- 裸 -

 さらさらと紙の上を鉛筆が走る音だけが聞こえる。彼に心臓の音が聞こえてしまわないかしらと思った。窓から差す日差しの熱を素肌に感じていた。暖かくて気持ちいい。このまま眠ってしまいそう…
 頭ががくんと下がって目を開けた。
 スケッチブックを立てたイーゼルの向こうで、彼の目からすうっと強い力が抜けた。ふ、と笑う。身を縮めると、力抜いて、と言われた。私は再び目を閉じた。
 どうして私はこんなふうに落ち着いていられるのだろう。
 日の光に初めて触れられる肌。これまで知らなかった暖かさに心が溶けてゆくよう。さらさらと続き、時たま途切れる微かな音のリズムが心地よかった。
 いつのまにか私は眠っていて、気が付くと肩の上まで毛布を掛けられていた。こちらに背を向けて片づけをする彼。私は毛布を抱えるように立ち上がった。日は西に傾いて、薄暗い部屋の空気が背中に冷たい。身体を隠して、彼の背後に立てかけられたままのスケッチブックを見た。
 椅子に身体を斜めに預けて眠る私。
 恥ずかしくて毛布に頭まで隠れてしまいたかった。
 脱げる? と鋭い目で訊かれた時は躊躇した。どうして裸婦なんですかと聞き返した。
 ───心は服を着ないでしょう
 それで私は承諾したのだった。紙の上の私。未成熟の身体。振り向いた彼に、私で良かったんですかと訊ねた。
 慣れてるモデルは心を見せてくれない
 その答えに、ちくりと胸が痛かった。彼は女性の裸など見慣れているんだろう。モデルとして、絵描きの目で。
 …私の心は見えましたか
 うん
 彼は微笑で頷き、ありがとうと言ってスケッチブックをぱたんと閉じた。
 私の心が見えたのなら、彼には判った筈だ───畳んだイーゼルを壁に立てかけ、大きな鞄を肩に提げた。彼は部屋を出て行こうとしている。呼び止めると振り返った彼は、なあに? と少し困ったような顔で笑った。
 …どう思いましたか
 良かったよ。一所懸命やってるかと思えば、本当に寝てしまう度胸もある
 違います
 何が
 心です
 私をまっすぐに見る彼の瞳に戸惑いの色が浮かんで、すっと横に動いた───目をそらされて、胸がずきんと痛かった。
 こっちを見てください
 声が震えた。描く対象としてではなく、…私を。毛布を落とした。
 夕暮れの空の色が差す中、彼の瞳の強い輝きが私を射る。真顔で見つめられて顔をそらした。…寒い。
 す、と空気が動いた。───目の前にグレー杢のセーターの編み目。背中に押し当てられた掌。抱きしめられて、私は棒立ちのまま身を固くした。耳の上でぽつり、
 僕はモデルには触らない。でも
 そう言ったきり、間が空いた。背中の掌がわずかに動いて、びくりと身を竦めた。
 …今の君はこうしたいと思った
 そして彼は私を放すと毛布を拾って私の身体にくるりと巻き付けた。唇を結んで私を睨み、やがて音もなく深い息を吐いた。
 僕だって誘惑に負ける時もある。もうこんな事はしないで
 きっぱりと言って彼は部屋を出ていった。がくがくと震えていた膝の力が抜けて、私は床にへたりこんだ。絶望的な気持ちで背中を丸め、泣いた。




 ───どうして?
 夢の事が頭を離れなかった。目が覚めてからもベッドで背を丸め、頭まで布団にもぐり込んで、同じ場面を何度も回想した。
 満開の桜、微睡む人。あれは『午睡』だ。
 夢の中で関谷さんは、『午睡』を描いている。
 …あれは───
 ノックの音と同時に「千鶴、いつまで寝てるの」と母の大声。不承不承、床を離れた。日曜くらい寝坊させてと言ったら「日曜くらい家の手伝いしなさい」と返された。
 ベランダに布団を干して、ひなたに座った。ぼうっと、また夢の事を考える。ぽかぽかと暖かい。夢でうたた寝ていた時のように。
 ───しかも、私がモデルなんて。
 守屋さんの言っていた、≪絵に自分を見る≫を思い出していた。夢では和志さんが描いているから、…なのだろう。願望まるだしじゃないか。恥ずかしくて抱えた膝に顔を伏せた。
 夢の人と現実の関谷さんは違う人だ。
 『午睡』を描き、戸惑いながら、優しく私を抱きしめる。
 夢の人は関谷一志だ。
 その答えに行き着いた途端、目の奧がじーんとして涙が滲んだ。
 それは夢だから。現実とは違うから。…もう、居ない人だから。
 胸の中で、かずしさん、と名前を思い浮かべる。それがどちらの人なのか、自分にも判らなかった。




