ごくんと飲み込んだ。関谷さんがスケッチブックを閉じると、老婦人はそれを待っていたかのように尋ねた。
「なぜ、今になってこんな物を見たかったんですか」
「…実は、関谷一志の『午睡』を見たのは最近なんです。僕が生まれる前の作品ですし、それまで彼の名前も知りませんでした」
「そうですか」と老婦人はカップを置いて、「関谷君───いえ、あなたも関谷さんでしたね───関谷一志。彼は縁の人生を狂わせました」
「……僕も『せきやかずし』と言います。『かず』の字が違いますが」
と、彼は言って、ふっと微笑んだ。それにつられた老婦人も「それはそれは」と困惑の笑みを浮かべた。「縁があなたとあの絵を引き合わせたのかもしれませんね」
 私たちは、黙っていた。
「悪いのは私ども、縁の親です」
 老婦人は静かに───今度は悲しげに言った。
「あの頃は新人の作家さんや画学生がたくさん家に出入りしていました。夫が…もう亡くなりましたが、才能ある若者たちにアトリエを提供して───ああ、奥の部屋です。そうして次々と作家さんを世に送り出していました。画壇でも有力な発言権を持っていた夫が、強引に」と息をついて、「お恥ずかしい話です」と俯いた。関谷さんが「いいえ」と首を横に振った。
「…関谷一志もそうした画学生の一人でした」
「…はい」関谷さんが続きを促すように答えた。
「素人の私にもわかる、才能のある方でした。『午睡』は夫が根回ししなくても賞を獲れたでしょう」
 ───え?
 どういう───
「…『午睡』の受賞は…つまり、ご主人が…」
 関谷さんの声もかすれていた。
「はい。そのせいです。関谷君があんなことになったのも…」
 視界が揺れ始める───あんなこと、それは……
「関谷君が亡くなって、縁だけは助かりました。けれど後遺症で歩けなくなって……愛する人を失って、縁は身体だけでなく、心も人生も───狂ってしまったんです」
「それは違います」と関谷さんが遮った。
「『午睡』の受賞は……彼が亡くなった後のことじゃないですか」
「いいえ、始めから夫がそうすると知ってしまったんです」
「………」
「まだ描きかけの時から」
 老婦人の目が赤い。涙は出ないようだった。もう、涙は枯れ果てたとでもいうように。
「真面目な青年でした。ですから、あの絵を…完成させたんでしょうね。縁に残す為に。けれど縁は言っていました、『彼を独りで逝かせたくなかった』と」




 靴を揃えて脱いだ。素足にコンクリートのざらざらした冷たい感触。風が強かった。爪先から切り立って、地面は遠くにあった。木々があんな低い所に───怖い。
 怖い?
 優しい声。
 固く手をつないだ。
 この人と一緒なら怖くてもいい。
 身体よりも先に心が落ちた。




「千鶴ちゃん」と呼ばれてハッとした。どれほどの間、私たちは黙っていたのか───「顔が青白いよ、大丈夫?」
「あ…はい…」
 額が冷たい───冷や汗をかいていることに気づいた。あれはただの夢ではなかったの……?
 あれは───私だ。
 私にとって、夢の関谷一志と現実の関谷さんが同じ人であるように。夢の中の私は私にとって、……彼女なのだ……
 関谷さんと老婦人が何か言葉を交わしているが聞こえなかった。私の胸でぐるぐると渦を巻く感情。
 ≪彼を独りで逝かせたくなかった≫
 心中───だが彼女は奇跡的に生き残った……
 どれほど、悔いただろう。
 一志さんを独りで逝かせてしまったことを。
 冷たい廊下を這って求めた彼の面影。あの部屋は───廊下を奥に行った所にある筈だ。
「すみません、お手洗いお借りします」
「どうぞ、廊下の先にありますから」
 私はさりげなくを装って居間を出た。廊下を進み、仏間の前を通り過ぎ……お手洗いの戸を確かめて、反対側の壁の扉を見た。奥の部屋がアトリエだと言っていた。今はどうだろう。出資者のご主人が亡くなって、使われていないかもしれない。ドアノブに手を掛けて、深呼吸。ゆっくりとノブを回した。
 扉はあっけなく開いた。夢では鍵がかかっていたが───
 そこは何もない部屋だった。広い、だが空っぽの部屋。大きな窓から陽が差していた。そこから庭に出られるようだ。目が庭に吸い寄せられる。そこには、大きな冬枯れの桜が窓いっぱいに枝を広げていた。
 夢のままの景色が怖かった。
 ここで、かずしさんは『午睡』を描き、私はその側にいたんだ───裸の私を抱きしめ、私を叱った。私を描き、私の額にくちづけ、満開の桜はこういう意味だと言った。
 ≪今ね、彼女を描きたいと思ってる≫
 どちらの『かずし』かわからなかった。
 ただ、あの夢を───夢の数々を私に見せていたのは、きっと縁さんだ……
 彼女の魂が『午睡』から抜け出して、私に取り憑いている。
 それはきっと……
 関谷さんは、関谷一志が亡くなった約1年後に生まれた。いつか守屋さんの言った言葉が現実味を帯びて思い出された。
 ───生まれ変わり。
 もし、本当にそうなら……いや、本当にそんなことがあるのだろうか? ただ、同じ名前というだけで、そんな風に考えてしまうのは、単純すぎる。
 ≪同じ名前の夭折の画家か。何か運命の糸が───≫
 中川さんの冗談が、冗談に聞こえなくなった。
 それ以上考えるのが怖くてたまらなかった。私は急いで廊下に飛び出し、アトリエの扉を閉めた。  

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