 心臓爆弾を抱えて≪睡≫の扉を開けた。私を身体ごと吸い寄せそうな『午睡』。挨拶もそこそこに、私はふらふらと絵に歩み寄った。
 きれいな人だ。美人というのとは少し違う。伏せた睫毛も頬に薄くかかる髪も、まぶたに落ちる淡い影も、柔らかそうな唇も───くちづけのように優しい筆跡。
 眩暈がしそう、と傍らの椅子の背に手を置いた。振り向くと茜さんがにこっと笑って「どうぞ」と言った。私はコートを脱いでいつもと同じカウンター席に腰を下ろした。
「日曜なのに空いてるんですね」
「日曜だからよ。学生さんとかお勤めの人が来ないの」
「あ、そうなんだ」
「いつも空いてるけどねー」
 あははと笑った。ティーサーバーを温める横で、茜さんはカウンターに両腕を組んで凭れ、顔を私に寄せた。
「木曜の夜においで。和志君来るから」
「茜、千鶴ちゃんはまだ高校生なんだから。酒場はまずいでしょう」
「酒場じゃなくて友達の家だもんねーえ?」
 あれから彼は毎週訪れているという。
 そうして殆どの時間を、『午睡』を見つめて過ごす。
 ≪僕の中の『午睡』を破れない≫
 まだ、描けないんだろうか。
「あんまりじっと見てるから、穴が空くって言ったら『空いたら奧を覗いてみたい』ですって」
 『午睡』に空いた穴の奧───
 さらさらと鉛筆の走る音。素描の裸婦。そんなものが彼には見えるだろうか…。心が見えたとあの人は言った。
「私も見てみたいです。穴が空けばいいのに」
「ええ?」
「空かないかな、穴」
「こらこら」
 私が『午睡』にじっと目を凝らすと茜さんは笑った。私も笑って、絵の隣の写真に目を移した。
 どうして和志さんの顔で夢に現れるのですか。
 それとも、あれはどちらの≪かずし≫でもないのですか。
 もう居ない人は答えない。
 その後、守屋画廊に足を延ばした。関谷さんの新作が見られるだけでいいと思ったけれど、やはり描けていないようだった。守屋さんは私にお茶を勧めて「頑張っているようですよ」と微笑した。
「この前会った時には千鶴さん、あなたの事も言ってましたよ」
「えっ!」カップを落としそうになった。「な、何て?」
「だから、絵を買ってくれた人が居るから頑張りますって」
「…はあ」肩から力が抜けた。
「ははは。なるほど…ははは。…は」
「…何がですか…?」
「うん。いや失礼…」と守屋さんは肩を揺らした。「こんな可愛いお嬢さんが応援してくれるんだ、そりゃあ関谷君もやる気になるだろうね。…はは」
「そんな…私なんて」
 手が震えてお茶をこぼしそうだった。カップを戻して両手をぎゅっと固く組んだ。
「…それじゃ『午睡』を見てからまだ作品は出来ていないんですね」
「酷でしたかね」と守屋さんは苦笑した。
「今年に入って、松が取れてすぐに関谷君が訪ねて来て、亡くなった関谷の事をいろいろと訊いてきましたよ。そして自分の作品の何を気に入っているのかと訊かれた。それでね、私は彼に詫びたんです。確かに、彼の名を知った時には友人の関谷を思い出さずにはいられなかったし、関谷さん…≪睡≫のマスターのおっしゃった通り、関谷の生まれ変わりじゃないかと思った事もある」
「…生まれ変わり…」
「私は仕事で作品を評価する。そうした私情は抜きにしていたつもりですが、彼の作品の何を気に入っているのかと訊かれればね、単純に、彼の絵が好きなんですよ。好きだからここに置く。それは評価に私情を交える事でもある。だから彼には申し訳なかった。好きな作家に、友人の作品を見てもらいたかった」
 私は黙って頷いた。守屋さんはお茶を啜って、
「関谷があんな亡くなり方をして、止められなかった事を心のどこかでずっと悔やんできたんですね。だから二人を重ねてしまったんでしょう」
「…止め…られたんですか?」
「……」
「ひどい…事故だったと聞いてます…。お葬式に顔も見れないような…」
「…ああ、事故…」
「違うんですか?」
 守屋さんは虚を衝かれたような顔をして、何度も頷いた。
「…あれは事故ですよ」
「どんな事故だったんですか。教えてください。関谷さんには…茜さんにも…絶対に言いませんから…」
 私は知らず身を乗り出していた。守屋さんは大きく溜息を吐いた。
「関谷君はもう知っていますよ。転落…いえ、投身…自殺だったんです。理由までは誰にも判りません。だから私達は皆悔いている」
 自殺───
「彼に聞いてもらって私は少し救われた気がしました。彼に関谷一志を重ねているからでしょう。それも彼は許してくれましたよ」
 ≪僕には関係ない≫
 あの時、関谷さんはこの事を知っていたんだ…
「私は彼を死んだ人間の名前で縛りつけてしまった。だが彼は『縁とはそうしたものでしょう』と言ってね」
 ───縁。
「若いのに、時々そんな達観したような事を言う。彼の絵にはそうした観念がある。私はそこが好きなんです。千鶴さん」
「…はい」
「関谷君を頼みますよ」
「…え?」
「あなたはとても素直だ。彼もきっとあなたの前ではほっとするでしょう」
「え、いや、そんな、私なんて、とてもとても」
 守屋さんはクスと笑った。
「二学期の成績が上がったそうですね」
「…あ、あの」
「関谷君も嬉しそうでしたよ」
「……」
「こうして彼を頼むなんて言ってしまうのもまた、関谷と重ねてしまっているんでしょうね。縁起でもないと怒られそうだ」
「…いいえ…」
 胸に突き刺さった。私は現実に存在しない≪かずし≫という人に彼を重ねている。
 夢の人を好きだなんてばかみたいだ───
 とぼとぼと歩いた。地下鉄駅の階段で、手摺に添って降りようとしたその時、
 ≪投身…≫
 ≪怖い?≫
 ふわりと足が浮いた気がしてバランスを崩した。思わず傍らの手摺にしがみついて尻餅をついた。階段を上って来た人がちらっとこちらを見て通り過ぎてゆく。怖くてすぐには立ち上がれなかった。ようやく手摺にすがって立ち、階段を降りた。




 強い風が私達の髪をなぶっていた。コンクリートの冷たい床に両手を突いて座り込んでいると身体が芯まで冷えてゆく。青紫の空の低い所に太陽がある。時間は無意味だった。私達にはもう…時間は要らない。
 何も要らない。
 そう思って彼を見た。私と同じように両手を突いて俯いていた彼に呼びかけた。
 顔を上げた彼の苦痛に満ちた瞳から、涙がひとしずく、こぼれ落ちた。




 あれから同じ夢ばかり見る。
 あれは、一志さんだろうか。
 身を投げる程、何を苦しんでいたのだろう───

 ≪地獄かもしれない。それは僕にしか判らない事≫

 木曜日、学校から一旦帰宅して、着替えてから≪睡≫へ向かった。守屋さんに「関谷君を頼む」と言われて舞い上がっているのかもしれないと思う。夢の人と現実の関谷さんは違う。何度も自分に言い聞かせる。現実の関谷さんは───電車のドアの脇に凭れて揺られながら、初めて彼と≪睡≫へ行く為に同じ電車に乗った時の事を思い出した。
 ≪嬉しくてつい『五百円』って言っちゃった≫
 きれいな───寂しい絵を描く優しい人。
 その絵を見るように、ただ、会いたかった。
 ≪睡≫にはまだ彼はおらず、マスターは私を見るなり「おや」と言って薄く笑った。
「茜は買い物に行ってますよ」
「茜さんの友達だから今、二十八、私」
「ははははは」
 マスターは高らかに笑って(初めて見た)、「いらっしゃいませ」と言ってくれた。
 まもなく茜さんが戻った。「そこで和志君に会ったよ」と彼女の後に続いて関谷さんが入って来た。私を見て「あれっ」と言う。以前ほどではないけれど、やっぱり心臓が暴れ出した。「こんばんは」と頭を下げたきり上げられない。
「こら。いいのか未成年が」
 頭にこつんとぶつけられた。目を上げるとそこにあった拳の指先が青く染まっている。
「…あ、関谷さん描いてるんだ!」
「え?…ああ、うん」
 青い指先を軽く擦り合わせてこちらを見た彼は、目を見開いた戸惑いの表情を見せ、次に目をそらして鼻のあたまを擦って苦笑した。彼の目が茜さんを見るので私も彼女を振り向くと、…背中が震えている。どうしたんだろう、とマスターを見た。マスターはにっこりして私に言った。
「千鶴ちゃん、いつもそんな顔で笑っていらっしゃい」
「…え?」
 ははは、と茜さんが笑いだし、関谷さんもカウンターに突っ伏して「うん、うん」と笑っていた。関谷さんが描いていると知って嬉しかったのだけれど、そんなにおかしい顔だったなんて。
 私が二十八歳と言ったとマスターから聞いて、茜さんが「アイリッシュコーヒーでいい?」と言った。夜の≪睡≫は照明のせいか、雰囲気が違う。グラスに温かいコーヒーの上には甘い生クリーム。体がほかほかしてきた。隣の関谷さんはいつものように水割りを飲んでいる。コーヒーの香りを深く吸い込んだ。
「───学校とバイトとで手一杯というのもあって、本当に余裕が無かった。それは今もだけど。だからこうやって余裕を作ってみてる」
 彼は苦笑混じりにそう言って軽くグラスを揺らした。カラ、と氷のやわらかな音。
「千鶴ちゃんは? 今日はどうしたの」
「…遊びに来たんです。と言うか、いつも、ここには『午睡』を見に来ます。今日は…茜さんがおいでって言ったから」
「和志君がいつも一人でぼーっと飲んでるから。暗い。暗いよー」
「そんな事ないですよ。ここには彼女に会いに来てる」
 彼女、の所で関谷さんはちらっと『午睡』に目を遣った。
「黙ってるのは彼女と話をしてる」
「それが暗いんだって」
 二人は軽く笑った。茜さんは「好みのタイプ?」とからかうように訊いた。
「そりゃもう。裸ってところが」
「やーらしいわねえ」
「真面目に答えたのになあ」
 関谷さんはくつくつ笑った。───心が見えるから? そんな事を思った。
「この絵を一志さんの心象風景と捉えても、彼女の肖像と捉えても、…彼女はとてもきれいです」
 そう言って彼はグラスに優しい視線を落とした。
 ≪今の君はこうしたいと思った≫
 動悸が速くなる。
 関谷さんがマスターに訊ねた。
「他に彼女を描いたものはあるんですか?」
「いいや。これ一枚きりだよ」
「あ、あの…」思わず口を挟んだ。「習作、スケッチ、あるんじゃないですか」
「…あったけれどね。一志が亡くなった時に、このモデルの女性に形見分けで差し上げたんです。今はありませんよ」
「その、その人は、今、どう…」
「千鶴ちゃん大丈夫? ふらふらしてるよ」
「うわ、酔ってる、この顔は」
「…今、どうしてるんですか…」
「うーん。ウイスキー入れすぎたかな?」
「亡くなったと聞いてる」
 目が回る。
 ウイスキー? アイリッシュコーヒーって、お酒だったの?
 関谷さんに肩を抱かれて凭れた。「強制送還だな」と聞こえて首を横に振ったら頭の芯ががんがんと鳴った。「気持ち悪い」としがみついた。
「…茜さん、もうこれに絶対飲ませちゃだめ」
「うん。つくづく思った」
 私もつくづく思う。もうお酒なんて飲まない。  

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